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履歴書の写しを頼りに、町外れの団地までやってきた。築年数は結構経っていそうだけれど、近年になって塗り直したのか、外観は色鮮やかで、それが妙にこの場から浮いて見える。奥間くんは父親と二人、このなかの一室に住んでいる。
「面倒かけてごめんね」
お昼を食べ終えてここへ来る準備をしていると、大越さんに声を掛けられた。すこし訛りがあって、それがかえって穏やかな調子になるような、人好きのする口調。
いえいえそんな、と手を振る私に、大越さんは一瞬周囲を見回して、それから小さく頭を下げた。こんなことでも、なるべく目立たないほうがいいんだろう。気を遣われる側にも気苦労があるんだなと、ぼんやり思った。
駐輪場の屋根の下、暑いだろうからと渡された塩飴を口に入れて、これがなくなったら行こう、と決める。まだ夏になりきらない季節のじっと湿気た晴れ間が、薄あさぎ色の団地に垂れかかっている。
《幽霊が出ます。》
履歴書の後ろから、例の安全日誌を取り出す。元のリングファイルには表面だけのコピーを差し込んでおいた。こんなものは管轄工場にファックスした後はまとめるだけまとめて誰も顧みない、いわば死蔵品で、私が頂戴しても気付かれることはない。
「なんで、なんて。訊かないからね」
あの辺の部屋だ、と当たりを付けて、眺めながら独りごちる。
奥間くんが来なくなった理由をちゃんと知っている人間は、おそらくいない。ただ大抵の場合、こういうのは人間関係が原因で、だから今回もそうだろうなと、ほとんどの人が思っている。私もそう。こんなことは何度も起きてきたことだ。
毎日が繰り返しの単調な業務。閉鎖的な職場。まるで刺激に飢えるみたいに、製品課は常にどこかしらで人間関係のトラブルがある。誰と誰が揉めている、なんて話はもはや定番で、事務室ではいちいち話題にあがることもない。解決・解消に向けて動こうなんてつもりは誰にもなくて、現場の人間も含めて皆、そのうち収まるところに収まるだろうと期待して放っておいている。私もそうだ。
「辞めちゃったほうがいいよ」
奥間くんは大学を出ている。こんなところじゃなくても、きっと働ける。手続きだけチャッチャと済ませて、ぷいっと切り替えてしまえ。
ポジティブシンキングを代行して、小さくなった飴を呑みこむ。蟻を見下ろしてしゃがむ子どもを避けて、団地の入口へ進んでいく。
「すみませんねぇ、こんなもんしかなぐて」
頭をぐらぐらと頷かせながらそう言って、奥間くんのお父さんは、紙パックから注いだ麦茶を出してくれた。お礼を言って口を付ける。味はあまりしないけれど、渇きには妙に沁みるお茶だった。
「なんが食べもんあったっかなあ」
「あの、本当にお構いなく……長居はいたしませんので」
後ろ姿に声を掛けるが、耳が遠いのか反応がない。棚を開けてゴソゴソと探っている。
参ったな、と思う。そもそもは上がり込むつもりもなかった。連絡が付かないような家庭は、基本的に会社とのやりとりを面倒がっていることが多い。だから私も、人が出て来ようものならとりあえず退社用の書類だけ渡して、制服と合わせて郵送してくれればいいのでと頼んで去るつもりだった。それがなぜだか、いやに腰の低い父親が出てきて、あれよあれよと招き入れられてしまった。
失礼にならない程度に部屋のなかを見回す。男二人の所帯と聞いて想像するよりもはるかに、スッキリと片付いている。リビングにも、一緒になった台所にも、およそ生活に最低限必要なものしかない。電話機は床に直置きで、テレビはない。ゴミの分別表とバスの時刻表、遊びのないカレンダーに並んで、奥間くんのシフト表が貼られている。
「どうぞ、
テーブルに置かれた大皿には煎餅と寒天ゼリーが載っていた。なんだか家庭訪問みたいだ、と思う。
絵理さんが生きていた頃、何度か私の保護者として家庭訪問のホストをこなしてくれた。お盆に載った、ちょっと値の張る個包装のお菓子。余ったそれを貰える、ちょっと嬉しいイベントとしか思っていないような私のために、絵理さんがどれだけ心を砕いてくれていたか知れない。
「そんで……どうなんでしょう」
正面に座った父親が、袋に入った煎餅を手に取って切り出す。
「
左の掌に持った煎餅を、右の拳が殴って割る。思わず肩が跳ねたのを見てか、しぃませんね、こうせんと食べづろぉて、と父親は言う。袋の中の欠片を指で捕まえて、更に細かく折っていく。私は鞄からファイルを出して、テーブルに置く。
「本人次第、ですね。戻ってきていただけるならそれでも構わないんですが、なにぶんお休みになってから連絡が取れなかったもので。こうしてお邪魔したのも、本人の意思確認と、もし退社の意志が固いようであればその手続きをさせていただきたいと思って、ということで……」
「あんのバカがぁ」
父親が、テーブルから少しスペースを挟んで広がる襖を睨みつける。おそらくその向こうが奥間くんの部屋となっているのだろう。
「息子さんは、何時ごろ戻られる予定ですか」
「あぁ? いんや、ずっどそこにいますよ。引き込もりよるんです」
「え」
きょとんとする私を前に、父親が叫ぶ。
「おい真樹夫ぉ! お前会社の人来よるんぞ! 出てこんかボケェ!」
襖からは何も返ってこない。らぁ!ともう一度叫んで、父親は頭を下げる。
「しぃま、せん」
息が切れて、途切れ途切れになる言葉。
それを見る私の心も揺れてよさそうなものだけれど、自分でも不思議なくらいに醒めてしまって、いえ、とだけそっけなく返す。
「そういうことなら、こちらとしても少しは待てますので。よく考えていただいて、そうですね……一週間くらいを目処にご連絡いただければ」
「あのぉ!」
テーブルを叩いて、父親が立ち上がる。
「……なんでしょう」
きっと今、私は、ひどい軽蔑の顔をしている。
「真樹夫は、職場でいじめられとぉですか」
「……そういったことは、今現在把握していませんが」
一応の事実で答える。あり得ないと思っているわけではないけれど、奥間くんが誰かにいじめられている、という具体的な話を耳にしたことはない。
「そう、ですか……」
「息子さんがそう仰ったんですか?」
「いや、そうじゃ、んく……」
父親は、言いづらそうに目を伏せる。
「ただ……そういうことがある場所やち、言うとったですから……」
そう言って、顔を上げないまま黙ってしまう。
私は、ふう、と小さく息をついて席を立つ。
「それについては、こちらでも調査いたします。息子さんにはひとまず、今後どうするかをご検討いただくよう、よろしくお願いいたします。
それでもしもう辞めたいというのであれば、書類を置いていきますので、制服と合わせてお送りください。もちろん、着払いで構いませんので」
父親が縋るような目で私を見る。私は、それには応えずに頭を下げる。
そうして部屋を出ようとすると、背後で
「……ぃぬが」
思わず振り返ると同時に、父親が手に持ったものを襖に投げつけるのが目に入る。
「負け犬がぁ!」
盆代わりの大皿が、菓子を振り落としながら飛んでいく。皿は情けないくらいに柔らかく襖で跳ね、そのまま落ちる。割れた煎餅と薄い麦茶とが、小規模に床を汚していく。
「ちょっと……」
見かねて声を掛けるが、父親は吠えつづける。
「おまえに、いくら投資したち思っとる! 大学まで行がせたって……なんのためじゃ!」
両手の拳が、痛みに構わないような速度でテーブルに叩きつけられ、折りたたみの脚の留め具が外れる。傾くテーブルの上で、残された物ものがよろけ、倒れる。
「そうやって逃げて、逃げて、逃げて逃げて! そうやってあんなカス仕事になったんに、そこからも逃げるんか! あがなもん、高卒でも中卒でもできるとやぞ! ゴミぃ! ゴミ、いつまでじゃ!」
「やめ……」
「いつまでおれを働かせるんじゃ!」
父親の顔が真っ赤になって、その怒りが極点に達したらしき、その瞬間だった。
――ガタン、と、襖の向こうで音がした。
なにか、ある程度大きなものが、そこそこの勢いでもって倒れたのであろう、音が。
部屋は瞬時に、不自然なほど静まって、私と父親は顔を見合わせた。
「……お、くま、くん?」
先ほどまでの興奮が嘘だったかのように、父親の顔からはすっかり血の気が引いていて、目を見開いたまま何も言わない。私たちは、きっと、同じような想像をしている。
たとえば、襖の向こうでは、いま倒れたばかりの椅子がしんと横たわっていて、その上に、ぎぃ、ぎぃ、と奥間くんの影が揺れている――といった、ような。
しずかに、泥棒にでも入るみたいに、足音を殺して襖の前に立つ。
「奥間くん……いるの?」
襖をノックする。ごわ、ごわ、と緩慢に襖が鳴って、背中の下のほうから、不吉な予感が這い上がるのを感じる。父親が何かを言おうとする。私は小さく、うるさい、と言う。襖を少し引く。つっかえ棒か何かがあるものと思っていたけれど、詰まる様子はない。もう一度、うるさい、と言う。
「開けて、いいかな……」
返事はない。思い切って襖を開ける。遮断されていた光が真っ暗な部屋に差し込んで、宙に舞うほこりの表面で輝く。倒れた椅子も、首を吊った奥間くんも、とりあえずは見当たらない。
ひとつ息をついて部屋を見回すと、隅っこで縮こまって、奥間くんが座っている。
私は安心すると同時にその視線に焦ってしまって、胸の奥でもつれる言葉を、どうにかして口に出す。
「ぎょ……業務の、石動です。ごめんなさい、あの、今後について、直接お話ししたくて……いい、かな。嫌だったら、もちろん出ていくけど……」
こんなこと、明らかに職権を超えている。そもそも家に上がりこむような形になった時点でおかしいのだ。私は教師じゃないし、奥間くんも子どもじゃない。事務的なことで二、三言葉を交わしたことがあるだけで、関係らしい関係だってない。引け、帰れ、と思うのに、一歩、部屋に踏み込んでしまう。
奥間くんの目が、私を映す。
想像に反して、奥間くんは朗らかな表情で、その目にも敵意は感じられない。なんだか嬉しそうにも見える。それはまるで、助けが来た、とでもいうような顔で。
「職場で、何か困ってるなら、私から……いろいろ相談して、回ってもいい。もちろん、もう嫌だっていうなら、辞めたっていいの。正直言うと私もね、辞めちゃっていいと思ってる。そ、そんな、いい職場じゃないし……。
だから、引き留めに来たわけじゃないの。ただ、手続きはちゃんとした方が、次を探す時に困らないから……」
奥間くんは動かない。ただ、私を見ている。
私は身をかがめて、奥間くんのいる隅へと寄っていく。
「こういうのは後腐れなくした人の方が、その後も……」
話しながら、一歩、二歩と進んで、ふと、ずっと抱えていた疑問がよみがえる。
「……ねえ、奥間くん」
伸ばした手が、奥間くんの肩に届く。
「《幽霊が出ます。》って、なに?」
すうっと、奥間くんの体が、私の手と反対側に傾いていく。そうして、身を小さくしたまま、床にガタン、と倒れる。また、静かになって、ほこりが舞って。誰も動かない。
奥間くん、と呼びかける声は、喉に溜まって、もだえて、煙のように消えてしまう。膝を折って、その顔を見る。
肉本来の白を浮かべた肌。青く濁った唇。弛緩した瞳孔は、私を見てなんかいなくて。
奥間くんは縮こまっていたのではなく、折り畳まれていたのだと、ようやく私は理解する。
「死んでんだよそれ」
聞き覚えのない声に振り返ると、奥間くんの父親が部屋の入口の向こうに立って、頭を掻いている。背が伸びたように見える。錯覚に襲われるようで気持ちが悪い。
「俺が殺した。石動さんさあ、警察呼んどいて」
そう言って、父親はどこかへ歩き出す。
「ど……どこ行くのよ!」
思わず叫ぶ私に、父親は一言、
「コンビニ」
と答えた。
私は弾かれるように立ち上がって、玄関前の父親に掴みかかる。勢い余ってそのまま倒れ込み、下になった父親の体が鈍い音を立てる。
「コンビニ!」
「ふざけんな! 呼んどいてじゃねえだろ! おまえ、お前が、殺し……」
「お腹空いちゃったの! あートイレ!トイレも行くからぁ! 離して!」
「ふざけんなてめえ! 人殺し! 実の息子を殺しておいて!」
「死んじゃったの!」
「だからっ……じゃったじゃねえんだよ! 殺したんだろ!」
「ちっげぇよお!」
父親は抑え込む私から逃れようと身をよじり、頭を左右の床にガンガンぶつける。上着が裂け、老いた鎖骨が合間から覗く。
「あいつが死んだの! 俺は殴って、殴ってもぉ!全然黙らねえから首絞めちゃっただけ! そしたらあいつが、俺の手を抑え込んで……離れなくて! 死んじゃったの!」
気がつくと、私は父親の顔に拳を振り下ろしていた。あああん!と悲鳴があがる。
気持ち悪かった。さっきまでとは打って変わって、ビチビチと力が漲っている老体も、急に流暢になった標準語の物言いも。
もう一発殴ると悶えた拍子に上着が裂けきり、醜い虫の羽化のように、茶けた体がするりと
「自殺! 自殺ぅ! もういいだろ! コンビニ行くから!」
上半身裸のまま、父親は外へと飛び出していく。捕まえようと思ったが、脚が脱力してうまく立ち上がれない。バランスを失って、頭をドアにぶつけてしまう。加えて反射的に出た手がドアポストの金具で掠れて、じゅっと熱い傷を負う。痛い。気持ち悪い。
心臓の鼓動が速まって、おさまらない。
どこかで犬が鳴いている。子どものころに見た傷跡を思い出す。
手に取ったスマホで、どうにか一一〇番を打ち込むと、そのまま意識が遠のいていく。
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