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 絵理さんの話を人にしたことはあまりない。面倒を避ける処世術みたいなものだったのかもしれない。父の後妻。子どもの立場で語るにはどうにも荷が勝つ続柄だ。変な噂が立っても嫌だった。私は絵理さんのことが、ちゃんと好きだったから。

 外を一緒に歩くときには、二人称を使わない話し方を敢えてした。「お母さん」とも「絵理さん」とも呼ばなかった。絵理さんは、そんなふうにする私の気持ちを分かってくれていたと思う。私のことは「わーちゃん」と呼んだ。咲子の「咲」は昔「わらう」と読んだのだと教えてくれた。

「きっと、蕾がほころぶ瞬間みたいに、ずっと幸せに笑っててほしいって思ったんだよ」

「ずっと?」

「ずっと」

 はじめからおわりまで――「子」はその子の一生に捧げる、親の願いだから。絵理さんはそう言った。

 私を産んだ母親のことを、私はほとんど憶えていなくて、母が付けたという名前の意味も知らなかったし、興味を持ったこともなかった。母の私を想う心さえも、私は絵理さんを通して知ったのだ。

 絵理さんは物静かな人で、その口はいつもキュッと綺麗に閉じていて、全然、声をあげて笑ったりはしなかった。

 だけど、私が何か嬉しいしらせを抱えて絵理さんの方へ駆け寄ったりすると、その顔が少しゆるんで、微笑んでくれて、私はその顔が好きだった。「ほころぶ」ってこういうことなんだろう、と思った。

 そういうところで、やっぱり結羽は、絵理さんにちょっと似ている。


 

 絵理さんと父は大学のゼミで出会った。絵理さんは二つ学年が上の院生で、学部生の父の世話を何かと焼いてくれたのだという。大学を出て、就職して、結婚してその相手と死別した父と再会したのは、お互いに三十を超えた頃で。絵理さんには結婚願望はなかったそうだけど、父が根気強くアタックしたらしい。

 絵理さんは私にもだいぶ手を焼いてくれた。授業参観にも運動会にも来てくれた。宿題も見てくれたし、大きなプールにも行った。

 仕事は辞めていなかったけれど、勤務時間・日数を相当減らしてくれていたらしい。それを許してでも引き留めたいような人材から仕事を奪ってよかったのか、私には分からない。それから数年後に亡くなった絵理さんが、もっと仕事をしたかったと思って死んだなら、それは私がいたからで。

 自責の念とまでは言わない。けど、そうじゃなかったならいいとは、ずっと思っている。



 亡くなる少し前、入院先の病院で、絵理さんの腕に残った古い傷痕を見た。右の肘から手首までにかけて、何か所か縫ったような痛ましい痕に、私はハッと目をみはった。

「昔、犬に噛まれたの」

 私の視線に気付いた絵理さんは、そう言って右手を布団に隠した。犬に?と聞き返した私は、しかしそれをちっとも信じてはいなかった。絵理さんも、それには応えなかった。

「お母さんが守ってくれたんだね」

 本当に幼い頃、おぼろげだけれど、たぶん母が死んで間もない二つ三つの頃、誰かにそう言われた。私はどこか、神社か何かの石段から転げ落ちて怪我をしたらしい。今でも膝頭を見るとうっすらその痕が残っている。たぶん病院で、看護師さんかお医者さんかに言われたんだ。これくらいの怪我で済んだのはお母さんのおかげだよ、と。

 物心も付く前で、記憶なんてほとんどないけれど、その言葉だけはぼんやりと覚えていて、私はずっと、死んだお母さんが私を守ってくれたんだと思っていた。絵理さんの腕を見るまでは。

 違った。あのとき私が軽い怪我で済んだのは、石段を落ちる私を、絵理さんが身を挺して守ってくれたからだった。そうだ。あの日私は、お父さんと、絵理さんと一緒にいたんだ。それで、私を庇った絵理さんが大怪我をして、病院に行って、私が看てもらったのはそのついでだった。私は膝をすりむく程度で済んで、その代わりに絵理さんは腕を何針も縫うことになって。そんな絵理さんを見て、病院の人たちは私の母親だと思い込んだんだ。

 それで私は、誰に守られたかも忘れて、母親に、感謝なんてしていたんだ。

「絵理さん……ごめんね」

 涙ぐむ私を見て、絵理さんは困ったように微笑んで、体を起こした。

「なんにも、謝ってもらうことなんてないよ」

 右手が私の頬に伸びる。親指が、こぼれた涙をそっと拭う。

「なんにも」

 傷痕が見えて、また涙が溢れる。

「謝らなきゃいけないのは、私のほう」

 そう言って、絵理さんは真っ直ぐに私を見た。

 私はそれにどんな顔をして返したのだろう。分からない。

 誰も、何も言わないままに時間が経って、やがて、右手が私の頬を離れた。

「わーちゃん」

 また横になって、預けた体重のままに、ベッドに少し沈んで絵理さんは言った。

「私、お手紙書くから。死ぬまでに絶対。ちゃんと、ぜんぶ分かるように書くから、だから、大人になるまで取っておいて。大人になったら、わーちゃん、読んで……」

 私は、自分が分かってないことなんて何も思い当たらなくて、何を知らないのかも分からなくて、だから、何も言わずにただ頷いた。絵理さんは、ありがとう、と言って、自分の涙を拭った。私は、絵理さんがいつから泣いていたのかも分からなかった。ずっと正面から見ていたはずなのに。

 その手紙は、今でも私の手元にある。けれど私は、絵理さんに、大人になったよと言う勇気が持てなくて、いまだにそれを開けていない

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