6

 部室のドアが素直に開いて、ほっと胸をなでおろす。私はもう部員じゃないから、もし鍵が掛かっていても、職員室では借りられない。オカルト研に決まった活動日はなく、気が向いた者がふらふらと立ち寄って会を成す。ダメ元で戸を引いたけれど、幸運だった。

 机に突っ伏せていたすばるが顔を上げ、お、と口を開く。

「結羽じゃん。めずらし。やっぱ受験勉強やんなった?」

「帰ったらやるよ」

 お邪魔します、と言って、手近な椅子に腰を下ろす。どーぞどーぞ、と昴が笑う。部室には昴しかいなかった。そもそもの部員数が一桁だから、こんなことも珍しくない。

「なになに、何の用?」

「読書。読み切っちゃおうと思って」

 鞄から文庫本を取り出す私に、昴は、ふーん、と相槌を打つ。

「なに、お父さん家にいんの?」

「今日? いないよ」

「じゃあ……」

「いるのは姉」

 咲子さんのケガは、本人も言っていた通り大したものではなかった。一応頭を打っていると言うことで病院で検査もしたけれど、特に問題も無し。

 だから、咲子さんは次の日にでも職場復帰するつもりだったのだけれど、上司のほうからストップが掛かった。大事を取って数日間休むように言われたらしい。しっかり労災として処理されて、休暇が降りた。報告書にどう書くんだろ、と笑っていたけれど、私には笑いどころがピンと来なかった。

 昨日、学校から帰ると、咲子さんはスマホを開いて、何も言わずに天井を見つめていた。

「でも、お姉さんはなんも言わないんでしょ、それ」

「言わないよ。やさしいから」

 ページが減って、ヘロヘロになった文庫本から栞を取る。咲子さんは私が本を破くのを咎めない。本当は何かしら思うところはあるのだろう。私の部屋に来た咲子さんはいつも、目線の端で私の本棚を見ている。私もまじまじとその顔を見たりはしないけれど、そこにあるのは、たぶんポジティブな感情ではない。

 それでも何も言わないでいてくれるのは、きっと、お父さんのやり方が気に入らないからだ。

 あの日、お父さんは、私と分かりあうことを諦めた。

 私が悪かったのかもしれない。突っぱねるような言いかたは避けたつもりだったけれど、それでも、間違っていないだろうとは思っていた。そんな気持ちのまま、分かってほしいと重ねた言葉は、お父さんには、自分を言いくるめようとするものに感じられたのかもしれない。私も、少なからず反省はしている。

 だけどあの時、お父さんがああ言って目を閉じて、私を拒絶した瞬間、私は今まで感じたことのないほどの、おおきな淋しさに襲われた。ぎゅっと心がすくみあがって、後悔と悲しみで胸がいっぱいになった。それは本当に、息さえできなくなるほどで。

 あんな気持ちになるなら、叱られたり、殴られたりした方がずっとマシだった。

 あの後、お父さんを追って部屋を出た咲子さんは、ちょっとしてから、心配そうな顔で戻ってきてくれた。そうでなかったら、私はきっと、ボロボロに泣きわめいていたと思う。

 そしてその咲子さんが今、何かをずっと考えている。だから今日、私はここで放課後を過ごすことにした。

「なるべく独りにしてあげたいの。私がいたら、たぶん邪魔だから」

 思い悩む時間が咲子さんに必要なら、こうして支えてあげたいから。

 たぶん破るであろうページに指をかけ、文字を追ってそれをめくる。

「ああ、あれか。失恋?」

 昴が目を輝かせて言う。私は曖昧に返す。現実にそぐわないロマンチックな響きが、どこか滑稽でくすぐったかった。

「……昴」

「はいな」

「姉が昨日聞いてた曲、聴いてみる?」

「曲? 聞く。なになに?」

 昴のスマホを借りて、ユーチューブで検索をかける。出てきた候補を適当に開くと、昨日リビングで渦巻いていたのと同じ歌声が流れだす。昴の顔が、困惑で見る間にくもる。

「いや、なにこれ」

「社歌」

「シャカ?」

「姉の会社の歌。大きめの集会とかで歌うんだって」

「うわ」

 男声の合唱で歌われているその歌は、勇ましい調子で、清い志を掲げている。よりよい人格の確立をめざす従業員たちと、彼らを守り育む会社という歌詞の構図には、具体的な労働の影は差しておらず、ふとすると、どこかの学校の校歌のようでもあった。

 昴が苦々しい顔で言う。

「こういうの、一生歌うことになるのかな」

「やだよね」

「うん」

 さっきのページを、結局破りとる。

 要らないページが沢山ある。大切なページが見えなくなるくらい。だから破いた。大切なページだけで本棚がいっぱいになったらと想像して、胸が躍ったから。それが、始まりだった。

 そうして今、また一枚、ページを破く。

 昴は鞄からイヤホンを出してきて、だらりとスマホをいじっている。

 静かになった部室は、どこよりも読書が捗る。家の、自分の部屋よりも。私が部を辞めたと聞いて、咲子さんは何かあったのかと心配してくれていたけれど、なんてことはない、くつろげすぎてしまうから籍を抜いたのだ。そろそろ、受験に備えたかったから。

 七、八年前、咲子さんも受験をした。私はまだ小学生だったから詳しいことは分からなかったけれど、毎日夜遅くまで勉強していて、偉いなあ、と思ったのを覚えている。

 けれど、咲子さんは受験に落ちた。それで咲子さんの学生生活が終わるなんて、当時の私は全然分かっていなかった。

 後になって聞いた話だと、お父さんは、咲子さんに国公立の受験しか許さなかったらしい。それでも足切りは免れて、二次試験までは行ったのだけれど、そこで躓いてしまった咲子さんは、そのまま後期入試にも敗れた。お父さんもその頑張りを認めてはいたのか、一年までなら浪人してもいいと言ったようだけれど、咲子さんは就職の道を選んだ。

 今の会社の採用を勝ち取ったとき、やっと合格だよ、と言って咲子さんは笑った。その顔に、やりきれない気持ちが滲んでいるのは、子ども心にもちゃんと分かった。

 お父さんはまだ、私には受験の話をしていない。実際どうしようか、思案しているのだと思う。けれど私は、たとえ許されても、国公立以外を受けるつもりはない。

「結羽ー」

「何?」

「やばい動画見ちゃった」

 パワハラ告発だって、と言って、スマホの画面をこちらに向ける。顔を近づけると、咲子さんの会社の制服がふたつ、画面上にぼやけて映る。隠し撮りされた映像らしい。昴がイヤホンを取ると、片方がもう片方をなじる、けたたましい怒号が飛び出してくる。

「ひどくない? 怒鳴られてるのおじいちゃんじゃん」

「若者相手でもダメだけど」

「いや、そうだけどさ」

 そうだけど、そうじゃないじゃん、と昴が頬を膨らませる。顛末なんて何も分からないまま、唐突に途切れるかたちで、動画は終わる。コメント欄にあふれる、いかれる人たちの声の群れがぼんやり見える。私は文庫本に目を戻す。

 破くかどうか迷うページがあって、結局破かずに指元に寄せる。本当はこんなこと、いつ辞めたっていいと思っている。大切なページだけが集まった、かつての理想の本棚を想像する。

 そこにある本は、咲子さんに貸してあげられないんだな、と思う。

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