第44話「窮地からの脱出」

 轟くようなアヴァサスの笑い声が、部屋中を満たした。


「むろん、今ここで雌雄を決してやってもよい。が、長い時間をかけて手に入れたこの体を失うのはさすがに得策ではない。あるいはディファトらの到着を待ち、大勢のカラクタどもの手によっておまえたちを捕らえさせることも、考えぬでもなかった。はてさて、いったいどうしたものか」


「まるで弄んでるみたいに言うのね」


「そうではない。我とて戸惑い、考えてあぐねておるのだ。今の状況をどう導いたものかとな。おまえたちとの会話が長くなってしまうのもそのせいよ。しかし一番の収穫は、ということだ、ストレイ。やはり相手を知るには己をさらけ出すに限る」


「おれを、知れた?」

 アヴァサスの嘲笑に呑まれ、うまく言葉が出ない。


「つまり――こういうことだ」

 アヴァサスがそう言った直後、ラスティアの身体が宙に浮きあがった。その身体を蛇のような形状をしたエーテルが一気に巻き付き、締め上げていく。


「ああ!」

 ラスティアの苦痛の叫びが漏れるのと、シンの瞳が根源色に輝き、アヴァサスへと向けられたはほぼ同時だった。


「動くなストレイ」

 アヴァサスがシンの動きを制す。

「わずかでもおまえのエーテルを感知した場合、この娘の骨という骨が砕け散る音が部屋中に響き渡ることになると思え」


「ラスティア様!」

 レリウスが宙に浮いたラスティアを悲痛な表情で見上げる。


「離せアヴァサス!」

 根源色に輝くシンの瞳がアヴァサスを睨みつける。


「今度は先ほどのように真綿で首を絞めるような真似はせん。おまえのエーテルの扱いひとつで娘の命が終わると思え」 

 シンの握りしめた掌に、爪が食い込む。


 アヴァサスの雰囲気とやりとりに呑まれ、ラスティアへの攻撃を防ぐことはおろか、相手のエーテライズに気づくこともできなかった。


(なにしてるんだおれは! いったいなんのためにここへ来たと思ってる!)


 しかし、アヴァサスのエーテライズは驚くべきものだった。エーテルを扱い、発現に至るまでの初動や予備動作というものがまるでないのだ。シンのようにエーテルを呼び寄せたり、自らの手や足に集約させ、放つといった行動が、この相手からはまったく見られなかった。


 まるでアヴァサスの頭に思い浮かべたことがそのまま実現されているかのように。


 いくらシンの方がより膨大なエーテルを扱えるとはいえ、その発現の速さは格段に劣っていた。


「ストレイよ、取引といこうではないか」

「取引だって?」

「今我が望んでいるのは、ラウル王に成り代わりこの国を思うがままに操ることだ。しかしこのままおまえとやり合えば、我が負けることはないとはいえ、この躰を失ってしまうことは十分ありえる。故にストレイよ、フィリーの娘の命と引き換えに――この国を出よ」


「なんだと」

 答えたのはレリウスだった。

「そんな、シンがいなくなったらラスティア様は――おまえがラスティア様を開放するという確証などない」


「さきほどは用がなくなった故殺そうとしたが、今は違う。我が取引をもちかけているのは誰あろう、ストレイだ。この娘がいる限りその行動を縛れるというのであれば、いくらでも丁重に扱おう――むろん、ラウル王暗殺の罪からは逃れることはできんがな」


「そんなこと、できるわけないだろ」

 シンが断固とした口調で言う。


「勘違いするな、おまえに決定権はない。おまえが王宮に来てから今にいたるまで、その言動すべてを観察し続けてきた。この娘を見殺しにして我と戦うという選択肢は、おまえにはない」


 絶句した。まさにそのとおりだったからだ。唯一違うといえたのは、たとえ捕らわれたのがラスティアではなくレリウスや他の誰かだったとしても、その命を見捨ててアヴァサスに立ち向かおうなどとは絶対に思わなかったということだった。


 アヴァサスを睨みつけるシンの瞳の輝きが急速に弱まっていく。


「我がエーテライズを解いたのち襲い掛かろうなどという考えも捨てるがいい。おまえより遥かに早く発現させることなど造作もない。ましてやこの場には、もうひとり人質もいる」


 アヴァサスの視線がレリウスへと注がれる。しかしレリウスはあまりにも無力な自分に打ちひしがれてでもいるのか、宙に浮かぶラスティアの足元で立ち尽くすことしかできなくなっていた。


「し、シン……ひい、ては、だめ」

 息が詰まるような沈黙のあと、ラスティアのかすれた声が響いた。


「ラスティア!」

「いま、このば、で……う、たなく、ては……あ、あヴぁさ、すを……せ、かいが……」


「黙れ」

 アヴァサスの言葉に反応し、蛇のようなエーテルがさらにラスティアを締めあげていく。

 ラスティアの口から声にもならぬ叫びとともに鮮血が噴き出た。


「やめろアヴァサス!」

「ならばこの場を退き、我も感知できぬほど遠くへ。そう、東の彼方へでも消え去るがいい!」


 そのときシンを含め、レリウスも、そしてアヴァサスでさえも、決して予想だにしていないことが起きた。


 すさまじい叫びとともにラスティアがアヴァサスのエーテルを消滅させ、床へと落ちる勢いそのままに傍らの剣を拾い上げると、シンすら目で追えないほどの速度でアヴァサスへと迫り、そして――一気に剣をその胸へと突き刺したのだった。


「……なんだと」

 いったい何が起きたのか。驚愕に目を見開いているアヴァサスは、自らの胸に突き刺さった剣と、その場に崩れ落ちたラスティアとを交互に見つめた。


「ラスティア!」

「ラスティア様!」

 シンとレリウスが瞬時にラスティアのもとへと駆け寄る。


 ラスティアは見るからに異常な呼吸をくりかえしていた。不規則に肩を上下させ、全身は痙攣でもしているかのように細かく震えている。

 なにより、シンたちの呼びかけにまったく答える様子がなく、うっすら開いた翡翠の瞳は虚空を見つめることしかできなくなっていた。

 

「……今の動きは、なんだ。『持たざる者ハーノウン』であるはずのおまえが、なぜ、我のエーテライズから逃れられた」

 まるで痛みを感じていないのか、表情を変えるどころか苦痛に喘ぐ声ひとつ漏らさず、アヴァサスは首をかしげた。


 剣の柄に両手を添え、躰から引き抜こうとするが、背部まで見事に貫通している剣はぴくりとも動かなかった。

 

 初めてアヴァサスの顔が、驚愕のそれへと変わる。

「剣にまで、エーテルだと――まさか貴様、……!」

 まるで生気の感じられない双眸が、シンたちを――すでに意識もなくなったラスティアを射抜く。


「ルナを削るって――どういうことだ、ラスティアに何をした!」

 シンがラスティアを抱き支えながら叫ぶ。


「器によるエーテルを扱えないかわりに、のだ。特殊な業をつかうとは耳にしていたが、まさか、こんな真似を仕出かしていたとは……エーテライザーと同等か、それ以上の力を発揮できたのも、これで納得がいく」


「命を、代用って――」

 その言葉が何を意味するのかは、ラスティアの状態を見れば明らかだった。


 思えばラスティアと初めて出会ったときも、彼女は常人とはかけ離れた動きでもって相手を圧倒していた。しかしその後は、よくわからない症状に襲われ、しばらくの間は一人で起き上がることもできなくなっていた。


「思いつきや生半可な修錬でできることではない。そのような生易しい業ではない。人は、いくらそう意志したところで己の命を懸けることなどできはせん……いったい誰に教わったのかは知らぬが、まさに狂気の業よ――恐れ入ったぞ」

 そう告げた瞬間、アヴァサスの操るラウル王の膝が、がくりと折れた。


「刺されただけなら、どうとでもなったものを……エーテルまで纏われては、な。真に意志せん限り、発揮できんわけだ」

 今まさに自身が倒れようとしているというのに、アヴァサスの顔には陰鬱な笑みが広がっていた。そのことが余計、シンとレリウスの不安と恐怖を駆り立てた。二人はできるだけアヴァサスからラスティアを遠ざけるかのように後ずさった。


 ラウル王の躰からは、さきほど目にした紫色の光のようなものが立ち昇り、霧散しようとしていた。


 シンとレリウスはラスティアを庇い、身を寄せ合いながら、一時も目を離すことなくその様子を伺っていた。


「さすがに、この躰に留まるのは無理か……だが、このまま退場というのも興を削ぐ」

 そう言った瞬間、シンの張っていた障壁がものの見事に破壊され、中に入ることを許されなかった兵たちの喧噪が一気に耳へと飛び込んできた。


「聞けアインズ兵よ、世を助けるのだ!」

 アヴァサスの声が――いや、が部屋中に響き渡る。

「すでに宰相とローグは倒れ、余もラスティアに刺された! 早く世を助けるのだ!」


 唖然とするシンとレリウスの前で、アヴァサスは不敵な笑みを浮かべながら、床へと突っ伏した


「ラスティアと共にまた会おうぞ、ストレイ……我が宿敵よ」

 最後の光がラウル王の躰から離れ、そして見えなくなった。


 ラスティアを抱きかかえていたシンは、怒号を上げながらこちらへ向かって走ってくる兵たちになぞ目もくれず、ひたすら目の前の存在を――ラウル王の抜け殻を見つめていた。


 今起きていたことが、まるで夢であったかのように、その身体は動かなくなっていた。


「……シン」

 隣でぽつりと、レリウスが言った。

「ラスティア様を連れ、この場から逃げてくれ。二人でこの国を出るのだ」


「アインズを出る? ラスティアを連れて?」

 目前に迫る兵たちの喧噪にまぎれ、隣にいるシンですら聴き取れないほどの声だった。だが、レリウスは間違いなくそう言った。

「ならレリウスも」


 しかしレリウスはゆっくり首を左右に振った。

「いくらシンでも二人を連れて逃げるのは難しいだろう。なにより私には、ここですべきことがある。ラスティア様の……いや、私たちの正しさを主張し続けるという、な。今回のことはすべて私の無能さ故に起きたことだ」

「そんな――レリウスも一緒に逃げよう」


「駄目だ。私は、あの驚くべき存在のことをなんとしても皆に周知させなければならない。これは我が国だけに留まる話ではない。あやつがなぜこの国を乗っ取ろうと企んでいたかは知らぬが、闇の創造主を語った以上、その脅威は必ずやエルダストリー全土へと及ぶ――だから、シン。ラスティア様とともにエル・シラへ向かい、ラスティア様のお父上でもある護国卿パーヴァスにすべてを伝えてほしい。アインズに派遣された巡察士ロードはすでにリザ王女とローグによって接触されてしまっているというなら、こちらはアーゼムの中枢に赴き、真実を語るしかない」


「こ、これはどういうことだ!?」

 取り囲む兵たちを乱暴に掻き分けてきたディファトが目を見開きながら叫ぶ。いったいどこへ目をやったらいいのかわからない様子であちこちに視線を向けながらも、ようやくレリウスに目を留める。


「レリウスおまえ――いったい何があったというのだ。なぜ、父上を……!?」

 ラウル王の死を偽っていることしか聞かされていないはずのディファトにとって、今の状況を理解することなど到底できなかっただろう。

「まさか、そこに転がっているのはルーゼン、なのか――入り口に倒れているローグも、皆おまえたちが、殺したというのか!?」


 何とか説明しようにも、言葉一つ出てこない。必死にディファトの顔を見つめ返すことしかできなかった。


「行ってくれ、シン!」

 突然、レリウスが叫んだ。

「そしてラスティア様と共に我が国を――エルダストリーを救ってくれ!」


 その言葉に突き動かされたように、シンはラスティアを抱え上げると、こちらを取り囲んでいた大勢の兵たちの頭上を瞬時に飛び越えた。

 最後に振り返ったとき、唖然とするディファトや兵たちに囲まれたレリウスが、穏やかな笑みで頷くのが見えた。


「レリウス――くそ!」

 扉の傍にいる兵たちをエーテルで吹き飛ばし、外へと出る。


 シンとテラが平伏させたままの兵たちが、いまだ同じ状態のまま固まっている。シンはその間を一気に駆け抜けると、王宮の門を飛び越え様(もとに戻れ)という意志とともに全てのエーテルを解除した。

 シンの姿が見えなくなるのと同時に、兵たちが一斉に動き出したが、すでにシンを終えるような状態ではなかった。


 風のように過ぎ去ってしまったストレイと瀕死の王女を、誰もが茫然自失といった状態のまま見つめていた。

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