第25話「知らない顔」
扉の隙間から外を窺う。回廊のようになっている通路を、先ほどの三人が背を向けて歩いてゆく姿が見えた。
回廊の内側は庭園のようになっており、涼し気な音をたたえる噴水と、色とりどりの花々が見えた。草木の茂みには誰のものかもわからない彫像がいくつも配置されている。
三人の兵たちが見えなくなった瞬間、シンは一気に庭園の中へと駆け込み、彫像に背中を預けながら周囲を伺った。誰もいないことがわかるとすぐに次の彫像へと走る。
先ほどの一人が回廊を巡回していたが、物陰に隠れながらやり過ごす。よほど注意深く目を凝らされても、今のシンの動きを目に留めることは不可能なように思えた。
城内に潜入した直後よりも動きや視線に無駄がなくなり、呼吸を整える必要もなくなっていた。
ラスティアの居室にたどり着くという、ただその一点のみに集中していたシンは、羽音ひとつ立てないテラの存在も意識の外に置き、ラスティアのエーテルを目指しながら走った。
庭園の端までくるとそのまま回廊を外れ、また別の壁を蹴り近場の建物の屋根に飛び上がる。
そこでようやくシンは、ラスティアがいると思わしき部屋のテラスを視界に収めることができた。
「たぶん、あの部屋の中だ」
シンが視線をはずすことなく指を差す。
「そのようだな」
「って、おまえも感知してるのか」
「当然だ」
「なら最初から教えてくれよ」
「それではおまえの修錬にならないだろう。何のためにここへ来たと思っている」
シンは一瞬何かを言いかけたが、あきらめたように首を振り再び走り出した。
下にいる見張りに気づかれないよう屋根と屋根の間を飛びまわりながら、ほとんど時間を置くことなく目的のテラスの下までたどり着く。その勢いのまま壁に足をかけ、エーテルを利用して蹴り上げると、体を反り返らせながらテラスの柵をつかみ、一気に体を引き上げた。
「明確に意志することさえできればなんのことはない」
明らかに皮肉交じりのテラの声を無視しながら、天井まで伸びたテラス窓を見つめる。
シンはもと来た道をあらためて振り返り、今度は王宮全体に目をやった。
「何かおかしなことでもあったか」
「……ずいぶん、王宮の中央から離れた場所だなって」
「同感だ、やけに見張りが緩い。ラスティアの今の立場がそのような扱いにさせているのか、あるいはーーたんに出歩いているかだな」
「こんな真夜中に?」
「ここが彼女の居室かどうかなど、私たちにわかろうはずがない。もし違うとしたら、なにか理由があってこの部屋に来たのだろう」
「理由ってなんだよ」
「さあな。何を躊躇しているか知らんが、中に入って直接聞いてみたらどうだ」
そう言って、空高く舞い上がっていく。
「おい!」
シンが小さく叫ぶ。
「私がいない方がゆっくり話せるだろう。心配せずとも城外に抜け出すときはまたついていってやる」
「ゆっくり話せる」と言われても、シンの足はなかなか前へと進んでくれなかった。
はるばるラスティアがいるであろう部屋までやって来たはいいが、いったい何をどう説明して顔を合わせればいいのかまったく思いつかなかった。
すでに夜も半ばを迎え、あたりは闇に覆われていた。夜空に顔を覗かせていた月も、今は分厚い雲に覆われてしまっている。
喉がからからになっていた。ごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく耳に響く。
いつまでもこうして突っ立っているわけにはいかないと思い、おそるおそる窓のそばへと歩み寄る。
直接ラスティアの口から聞いてみたいことがたくさんあった。かといって、いきなり中へ入るようなこともできなかった。
自然とシンは窓から中を覗き込むようにしていた。
そこは寝室や居室とは程遠い、鍛錬場のような場所になっていた。その中央付近には、ランタンを片手にもち、ぼんやりとした明かりに全身を照らし出された人影が見えた。
間違いなくラスティアの姿だった。
そのはずが、なにか、この世のものではない存在を目にしてしまったかのような恐怖が全身を走り、思わず叫び声を上げそうになった。
驚くべきは、ラスティアのその表情だった。
類まれな美貌の上に、憎悪といった感情を上塗りしたような。
いったい、彼女に何があったのか。そのあまりの変わりように、身動きひとつできなくなっていた。
そのとき――
複数のエーテルがこの部屋に近づいてくる気配を感じ取り、シンの視線がそちらへと向く。
それほど待つことなく扉が開き、ラスティアのいる部屋の中に二つの人影が入ってきた。
「このような夜更けにお招きいただけるなんて、光栄ね」
人影のひとつが言った。エーテルを集約させたシンの瞳に、薄手のワンピースドレスに長めのガウンを羽織った女の姿が映る。
「無礼は承知の上です」
ラスティアが言った。特別感情がこもったような響きは感じられなかった。そのことが余計シンの身を震わせた。
「それで、このような場所にアインズの第一王女を呼び出した理由とは? ラスティア王女」
女の傍らに控えるように立っているもう一つの人影が言った。
アインズの第一王女――シンの頭に警報のような音が響き渡る。いまだ深い事情までは理解できないシンにも、今目の前で起きていることが用意ならざる事態だというのがわかった。
「いくらパレスガードたる私が御守りしているとはいえ、このような夜更けに密会のような真似事をされるのは褒められたことではありませんな。いま王宮内で起きている出来事を鑑みれば、なおさらです」
パレスガード――反射的にシンは身体に薄く纏っていたエーテルを霧散させ、瞳と耳のみに集約させた。
より優れたエーテライザーは相手のエーテルを感じ取る――感知することができるというテラの言葉を思い出したからだ。
幸い、相手に気づかれた様子はない。シンの纏っていたエーテルが微弱だったおかげか、そこまで高い感知能力を有していないのか。あるいは周りに意識が向かないほどラスティアに集中しているのか。
それでも、シンが王宮内に忍び込むとき感じたエーテライザーたちとは一線画す存在であることは間違いなかった。そもそもこの相手からはヘルミッドやベイルのようなエーテライザー特有の圧が感じられない――一見すると、そこらの人間たちと何ら違いがないようにさえ思えてしまう。
だが、自身の瞳に意識を集約させたシンは、その内に秘めた膨大なエーテルを感じとっていた。
驚くべきことに、アインズの第一王女のパレスガードであるらしいこの相手は、自身のエーテルを内に秘め、隠しているのだ。
「正確には、私が用があったのはリザ王女ではなく貴方です、ローグ」
ラスティアの言葉が、シンを現実へと引き戻す。
「リザ王女ではなく、私に、ですか」
「先ほど言われたとおり、このような時と場所にリザ王女をお呼びすればパレスガードたるあなたは必ず同行されると思いました。次期後継者争いに関する件となれば、なおさらです」
「まさか、私ではなく私のパレスガードに用があったなんて」リザは切れ長の目を細めるようにしながら言った。「いったいその用件とは何なのか、ぜひ聞かせてほしいものね」
ローグも薄い笑みを浮かべながらうなずいた。
「先日初めてお見かけした以外、お会いしたことはもちろん、お話したこともなかったはずですから」
「確かに、あなたは気づいていなかったのでしょうね――
「……それは、どいう意味でしょうか」
「――レクスト、この名に聞き覚えは?」
ラスティアの表情に、変化はない。その言葉も、淡々とした調子に聞こえる。
だが、人とはこれほどまでに自身の感情を声に込めることができるのか。そう思わずにはいられなかった。
内に秘めたラスティアの憎しみ――憎悪が、外で聞いているだけのシンにさえ伝わってくる。
「私には聞き覚えがない名ですが、その者が私と何の関係が?」
ローグはラスティアの激情を知ってか知らずか、困惑した様子を隠そうともしないまま聞き返した。
「そう……あなたにとって彼は――彼らは、その程度の存在だったということね」
これ以上、ラスティアを刺激しないでくれ。気を抜けばそう叫んでしまいそうだった。
「なら、私が思い出させてあげる」
ラスティアが一歩相手に歩み寄り、ローグを見上げるようにして、言った。
「一年前、あなたがディスタの下層で皆殺しにした私の仲間たちのことを……私たちを導いてくれた偉大なる指導者、レクスト・フォレスターの名を」
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