窒息と犬ケラ
玉手箱つづら
1
本日分のデータ入力を終え、ふっと息をついた手で、薄っぺらな紙を摘まみあげる。
安全日誌。作業中に発見した危険箇所を挙げさせる、当番制のアンケート。下らなさそうでいて、実際、現場での安全意識を持たせる効果はバカにならないらしいそれを、裏に表に返して眺めていると、
「一週間かあ」
「そうなんですよ。連絡も全然で」
「まあ、もう帰っては来ないだろうね」
「ですよねえ」
かじり聞きだったけれど、すぐに
大越さんは数年前に役職を退いて事務に転課した元製品課係長で、真志係長の先輩にあたる。相談半分・愚痴半分の会話からは溜め息なんかも漏れ聞こえてくるけれど、チラリとそちらに目をやってみると、さほど参った顔でもない。
「あいつ今日夜のシフトに入ってるんで、一応そこまでは待つつもりですけどね」
大っぴらでこそないけれど、隠すつもりもないらしい声量。諦めの共有なのだろう、と私は思う。ぼんやりと聞き耳を立てている事務室全体に、奥間たぶんもう辞めちゃうよ、とうっすら伝えている。どこまで意識的かは知らないけれど、現場職の人たちは結構こういうことをする。まあ、正式に手続きする段階で急に知らされるよりかは、ずっといい。
ひら、と、手に持った紙ペラを裏返す。
九日前の安全日誌。書いたのは奥間くんだった。
《幽霊が出ます。》
奥間くんは真面目な子だ。ほとんどの人間が適当に書く日誌の項目にもしっかり回答していて、表は優等生の提出物そのもの。だから、その裏に書かれたこの落書きに、私以外誰も気付いていない。先のまるい鉛筆で書いたらしい、霞んだ一言。
「……ほんとに?」
呟いて、ないない、と一人笑う。そんなもの、噂すら聞いたことがない。夜中じゅう配送のトラックがグルグルしているような食品工場の出張営業所に、霊のひそむ隙間などないのだ。夜になったら灯りを消して眠る程度の情緒を持ち合わせている場所にこそ、彼らは佇み、人を待つ。
なんて、すべて妹からの受け売りだけれど。
「誰か、亡くなった人とかいるの?」
私から話を聞いて、初めに妹がした質問がそれだった。私は、いない、と首を振った。
「お墓とか病院とか、事故があった場所とかも、近くにない?」
「ないよ」
「じゃあ出ないよ」
膝元にやった目を伏せたまま、妹は言った。滞りなく畳まれる洗濯物が、いくつかの山となって彼女を囲う。
「幽霊が出るのは死に触れているところだけ」
ぽ、ぽ、と、洗濯物をやわらかく叩いた手が、そのまま上をすっと滑って表面を均す。
「死んだ者たちの、魂の影が幽霊なんだから」
逆に死がある場所なら、通りすがりが集まっちゃったりして、ぽこぽこ湧くんだけどね、と、見知ったようなことを言う。妹は、なぜだかこの手の話に詳しい。
「でも、日常生活に急に出るタイプのやつもいるでしょ? なんか……電話かけてくる人形とか、下校中急に話しかけてくるやつとかさ」
「そういうのと幽霊は違うよ。そういう定番のお化けとか都市伝説とかってもう実際一種のキャラクターだし、想定されてる実態を考えてみても、えっと……ただの化け物でしょ? 超常的なだけで、在りようは生者と同じ。幽霊みたいに曖昧じゃない」
構いたくて吹っかけたような疑問も、さらっと返されてしまう。
「幽霊なら私は信じてるけど……でも、
「嘘ってこと?」
「うん。嘘っていうか、ただのイタズラなんでしょ」
きっと真面目に働くのが嫌になっちゃったんだよ、とつまらなさそうに言って、会話は終わった。
その次の日から、奥間くんは会社に来なくなった。
「明日でよければ、家に行ってこようか」
「お願いできますか。作業服とかも貸与したままになっちゃってるんで」
「うん。オーケーオーケー」
「ありがとうございます。助かります」
真志係長が大越さんに頭を下げる。きっとこれを頼みたくての相談話だったんだろう。
話がまとまったところでドアが開いて、
「お。真志くん、行ってきましたよ例の店。もうほんと、絶対次はないようにって、大変ご立腹でした。ほんと頼むよ」
「はい。すみません、ご迷惑をおかけしました」
謝罪の言葉を鬱陶しそうに、あー、いいから、と払って、そのままオフィスチェアに身を投げる。
「まあそういうことだから。で、何? またなんかあった?」
「奥間のことで」
「奥間?」
「一週間来てないんですよ」
「はあ? おまえ、なんでそんなほっといてんだよ!」
生田係長が声を荒らげて、事務室の空気が張り詰める。聞こえない程度の溜め息の群が、薄く絡まって、足下に消えていく。
「電話は?」
「何度かしてるんですけど、通じないですね」
「携帯か?」
「携帯も、
「あいつ実家暮らしだろ。誰も出ないのかよ」
「出ないですね。通じてないわけじゃなさそうなんですけど」
「なんだあ、それ。おかしいだろ」
言い捨てながら背中を起こして、深く座り直す。ぎっ、と椅子の背が苦しそうに鳴った。
「だから明日、僕ちょっと家に行ってきますから」
大越さんが横から助け船を出すけれど、生田係長に収まる気配はない。
「なんで大越さんにそんなことやらせるんだよ、お前が行くところだろう!」
「無理ですよ。いま
「僕は構わないですから」
「ダメですって、大越さん」
大越さんは生田係長から見てもベテランの先輩だ。形のうえでは上司と部下の関係だけれど、なんというか、とても慮られている。言葉遣いも丁寧だし、雑用なんかも、あんまり下働きすぎることはやらせない。
けれども、真志係長が言ったように、いま製品課は忙しい。社を挙げたキャンペーンで出荷量が増える時期なのに、このひと月で二人が退職している。奥間くんを含めて三人の欠員ぶんの穴を急遽雇ったアルバイトでどうにか埋めようとしているけれど、まだまだ戦力になっていないのが現状のようで、それは生田係長も分かっているだろう。
「
誰よりも大きな息を吐いた後、生田係長が私を呼ぶ。
「悪いんだけど、頼まれてくれるか?」
私は不満の気持ちなんておくびにも出さずに、わかりました、と答える。
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