7

 一日分として決めているページ数を終えて、数学の問題集を閉じる。時計を見る。思ったよりも時間が無くなっていて、ベッドに体を投げる。

 何をするにも、ちょっと足りない。そろそろ次の配信もしたいと思っていたけれど、今日は諦めると決めてユーチューブを開く。ブルーライトが画面から溢れ出て、気だるい頭を、醒まさないまま眠りから遠ざける。

 ホーム画面を流し見する。私の好みを踏まえたレコメンドのはずなのに、今日はなぜだか心が吸い付かない。指が画面を弾いて、スクロールがカラカラと流れていく。

 検索のマークを押して、咲子さんの会社の名前を入れる。どうしてそうしたのかは分からない。

 アルバイト・添加物・知られざる歴史・火事・労災死亡事例・パワハラ――入力した会社名と紐付けられて、いくつか同業他社のものも紛れ込ませながら、雑多な動画が列を成す。夕方に昴と見たものらしき動画も、小さなサムネイルになって混ざっている。ずっと怒鳴られていた老人の、黙ったままむくれた、赤ちゃんみたいな唇を思い出す。

 咲子さんも、こんな画面を見たんだろうか。その死体を見たという、仕事仲間のことを思いながら。

 気が滅入る動画群を分け入るなかに、反射する陽の光を写した、眩しいサムネイルがひとつ見つかる。動画タイトルには、会社名を間に挟むかたちで【闇】・【いのち】と書いてある。

 指先で触れて、動画を開く。

 

 

 開いた画面に、よく晴れた屋外の光景が映し出された。背景に何かの工場らしい、飾り気のないトタンの壁が映しだされる。作業服姿の細身の男が一人、小さな箱のような物を手に提げて立っている。

「ここに、は、配管が通ってるんですけど」

 男は爪先でこつ、こつと、足下のトタンを蹴って、カメラの方を向く。顔を隠すためなのか、頭にはビニール袋を二重に被っていて、表情はまるで判らない。大手スーパーマーケットの名前が、逆さになって風に揺すぶられている。

「こ、この裏に、冷凍庫があって……業務用の、物置くらいの、大きいやつなんですけど。十分もいたら、死んじゃうような……マイナス、二十度くらい……すごく寒くて、凍死しちゃうんですね」

 たどたどしい口調で何かの説明をしているけれど、誰もそれを聞く者がないような――画面には一人しか映っていないのに、まるで街中で皆に無視される姿を見ているような――実態のない孤独感が漂っている。長い指が、水道の蛇口を掴む。

「それが、この蛇口に繋がっています。配管が冷凍庫の横を通って、す、すぐここになるから、ここの水はとても冷たいです」

 蛇口を捻る。少し待って、水が流れ出る。指先で触れて、冷たいです、ともう一度言うけれど、当然こちらには伝わらない。固定のカメラは、物言わず男を映しつづける。

 水を止めると、男は手に持った蛍光緑の何かを、蛇口の足下に置く。バヂヂヂ、と、薄い翅の擦れる音がして、私はその正体に気が付く。虫かごだ。プラスチックの、編み目をそのまま直方体にしたような、オモチャみたいな虫かご。男はそれを、何故だか縦に置く。塔のように立つかごのなか、何匹かの虫が底に落ちて、寄り集まっている。

「今からこの水で、虫たちの命を洗って、殺します」

 そう言って、男はスマホを取り出し、不器用に両手を使って操作する。やがて、その手元からラジオ体操の音声が流れ出し、男は蛇口を捻ってから体操を始める。蛇口から出た水はそのまま虫かごを縦に突き抜けて、荒々しく虫たちに降り注がれる。羽音。虫同士ぶつかって、矮小に炸裂する。

「ラジオ体操は、僕たちは、毎日やっています。だから、体が覚えています。そういうものは、シュに使えます」

 男の長い手足が忠実に指示をなぞる。羽音の数が減る。弾ける水と遠いカメラでよく見えないけれど、底の方に動かない影が溜まっているのは判る。

 こんな風に命を弄ばれる虫たちは可哀想だったし、一方で虫の死骸の山なんて想像するだに気色悪かった。男の筋張った手や足首も昆虫めいて気味が悪かったし、知能も未発達であるように感じられた。

 男が口にしたシュという言葉の意味は分からなかったけれど、おそらくは何らかの儀式の要素を採った単語で、けれど、しっかりした知識に基づくものではないだろう。根拠といえるほどのものはない。多少なりとオカルトコンテンツに触れてきた身としての、ちょっとした直感だった。

「む、虫は、冷水に弱いです。体温が下がるからです。何匹かは即死したでしょう? これくらい弱いです。ふっ、水で死ぬことが大切です。き、清らかな、供物になります。熱湯は、ふっ、虫の体が火傷するので、よくないです」

 体操を続けたまま説明をするものだから、息が切れてしまっている。なんだかすべてが貧相で、みじめで、どうしてこんな動画を見ているんだろうと思う。

 体を大きく回す運動に合わせて、男の指先がかごを引っかけて、静かに横に倒す。難を逃れて張りついていた生き残りの腹に、水がかかって熱を奪う。その淡々とした執拗さに、私は、グッ、と唾をのむ。

「シュをかけます。祈りは口にしないことです。目を閉じて、頭の中で、み、短い言葉で、送ります」

 そう言って、男は言葉通り無言になる。ビニール袋の下で、おそらく目も閉じているのだろう。体操の指示に従って、ジャンプしながら手足を開き、閉じる。虫かごだけが、水流の弾ける音で騒がしい。

 男がふうっ、と息を吐く。すると、ほとんど同時に、

「ピギィ!」

 と何かが鳴いた。

 私は不意を突かれて、ひっ、と声をあげるが、画面上の男はまるで動じない。虫の声だ、と直感するけれど、すぐに理性がそれを否定する。そんなわけない。虫にあんな声は出せないはずだ。けれど、じゃあ今の悲鳴は何? 何が、あんな声を……?

 めぐる思考をよそに、深呼吸で体操が終わる。男は背筋を伸ばし、カメラに向かって頭を下げる。端正に整った、見惚れるくらいに綺麗な礼だった。

「ありがとうございました。せ、成功だと思います。最後に、仕上げです」

 両手の指が、丁寧に、頭のビニールを一枚だけ掴んで、ゆっくりと剥ぎ取る。その拍子にちらりと覗いた口元は満足げな、邪気のない笑みを湛えていて、首元には無数の青あざが浮いていた。私はまた息をのむ。

 男の手が虫かごをビニールの中に置いて、そのまま冷水を注ぎ込む。満杯になったところで、何度も、堅く口を結ぶ。袋の白に水没した虫かごの緑が、ふわふわと透けて見える。

「ありがとうございます」

 男は、嬉しそうに声を震わせて、言う。

「これで、ら、ランドセルが買えると思います」

 よかったです、と聞こえて、動画が終わる。

「……父親、だったんだ」

 呟いて、思わず口を押さえる。言ってはいけないことを言ったような、罪悪感がせりあがってくる。だって、こんな……呪いと、サンタクロースの区別も付かないような、人間が……。眼球のすぐ裏側に、涙が滲んでいるのが分かる。

 そしてなぜ、自分がこんな動画を最後まで見てしまったのかも理解する。

 見捨てられなかったんだ。

 哀れで、空虚で、見るからに弱いこの男の姿が、知らず私を同情させていた。可哀想だと、思わされてしまっていた。

 だから私は、こんなにもちっぽけで愚かな、ふさわしべからざる誰かの父親を、見捨ててしまうことができなかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る