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「母親の望みはなんだったんだろうね」

 壁の向こうで、妹が言う。私の部屋の、備え付けのクローゼットの中、ぶら下げた洋服群を割って奥の壁に背中を預けると、結羽の部屋の物音がかすかに聞こえてくる。

 結羽は時々、インターネット上で配信をしている。と言っても、使っているのはユーチューブのような大きなプラットフォームじゃなくて、スマホひとつで簡単にできる、マイナーな生配信アプリ。

 映すのは簡単な絵のアイコンで、ほとんど声だけを使って配信するそのアプリは、大学生や若い社会人がよく使うものらしい。配信を職業にしている企業所属の配信者なんかはほとんど見かけない。個人的趣味の範囲で、視聴者を相手におしゃべりを楽しむ配信の場だ。

 スマホの音を消し、耳をすまして、画面に映った魚のアイコンを見る。

「気持ちは分かる? そっかあ……私は正直、全然わかんないな」

 魚以さかなもエリン。結羽は、インターネット上ではそう名乗っている。


 

 魚以エリンは、怪奇事件やホラー風味の小話を仕入れてきては、みなに披露する情報通の語り部、ということになっている。けれど実際は、エリンの語る話はすべて、結羽がつくった創作だった。

「作り話かどうかなんて、リスナーは全然気にしてないよ」

 そう言って、結羽はちいさく首をかしげた。

「ここではみんな、自分を偽って配信してるの。でもそれは、そんなネガティブな意味じゃなくて。アバターの……架空の自分になりきってる、みたいなかんじ」

 そういう文化に触れてこなかった私のために、結羽は慎重に、分かりやすい言葉を選んでくれているようだった。みんなで幻想を共有してるんだよ、と言われてもピンと来ない私に、さらに言葉を重ねてくれる。

「私が名乗っている通りの人間じゃないことも、私の話が創作だってことも、実際みんな分かってるの。だけどここでは、その嘘を信じるていでいることを、暗黙のルールというか、大前提として参加してるんだよ」

 怪談なんかと同じだね、と呟くけれど、それは伝わらなくてよかったのか、説明は追加されなかった。

「楽しいよ。なんか、自分が新鮮になるかんじで」

 そう微笑む結羽を見て、それならいいか、と私も笑う。

 配信アプリをスマホに入れたのは部活を辞める少し前だったらしい。初めはリスナーとしてちょっと覗く程度だったようだけれど、段々とハマっていくうちに、発信側に立つ意欲が湧いてきたという。

 お父さんには秘密ね、と言って、結羽は私に、過去の配信の履歴を見せてくれた。その回数は十回を超えていて、知らずにいた妹のバイタリティに、ちょっと打ちのめされるような思いさえした。

 今夜、魚以エリンが語っていたのはこんな話だった。


 

「今からだいたい十年くらい前かな。地方の、いわゆる自殺の名所って呼ばれてるような森の奥でね、男の子が三人、集まって死んでいるのが見つかったの。レンタカーを使っての、練炭自殺」

 背にした壁が結羽の声に震えて、クローゼットに小さく反響する。こうして魚以エリンの配信を覗いていることを、私は結羽に教えていない。

「三人は同じ大学に通う大学三年生で、普段から交流があったみたい。一人が病院で処方してもらった睡眠薬を三人で分け合ってね。仲良く、眠りながら死んだの。苦しんだ形跡はなかったって話で……」

 エリンの配信に集まるリスナーは、お世辞にも多いとは言えない。いつも大体二十にいかないくらいの人数だ。

 こんなもんだよ、と結羽は言っていたけれど、もうちょっと増えてもいいよな、なんて私は思う。

「遺書はなくて、三人とも上京して大学に通っていて、つまりは実家を離れていたから、自殺の理由なんて誰にも分からなかった。遺族はみな悲しんだけれど、同時に煮え切らない思いを抱えてもいた。

 自分の子はなぜ死んだのか、他の二人の影響はどれほどだったか、集団自殺のイニシアチブは……誰にあった? 三組の親がみな、口にこそしないけれど探りあっていた。

 そして数ヶ月後、一人の母親が沈黙を破った。自分の息子は残りの二人に殺されたんだと言い出したの」

 スマホ画面の底から、ぴょ、ぴょ、と吹き出しに入ったコメントがポップアップする。

 配信を見ている視聴者は、思い思いのコメントを送ることができる。配信者は口で、リスナーはコメントで、言葉を交わし合うところに、インターネット配信の双方向性がある。

 少ないとは言ったけれど、そんな中にも常連のリスナーというものはいて、彼らはいつもエリンの話に、気持ちのいい相槌を打ってくれる。

 一方の私はというと、彼ら常連者のなかに紛れ、目立たないアイコンを目深に被って、コメントはせずにエリンを見ていた。

「その母親が主張の根拠にしたのは、息子のつけていた日記だった」

 別に結羽から、配信を見ないように言われているわけではない。こんなふうにコソコソしなくても、たぶん結羽は受け入れてくれるだろう。

 ただ、私は踏み込みたくなかったのだ。

「日記は大学一年の夏休みからつけ始めたもので、こういう、キャンパスノートみたいなやつを使ってたんだけど、毎日一行とか二行とかでも書くと決めていたみたいで。死亡した三年の秋までに、だいたい三冊と半分くらいになってたの。

 それで、見つかったそれを母親は読んでみた。だけど、どうも暗くない。自殺に向かうような感情が見つからない。母親は、息子が生きているうちには気付いてあげられなかったそれを、どうしても理解したかった。そんなの、どうしたって、手遅れではあっても。

 だから、母親はそれを、息子の心の影を、懸命に探して……」

 魚以エリンの配信は、結羽が自分でつくったひとつの居場所だ。私はそれに、ズカズカと入りこんで踏み荒らすようなことはしたくない。だから私は、身を潜めることを選んだ。

 たとえば結羽が、どうしても一人になりたいようなときに、ここを逃げ場所にできるように。

「でも結局、そんなものはどこにもなかった」

 から、から、と氷の音がする。壁の向こうで、結羽がジュースを飲んでいる。

「日記には楽しそうな大学生活や、将来を考えつつもどこか楽観的な人生観や、一年前から付き合っている、かわいい彼女のことなんかが書いてあった。それだけ。息子を死に追いやるような感情なんて、欠片も顕れなかった。死の前日まで、ずっと。

 彼女と別れ話にでもなった? うん、それは母親も考えたんだけどね、

 でも、そこまでお熱かといえば、そうでもないかんじで。実際、結構恋愛観はラフだったみたい。この関係がどうにかなっても、それで死ぬほどには思えない、っていうのが母親の結論だった。

 それで、あれは自殺じゃない。お前らの息子が、無理やりうちの子を巻き込んで死んだんだ。殺したんだ。って、他の自殺者の実家に怒鳴り込んだの。

 特に睡眠薬を分け与えた子なんかは、徹底的に疑いを向けられた。警察が間に入ったりもしたんだけど、母親の怒りは全然収まらなくて、そのうち嫌がらせにまで発展していった。中傷ビラをまいたり、トマトとか卵とかを家の壁に投げつけたりね。

 もちろん警察沙汰になって、そっちはそっちで事件としてしっかり処理されることになったんだけど、一方で母親の主張、彼女の息子は自殺じゃない、という話についても、改めて捜査の手が入ることになった。

 現場の状況で集団自殺と判断されたけれど、そうじゃない可能性は残っている。

 もちろん、日記にすべての感情が書かれているわけじゃない。本当に当たり障りのない部分だけ日記にする人だっている。だけどそういうことまで含めて、とりあえず、生前の彼の生活をもう一度精査してみるってことになった」

 ふっ、と息をつく。エアコンを付けていても、クローゼットの中は蒸し蒸しと暑い。

 トマトと卵を家の壁に投げつけられたのは、たしか、父方の伯父さんの義父だった。近所に住むおばあさんに車をぶつけて怪我をさせてしまい、その息子から恨みを買ったのだ。まだ私も結羽も幼かったころ、何回忌かの祖母の法事で、親戚同士話すのを聞いた覚えがある。

 あの時、私がそれを聞きながす傍らで、結羽はすこし涙ぐんでいた。可哀想だと、両方の掌を、ぎゅっと握り閉めながら。

「警察は日記を元に彼の交友関係を洗うことにした。そしたらね、思いのほかすぐに、ひとつの結論が出たの。

 それは、この日記はまったくの虚構である、ということだった」

 コメントが一気に流れ出す。おお、とか、ひっ、とか、思い思いの感嘆が、湧き上がって消えていく。

 私は、分かっていたわけじゃないけれど、不思議と腑に落ちるような気持ちで、妹の話を聞いていた。

「そしてその後、この日記を書いたのは、母親だったということも分かった」

 うん。そうだよね。

 汗ばむ体に、かき分けた洋服が次第に貼りついていく。鬱陶しい。そう思いながらもそのままにして、目を閉じる。

 結羽の声が、壁なんて無くなってしまったかのように、近くに聞こえる。

「だけどね、母親の偽造はけっして下手なものじゃなかった。むしろとんでもない精巧さだったの。

 中に時たま書かれていた、授業とかお祭りとか、そういった日常の出来事はほとんど事実通りの日付だったし、字も筆跡鑑定じゃ区別されないくらいに似通っていた。だからこれは、本来、偽物と断定するのは難しいくらいの仕上がりだった。

 ある、一点を除いて」

 結羽にとって、母親とはどういう存在なんだろう。わからない。そんな問い、私は、自分自身についても答えられない。

五十鈴いすずユウコ」

 ぼすっ、と音がして、声がさらに近くなる。結羽もまた背中を壁に預けたらしい。

「彼が交際していたというその彼女。この子だけが、どこにも見つからなかった。大学だけじゃなく、行動範囲のほぼすべてを当たっても、そんな女はどこにもいない。

 それで母親を問い詰めると、存外あっさりと、日記の偽造を認めたの。三冊半、全ページ、、その字を真似て自分が書いた、と。

 本物の日記? それをどこにやった。そこに何が書いてあった。問い詰められても、母親は答えない。知らない、分からないの一点張り。あげくには、日記は五十鈴ユウコが持ち去った、なんてことまで言い出す始末。

 そしてすべてを認めてなお、母親の主張は変わらなかった。今でも、ずっと言ってるんだって。息子がみずから死を選んだなんて、考えられない、って」

 結羽が長い息をつく。それは、長い語りがもうすぐ終わろうとしている合図だった。そうして、誰にともなく、問いかけるように呟く。

「母親の望みはなんだったんだろうね」

 慰みに想いを偽造された息子。独りよがりな救い。

 自ら創った虚構を、哀れむように結羽は言った。

「こんなの、弱すぎるよ」

 魚以エリンという名前には元ネタがある。魚見うおみしずかと大沓おおくつ絵理えり。私の母親と、結羽の母親。お父さんの先妻と後妻。二人の死者の旧姓名から、少しずつを借り取ってハンドルネームを作っている。

 絵理さんは、お母さんが死んで数年経っての、お父さんの再婚相手。綺麗で、優しくて、大好きだった。私が思いのほか懐いたから、お父さんも再婚を決意したんだろう。亡くなったのはそのまた数年後、結羽を産んで三月みつきばかりの夏の暮れだった。

「今日はもう終わるけど、最後に少しだけ言い忘れの追加。五十鈴ユウコについて」

 疲れを隠せていない声を連れて、壁の向こうの体が立ち上がる。そうしてそのまま、向こうへと遠ざかっていく。

「五十鈴ユウコについては、母親に聞いても詳細が判然としなかった。

 どうも、母親はこの子が実在すると思い込んでいたみたい。息子がその名前を口にするのを何度も聞いたと警察の取り調べで答えていて、そんな子はいないと説明しても全然ダメ。取り合う気配すら見せない。彼女のことを語るあいだ、母親はずっと忌々しげに顔を歪めててね、合間合間に、一杯になった感情を溢すみたいに、言うんだって。息子が死んだのはアイツのせいだ。絶対に許せない、殺してやりたい、って」

 私はずるずる姿勢を崩して、もたれかかる形になった壁を、こっ、こっ、と聞こえないくらい小さく叩く。胸の間あたりに、緩く締まるような息苦しさがうっすらと立つ。

 気付かずに済まそうと思っていたことを、ふと認識してしまったからだ。

「そうして、母親が起訴された日の晩、今までその蛮行を黙ってみていた夫が、自宅の寝室で首を吊った」

 五十鈴、ユウコ。

「そしてその足下には、ユウコを探してきます、とだけ書かれた遺書が置いてあったの」

 この名前は当然、妹の名、石動結羽から来ているのだ、と。

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