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 家に帰るとリビングには妹――結羽ゆうが座っていて、テレビでニュースを流しながら、退屈そうに文庫本を読んでいる。

「おかえり」

 視線を文庫本に落としたまま、結羽が言う。その姿に、私はほっと息をつく。

 ただいま、と応えて、鞄をソファーに置く。ニュースでは、今年初めての台風が南の海上で生まれたと報せている。

「台風来るんだ」

「うん。関東も通るみたい」

 自転車寝かせておかないとね、と小さく笑う。

 四、五年前、大型の台風がやってきて、立てたままだった私たちの自転車を絡みあうようにひき倒し、どう転がしたのか、ベコベコに歪めてしまったことがあった。私はもう自転車を使わない生活をしていたけれど、結羽は毎日通学に使っていて。だというのに、結羽の自転車の方が、ずっと致命的に壊れてしまっていた。わ、と驚いた結羽の、丸くなった目を覚えている。

 ジッ、と紙の千切れる音がする。

「お父さん、もう帰ってくるよ」

「うん」

 立ち上がり、軽く伸びをして体を捻る。結構長い時間、ここに座っていたらしい。

「もうちょっと読むから、ご飯できたら呼んで」

 栞を挟んで本を閉じ、テーブルの上に溜めたページの束もクシャっと掴んで回収する。

「レバニラね」

「やった」

 こちらを見ずに言ってドアを開け、廊下へ出る。階段を上る、やわらかな音が聞こえてくる。

 結羽は、本を破く。

「要らないページを取ってるの」

 私たちが初めてそれを見た日、父に咎められ、結羽はそう答えた。彼女が高校生になって一年、何部かは知らないけれど入っていた部活を突然辞めて、放課後を家で過ごすようになった頃のことだった。

「いつか読み返すときに、読まないところを取ってるの。大切に思うところだけを残すのが、自分のものにするってことでしょ?」

 そう言って、妹は父を見た。

 床には破りとられた小説のページが十数枚、慎ましく畳まれていて、本棚には、ガリガリに痩せた本たちが、覚束ない身を寄せ合って並んでいた。

 父ははじめ、やめなさいと言った。私も、口を挟みはしなかったけれど、それに賛成だった。そんなに深い理由はないけれど、行儀のいい行為とは思わなかったから。

 けれども結羽は、悪いことをしているわけじゃない、と言って譲らなかった。

 元々、私や父とは関心の置き所が違うような節はあった。たぶん、母親に似たのだと思う。結羽の思考はどこか観念的で、私なんかから見ると、なんだか遠い場所のことを考えているようにも感じられた。けれど同時に、聞き分けのいいところもあって、何か言われれば基本的にそれに従っていたし、こんなふうに真っ向から反抗することもなかった。

 やっぱり、部活を辞める時になんかあったのかな、なんて心配になる私の前で、二人のやりとりは数分間続いた。いくらかの言葉が交わされて、噛み合うことなくすれ違う。床に直置きされた教科書の山が、滑るように、気だるげに崩れた。

 わかった、もういい、と父が言った。

「それなら、それをするのは、父さんのいないところでだけにしなさい」

 え、と声が漏れた。

 今の、本当にお父さんが言ったの? そんな疑問が湧くほどに、冷たく響く言葉だった。パタン、と、閉じる音が聞こえるような拒絶を示して、父の目はかたく瞑られている。

 待ってよ。こんなの、何の解決にもなって……。

「わかった」

 少し間をあけて応えた結羽の声は、可哀想なくらいに震えていて。

 丸く見開いた目は、いつか見たよりもずっと、暗い悲しみを湛えていた。

 父はそれに言葉を返さず、目を閉じたまま一度頷いて、そのまま部屋を出て行った。私はすぐにその後を追う。待ってよ。いいの? 結羽が、あんな顔してるのに……。

 階段の中腹から、賢い子なんだがなあ、とこぼす、父の声が聞こえてきた。

「知性の使いかたを、間違えている……」

 それから、長い息をひとつ吐いて、亡くなった結羽の母親の名前を呼び、簡素に詫びた。

 私の足はそこで止まってしまった。父の背中を追うことができなくなって、階段の上で立ち尽くした。

 なんだ、それ。呟いた声は、高い天井に吸い込まれていって。

 卑怯者、と震えて消えた。


 

 以来、父は結羽の部屋に近づかなくなった。だけど、変わったのはそれだけだった。

 私たちはみな、あの日のことはあえて忘れて、昨日までと同じ暮らしを続けることを選んだ。胸の内にもやつく思いに、触れないことで家庭を守った。

 結羽が読書を辞めなくてよかった、と思う。今でも、毎月定額のお小遣いのほとんどは、本に変わって彼女の本棚に並んでいる。結羽が本を読むのを見ると、私はきゅっと嬉しくなり、安心する。

 私は、結羽にお金をあげるようになった。欲しいという本を買い与えたこともある。数千円ぽっちのために、結羽の気持ちがアンフェアなところに追いやられるのが嫌だった。

 労働なんて大嫌いで、このままあそこで働きつづける人生なら死んでしまおうかと思ったことも一度ならずあったけれど、こうなって初めて、働いていてよかったと思えた。

 だけど、時々考える。

 結羽には、働いてなんかほしくない。もし働くのだとしても、労働らしい労働なんかじゃなくて、もっと意義深い、創造的で、人間的な活気に満ちた――私とは、違うような仕事がいい。

 そうして、ちゃんと幸せになってほしい。

 こんなのは押しつけだと、自分でもわかっている。私は結羽を通して、自分の夢を見ているのだ。

 わかってる。まるでどこかの浅はかな親みたいな、こんな気持ち、絶対に正しくないことくらい。

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