- 過 - 夏休み ホームランと花火大会

ノートの新しいページの最初だけ

少しだけ字が綺麗になる。

それに似た凛とした1学期は

またすぐにバランスを崩して

元通りに戻った。

3年目にもなると

春のうららかはあっという間に浄化される。


3年N組は特別進学コースで

予習を済ませて臨むだけでは

慢心できない授業が連日続いていた。

今習っている単元とは関係のないクイズが

先生たちのアドリブで出される。

過去に習ったことを常識にしておかないと

指された生徒は屈辱を受けることになる。


ある日の放課後。

突然、大谷が僕の机の前に現れた。

そして「ホームラン打つわ」

とだけ言い残して去っていった。

大谷の坊主は最後に会った時よりも

グレーだった。


大谷とは2年までは同じクラスで

高校に入って最初に話した友達だ。

中学の頃から

周りでは全然流行ってなかったバンドを

大谷も好きだと知って意気投合した。


彼は特進コースに在籍しながら

軍隊のように厳しいと噂される

野球部に所属している珍しい人間だった。

野球部はここ数年成績が良く

甲子園初出場の偉業まで

あと一歩のところまで迫っていた。


彼と最後に会ったのは春休みの終わり頃

友達とカラオケで遊んだ帰りの電車だった。


「おつかれ。宿題おわった?」

練習後のげっそりとした大谷が

隣でうなだれながら尋ねてきた。


「あとちょっとで終わりそう。」


「俺、1個も終わってない。」


僕は思わず声を上げて笑ってしまった。

ほとんどが帰宅部の特進クラスで

1人だけ日焼けしている大谷が

怠惰やポテンシャルではなく

物理的に落ちこぼれてしまう瞬間の笑いは

クラスでも定番だった。


みんなで

模試の結果を表す五角形のチャートを

見比べていた時のこと。

部活のスケジュールで1教科しか

受けられなかった大谷のチャートは

点が1つプロットされているのみだった。

そのシュールな天然のフリップ芸は

見せ方と意外性が100点で

今でも思い出すと笑ってしまう。


春休み中

最後の夏に向けて追い込まれている

大谷が想像ついた。


「試合出れそう?」

大谷が少し黙る。


「ここにきてベンチも怪しくなってきた。」


それはいつになくシビアなトーンだった。

僕は励ますつもりで笑ったまま続けた。


「もう野球やめたら?」


1年生の最初から続けているこのノリは

お約束で、大谷はいつも決まって

「いや、特進やめる」

と、笑わせにくるはずだった。

でもこの日は

大谷が小さく「うるせぇよ」と言ったっきり

会話は途絶えてしまった。


思ってもないことを言ってみたら

思ってもみない空気になるのは

10代特有のよくある現象で

それは、シビアな雰囲気を

察していながらふざけた僕にも

ふいに感情的になってしまった大谷にも

心当たりがあった。


3年生になる自覚なんか忘れて

春休みを謳歌する

フーディを被った僕と

キズだらけの重たいエナメルバッグを抱えた

学ラン姿の大谷。

暗くなった車窓に映る

その対比が余計に気まずくて

僕たちは会話を取り戻すことができないまま

別れたのだった。


特進コースという円と

受験生という集合の円が重なった領域に

夏休みなんてない。


特進 ∩ 受験生 = 夏休みなし。


お盆休みの1週間以外は特別授業として

午前中だけとはいえ

月曜から金曜まで授業が用意されていた。

まだほとんど自覚がない受験生たちが

徐々に受験シーズンに染められていく。

この日も特別授業がある日で

嫌々集められた教室の朝は

暑さと気怠さでパンクしそうだった。


特別授業の日は朝礼がなく

すぐに授業が始まる。

それなのに今日は担当教科の先生ではなく

担任の先生が教室に入ってきた。


「えー、毎日暑いね。ごくろうさま。」


支えにした教卓と合わせて

6本足の猫背が喋る。


「そんなみんなにご褒美ということで

 今日は、えー、遠足に行きます。」


「は?」という空気に隠れつつ

授業が潰れそうな期待がうっすらと漂う。


「ハイ。特別授業は休講で

 みんなで野球部の応援に行きます。

 水分持ってない人はすぐ自販機に行って

 それから正面玄関のバスに乗るように。

 じゃぁ、熱中症に気をつけて。」


優勝まであと2勝と迫った野球部の活躍は

連日話題になっていた。

準決勝の相手は超常連校で

ここが天王山と判断した校長先生は

全校生徒総力戦で迎え打つことに決めた。


「タオル持っていけよー。」

担任の声に見送られながら

学校を飛び出した生徒たちの白い背中は

気怠さもベタつきも忘れるくらい爽やかで

まるで映画のワンシーンのように映った。


100人以上いる部員のほとんどは

バッドでもグローブでもなく

スタンドでメガホンを握る。

そんな競争率の高い社会に

3年間を賭ける世界。


ブラスバンドやチアが作る活気の渦の中

僕はそのエネルギーに

呑まれそうになりながらも

楽しい気持ちが湧いていることに気付いた。

なんだかドキドキしている。


電光掲示板に大谷の名前は無かった。

僕はそのことを一瞬だけ残念に思ったけれど

たちまち響き渡ったサイレンを境に

熱い戦いに呑み込まれていった。


1点、2点、3点と

先攻の強豪校が実力を見せつける展開。

その劣勢を押し返すように

声援の渦は広がる。


7回のウラ

先頭のバッターボックスに送られたのは

代打・大谷だった。


応援を仕切る生徒のはち切れそうな声も

太鼓の音もブラスバンドの音色も

力強さが増す7回の攻撃。

部活のために学校に来ていた

ジャージの生徒と

特別授業で教室にいた制服の生徒

全員の大きな声援を背にバッドを構える

友達の姿に感動を覚える。


3球目を捉えた大谷の打球は

レフトの頭上を越えた。

見事なツーベースに

スタンドは今日一番の盛り上がりを見せる。

大谷のヒットで勢いをつけた打線は

その回になんとか1点をもぎ取った。

目には見えない"流れ"をスタンドが支配する。

ホームベースを踏む大谷に

全員が賞賛の眼差しを注ぐ。


セカンドに収まった大谷は以前

自分は身体が硬いのが課題と言っていた。

でも、初めて見るボールを捌く姿は

とてもしなやかで格好良かった。

その後も一進一退のゲームが続き

あと1点が遠いまま

試合は9回ウラ、クライマックスを迎えた。


最初のバッターが出塁し

応援のボルテージが最高潮に達する。

アウト、長いヒット、三振。

2アウト2、3塁の最終局面で

回ってきたのは大谷の打席だった。

なぜかスタンドにいる僕にも

耐えられないほどの緊張が走る。


初球、金属音が爽快に弾ける。

歓声と視線を集めた白い打球は

大きな放物線を描いた。

あと少しのところで

ファールスタンドに落ちたその一球は

あわやホームランといった当たりで

教室でホームランを予告した大谷がよぎる。


2球目、今度は少し鈍い音と共に

ボールは後ろのスタンドに落ちた。

2ストライク。長打が出れば逆転サヨナラ。

僕は何でもいいからとにかく

ここでだけは終わらないでほしいと

祈った。


プロ野球中継で流れる実況の煽りも

漫画で描かれる感動のインサートもなく

現実の高校野球では

淡々と次のボールが投げられる。

スタンド中の鼓動を高鳴らせた

大谷のバッドは

次の瞬間にはもう空を切っていた。


ボールがミットに収まる音。

反対のスタンドで湧き上がる歓声。

泣き崩れる大谷。

駆け寄る仲間と共に立ち上がり

肩を震わせる同士で作る真っ直ぐの列。

潔い綺麗な一礼。

無慈悲に轟くサイレン。


スタンドで見届ける最初で最後の

友達の勇姿。

フェンス越しの解像度では

全てを捉えることはできなかった。

それでも

ぐちゃぐちゃに泣く友達の顔が浮かんで

胸が痛んだ。


まだ1年生だった頃のある日

帰りの電車で大谷に尋ねたことがある。


「大人になると大概、

 部活は過去の話になる。

 それなのに一生懸命に部活に打ち込む

 意味って何かあんのかな?」


僕は中学の序盤で

小学生の時に始めたサッカーを辞めた。

なんとなく練習がしんどくなり

その他いろんなバランスが乱れていることを

サッカーのせいにしたくなった。

ちょうどそのタイミングで怪我をして

その大したことない怪我を言い訳に

部活を辞めた。


やらなきゃいけないことだと

思い込んでいたことを手放した経験は

部活を続けて得られるよりも

有意義な学びだった。

と、僕は思い込むようにしていた。


そんな背景を踏まえて

大谷は真面目に答えてくれた。


「確かに、兄貴がやってたからっていう

 何となくのきっかけで始めた野球だけど

 今は、一緒に頑張るチームとか

 いつもユニフォームを洗ってくれる

 母ちゃんとか

 活躍すれば内心で喜んでくれる

 親父のために結果を出したいって思う。

 誰かのために活躍したいって思う

 原動力の蓄え方とか責任の覚え方は

 部活でしか身につかない

 大事な経験だと思う。

 それに

 毎日キツい練習をやってきたっていう

 自負は

 何かつらいことがあった時に

 チカラとか自信に変わるっていうか

 味方になってくれる気がする。

 だから俺は最後までやり切るつもり。」


大谷の選んだ解釈に納得しかなかった僕は

「ふーん」と声を漏らすのが背いっぱいで

責任とかいつか財産になるという感覚を

全く持ち合わせてない自分に気付く。


「ま、いつもこんなこと考えながら

 やってる訳じゃないから

 お前みたいに

 辞めるタイミングが無かっただけで

 本当は、彼女できない理由を

 部活が忙しいせいにしたいだけかもな。」


変に真面目に落ち着いてしまった空気を

大谷が変えたがっていることを察した。


「特進やめたら?」


「特進やめるわ。」


高校に入って初めてできた友達同士。

席替えのない教室で

2年間ずっと前と後ろの席で過ごした。


共通点は唯一

イヤホンから流れるバンドの音。

出会ってすぐの頃に一度だけ

お前とはなぜか真面目な話ができるから

頭が整理されて助かると言ってくれた大谷。

勉強を続けられない僕は

疲れ切った大谷を思い出して

集中力を捻り出したことが実は何度かある。


隙間時間に睨みつける単語帳の成果で

英語の成績だけは安定していた大谷のことを

本当に凄くて羨ましいと思っていた。

大谷は大谷で、彼よりも制限の少ない僕を

純粋に羨ましく思っていたと思う。


気合が足りない僕と息抜きが必要な大谷で

補い合う関係。

最後の1年が間もなく始まるという事実に

緊張感を持っていた大谷と

そのことから逃げ続けていた僕が作った

小さな溝。

埋めそびれたまま、違うクラスになり

気付けば電車で会うこともなくなっていた。


初めてスタメンを勝ち取ったと聞いた日は

自分のことのように嬉しかった。


意識を若干朦朧とさせる

炎天下の夢みたいな景色を

お湯みたいな涙がさらにぼかす。

報われない涙から

大谷がボールをスタンドに

運びたかった理由が伝わって苦しい。


友達の定義も

学校や部活の意味も今はどうでも良い。

真上に登った太陽が照りつける中

グランドの隅っこと

鉄板のように熱いスタンド席。

それぞれまた同じ気持ちで

2人は友達として再会を果たした。


悔しい気持ちを分かち合うように

涙を拭い続けた。




8月1日は日曜日で

特別授業が休みの教室には誰もいなかった。

僕はたまには勉強でもしようと思い立ち

物理の教科書をめくって1人で過ごした。


二重スリット実験。

2つのスリットに光を当てると

光はスリットの先のスクリーンに

縞模様を映す。

光の干渉を示したこの結果から

光には粒子の性質だけでなく

波動性があることが証明された。


テストの結果はそこそこだったけれど

量子力学について調べることは

都市伝説を知るみたいで好きだった。


量子力学の分野では

粒子性と波動性、不確定性を扱う。

外からは中の様子が分からない箱に

50%の確率で爆発する爆弾と猫を入れる。

箱の中の猫が生きているか死んでいるかは

箱を開けるまで確認できない。

つまり、箱を開けるまでは箱の中の猫を

生と死が重なった状態だと

捉えることができる。


この「シュレディンガーの猫」

と呼ばれる思考実験からは

量子力学で肝となる

不確定性と観測について

考えることができる。

観測するまで答えが分からなかったり

観測することによって

答えが変わったりする。


二重スリット実験にも続きがある。

光の最小単位である光子を使った実験では

スリットを通過した後の光子を

観測した場合としなかった場合で

スクリーンに映る模様が変わるという

矛盾が生じた。


二重スリット実験が

この世界を流れる時間という概念が

虚像であることを証明する日が

いつか訪れるかもしれないらしい。

そんな可能性を説明されても

実感は湧かない。

今はただ難しいことは忘れて

光は波だということを覚えるだけでいい。


光は波だ。


長い夏の夕方がやっと沈んだ後

教室の扉が開いた。

窓際の手すりにもたれていた僕が振り返ると

そこに立っていたのは彼女。

正確には元カノだった。


彼女と会うのは

始業式が始まる前の日に別れた以来で

3年生になってから会うのは

今日が初めてだった。


窓際の一番後ろ。

彼女は黙ったまま僕のイスに座った。

しばらく沈黙が続いた後

その静寂を破ったのは

遠くで打ち上げられた花火の音だった。


彼女とは2年前の今日

この花火大会の帰りに付き合った。

そして去年も2人で大きな花火を見上げた。

その時の、夜の海の香りが蘇る。

今は小さくて薄い花火が

去年の思い出が遠い記憶であることを

物語っているみたいで切なくなる。

それでも

今年は一緒に見れないと思っていたから

嬉しい。


最後の花火が消えて余韻を味わった後

彼女は何も言わずに教室を出て行った。


僕は心の中で「気をつけて帰れよ。」

と念じた。

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