アイネと巨魔と大人達②




 自分の背丈ほどの稲が茂る棚田を駆け抜ける二つの影。


 それは、仄かな青い輝きに包まれていた。

 音もなく棚田に青い一本線を引くそれは、西に軌跡を描いていく。

 その勢いは、稲を強く打ちつける雨を薙ぎ払い流れ去る背景に飛沫を渦巻かせる、青い疾風のようだった。


 二つの影はアイネとカミルであった。

 二人は簡単な防寒を済ませ闇夜に紛れるほど暗い色の外套を着込み、フードを目深に被ると館を後にしたのだ。

 誰にも何も云わずにこっそりとだ。



「カミルン、凄いね!」

 カミルの術式で周囲の音を掻き消し、魔導程の効果は無いが身体が暖かい。そして何よりも身体が軽い。アイネはコレに感嘆の声を上げたのだ。


「な、何がですか?」

 だが、当のカミルは、胃が口から飛び出してしまいそうなほど緊張し、素直にそれを喜ぶ余裕は無かった。だからなのか兎に角、無理はしないでとアイネにいい続けている。それにアイネは「ハイハイ」と空返事をするのだからカミルの不安と緊張は首を下げることはない。稲の海原の仄かな青の一本線は末端に青い残滓を散らし、突き進んでいく。きっと終着点は巨魔トロルの発見現場だ。









 始祖。


 世界に放たれた七つの獣。吸血鬼の王。<外環の狩人>と同じ業を操る人外。

 果たして自分達は、いや、人類はそれを駆逐できるのだろうか? 大崩壊を経験したエステルの話、クレイトンでのアレクシスとの闘い。そのどれもが人智をはるかに超えたものであったし、結局のところ、命を奪えないにしても、どのような形でも、我々は始祖の背中に土を付けたことがない。


 そしてアレクシスを付き従えたメリッサと呼ばれた不気味な女。

 彼女が最後に使った業。あれは魔術でも魔導でもなかった。もっと根源的に世界の理を歪めるような、そう、とでもいうような代物だった。


「そんなのをどうやって斃す?」

 雨脚が強くなり窓を強く打ち付ける音に目が醒めたアッシュは、そんなことを考えながらベッドに寝転がっていた。

 昼間の会合でアドルフが伝えてきたのは、アッシュを暫くのあいだ軍に所属させフリンフロン国軍の総力を挙げ始祖を駆逐するといった内容だった。アッシュは最初それに拒否をしたがエステルに説得される形で、かぶりを縦に振った。

 だが、やはり一抹の不安が心に残り寝床へ着く前までも、同じようなことに思いを巡らせ、結局は結論を得られなかった。




「それに——バーナーズは……」

 これはエステルにも伝えていないことだった。

 <憤怒>のバーナーズはアッシュの身体の中にいる。それは恐らく封印されているような状態なのだろうとアッシュは考えていた。

 ハーゼを薙ぎ倒したあの時のことは、今でもよく憶えている。あれはきっと封印がとかれる寸前だったのか、バーナーズが自ら意識を沈め封印したのかは分からない。でも、心を内側に向けてみると今でも自分の身体のどこかに薄暗い領域を感じ、そこにうずくまる何かを感じることができる。



 であればバーナーズは、どうするのだ? 斃す? どうやって?

 もっとも簡単な方法は自らの命を——。



 遠くで落雷の音が鳴り響いた。

 それに合わせ、いっそうに雨脚が強くなり窓を激しく打ち付けた。

 その時だった。

 部屋の扉が勢いよく開け放たれ「アッシュ起きている!?」と血相を変えたエステルが飛び込んで来たのだ。









「アイネ、止まってください」カミルは前を走るアイネに静止の声をかけた。

「どうしたの?」と訝しげな表情でアイネが訊ねる。

「聞こえますか? 唸り声がします」カミルはそう云って耳に掌をあてた。


 二人はネリスが云っていた現場の近くまでやってくると、少しだけ北に進路を変え棚田の上に広がる森の中を進んでいた。カミルは木々を打ち付ける雨音とフードの中に残響する雨音が邪魔になり、素顔を露わにしていたから、その音に気がつけた——それは、地の底から響く鈍い鐘の音のようだった。

 と、辺りを見回したカミルは進路を少し東に戻った先の岩棚に穿たれた洞窟のようなものを見つける。


 目を細め洞窟の周囲にもくまなく視線を泳がせてみた。

 強くなった雨脚に誘われたのか、空が一瞬白み、少し遅れ遠くで雷鳴が轟いた。そして再び一度空が白む。

 カミルが泳がせた視線の先がパッと明るく映し出された。木々が視線を遮るなか岩棚の洞窟の前に何か大きなものが蹲る姿が見えた。


「アイネは、ここで待っていてください」

「え?」

「居ました」

「何が?」

巨魔トロルです」

 カミルは身体が震えるのを覚え、そして声を振るわせそう云った。二人の間に、得も言われぬ緊張が走った。









「落ち着いてくださいエステル」


 アッシュは飛び込んできたエステルを迎えると、脇棚に置かれた杯へ水を注ぎ息を切らせた彼女に手渡した。エステルはそれを受け取り一気にあおると、ベッドに腰をかけ慌てた調子で口を開く。


「ごめんなさいアッシュ——アイネとカミルが、どこにも居ないの。セレシアとポーリンが私を呼びに来たのだけれど、トマが泣いてしまって——」

 エステルは顔を蒼白にし、しどろもどろにアッシュにアイネとカミルが姿を消してしまったことを伝えた。混乱をしたエステルが口にする話は酷く断片的で、その混乱ぶりを感じさせた。


「エステル、大丈夫ですから落ち着いてください。大丈夫。アイネとカミルが姿を消したのですね? 何か心当たりは?」

 アッシュはエステルの横に腰をかけると、背中を優しく摩り——自分もその一報に動揺をしたが、できるだけ優しく彼女をなだめるように努めた。それに、エステルは瞳を濡らし「心当たりは無いのだけれど、ネリスがさっき戻ってきて西の棚田に巨魔トロルが出たって……」と、声をしゃくりながらアッシュの胸に顔を埋めた。


「子供たちは?」アッシュはエステルを優しく包み込み、背中を一定の調子で優しく叩いた。

「大丈夫、皆んな私の部屋に居るわ」

「わかりました。エステルはリリーさん達と一緒に館のなかをもう少し探してみてください」

「アッシュはどうするの?」

「僕は外を回ってみます」

「でも——」

「大丈夫です、安心してください。大丈夫です」









「洞窟の中に何かいるかも」


 急いで皆を呼んで来て欲しいと、カミルに頼まれたアイネは「やだ」の一点張りで、遂には洞窟に何か居るのだと云い始めたのだ。

 額面通りに取ればそれは留まる理由でしかなく中身は無い。そう。嘘という見立てだ。しかし、カミルはアイネの預言者めいた言動をこれまでに何度か目の当たりにしている。だから「人……ですか?」とアイネの顔を覗き込み訊ねた。


「多分。でもあれは……狩人かも……」

「まさか、そんな……」

「助けなきゃ」と、アイネは両掌を軽く音を立て合わせた。

「え? アイネ?」


 カミルは目を大きく丸く見開いた。

 雨脚は白糸のようだったのだが、アイネの手元を打つ頃には仄かな青に染まって流れ落ちる——。

 

「ん? 私ね、お父さんの短剣しか持ったことがなくて——」

「いや、そこじゃなく——」

 アイネはゆっくりと丁寧に、何かを練り上げるように合わせた掌を離していく。纏わりつく青い粒子が手の軌道あわせ形をなす。

「でも、薪を括った縄を一回斬っただけだから、うまくできてないかも。何回も練習したんだけどね」


 口をあんぐり開いたカミル。

 それもそのはずだ。アイネが手にした二振りの黒鋼の短剣は——。

「お父さんは、コレを『野伏の短剣』って呼んでた」

 それは知っている。

「じゃなくて、その業は狩人のものでは?」

「そうなの? お父さんもやってたよ」

 カミルは「そんな出鱈目な——」と、絶句した。









 身体中の体液が沸き立ち膨張する。


 節々が軋み音を立て内側から外に向け破裂してしまいそうだ。いずれ脳でさえも沸き立つだろう。そして見事に破裂をする。鬼灯ほおずきが破裂するようにだ。破裂した後には皮だけが情けなくその場に残る。それだけの終焉だ。

 あそこから逃げ出した俺たちは痛みと屈辱を抱え兎に角、東に向かった。どこまで駆けても日出る故郷に俺達の脚は届かなかった。当たり前だ。ここはリードランだ。俺たちの故郷はない。


 恐らく相棒はまだ助かる。

 身体を蝕む蟲は、恐らくアレは蟲の類だ、あれは相棒を蝕んでいない。あの女は俺にだけ蟲を植え付けやがった。しかし相棒は酷く熱にうなされている。医者に行かせないと。これは金に目の眩んだ俺への罰だ。それに相棒を巻き込んでしまった。コイツだけでも助けて元に戻さないと。








「あおおあぐうぅががが!」


 巨魔トロルは両手を前に突き出し、カミルが放った<魔力の矢>を防いだ。

 それを訝しげに眺めるアイネは父親譲りの短剣を二振、逆手に構えジリジリと間合いを詰めた。


 一向に反撃に出ない巨魔トロルは、背負った洞窟の入り口を懸命に護っているようだった。アイネは、そんな風に想うと「カミルン待って」と<魔力のつぶて>を展開したカミルを制止した。すると手慣れた手つきで短剣を青い粒子に戻すと何か観察をする様子を見せた。


 カミルの周囲に浮かんだ無数の魔力の球はフワフワと身体の周りを漂い、周囲を青く照らし出している。カミルは「は、はい」と答えると手にした小さな節くれた杖を指揮棒にそのうちの一つを巨魔トロルの近くまで移動させた。


 巨魔トロルの体躯が、青い輝きの中で顕になった。


 分厚く、みるからに固い藍鉄色の皮膚に覆われた巨躯は、大小のいぼがそこらじゅうに醜く盛り上がっている。髪は抜け落ち、禿げ上がった頭にもいぼがひしめき合っていた。巨魔トロルは、その場にしゃがみこみ——それでも洞窟の入口を防ぐには十分な大きさだ——大木のような腕で頭を覆っていた。それはまるで、目の前のアイネとカミルに降伏を宣言をしているような様子だった。


「ねぇカミルン。この子もしかして、ほら、洞窟の中をみて。あの人のことを護っているんじゃない?」

「え? どういう——あ! 本当に人が!」

 アイネの虚言かもしれない。

 そんなふうに思っていたカミルは今日何度目かの絶句をすると「それじゃ……」とアイネの顔を見下ろした。近くに立ったカミルの周囲に漂う魔力の球が、アイネに触れそうになると「ちょっと、カミルン危ないって」と、アイネはカミルの尻を思いっ切り引っ叩いた。


 パチン! と、カミルの尻が良い音を鳴らすと、巨魔トロルはそれに驚いたのか巨躯を震わせ小さな呻き声を漏らした。

 雨脚は弱まる気配を見せない。

 また、遠くで雷鳴が轟いた。


「ねぇえ、キミ。人の言葉はわかる?」


 怯えているのか、苦しんでいるのか。巨魔トロルはアイネの言葉に、頭に覆った腕をゆっっくりと解き、橙色に輝く瞳を露わにした。そして、どうやら小さく、かぶりを縦に振ったようだったのだ。


「ほら、そうだよ。奥の人を護っているの?」


 その問い掛けに巨魔トロルは目を細め、また小さくかぶりを縦に振る。

 すると、巨魔トロルは両手を前に突き出し、ゆっくりと巨躯をもたげると、やはり緩やかに立ち上がった。立てばアイネとカミルの倍以上もある巨魔トロル。その腰あたりにアイネとカミルの頭を見下ろせる。


 巨魔トロルは、そんな小さな二人を見下ろし小さく呻くと、洞窟の入り口にゆっくりと歩いていった。二人は巨魔トロルの後ろに続き、洞窟の中を覗き込む。カミルは最後に残していた魔力の球を洞窟の中に飛ばした。はたしてそこには、ボロを纏った男が、呻き横たわる姿があった。

 巨魔トロルは、その男を指差し、そして洞窟の壁になにやら書き出した。

 太い指を擦り付け書いたそれは『言葉』だった。




 ——こいつを外環に帰してやってくれ——。




 先ほどから遠くで鳴り響いていた雷鳴。それは、だんだんとこちらに近寄ってきているのか、空が白んでから鳴り響くまでの間隔が短くなってきている。雨脚は更に強く地面を打ちつけ、近くに居る者同士でも会話が困難になるほどに乱暴な音を掻き立てた。

 その音の隙間を掻い潜るように、なにやら別の音が遠くから聞こえてきたような気がした。カミルは目を細め、音のする方へ視線を投げる。確かに何か雷でも雨でもない音が、微かに遠くに聞こえる。それはきっと人の声だ。


 針の穴に糸を通すような繊細さで、雨音でも雷鳴でも、雨に身を揺らす葉の音でもない人の声が確かに、自分達の名前を呼んでいる。


「アッシュさん」


 カミルは複雑な気持ち——アッシュにこのことを報告できる誇らしさ、でも、黙って出てきてしまった罪悪感、そんなものに板挟みにされながらも思わず、敬愛する男の名前を口にしていた。そして顔を綻ばせ、少し奥にいるアイネへ声をかけようとする。

 しかしだ、綻んだ顔はすぐに真顔に戻った。

 このままこの光景を目にしてしまったら、アッシュはきっと遠方からでも正確に巨魔トロルを斃しにかかるはずだ。

 周囲の音が邪魔をして、カミルの細い声ではアッシュを制止できないだろう。

 咄嗟に振り返り、奇妙な巨魔トロルと筆談をするアイネに視線をやった。アイネはアッシュの声に気が付いていない様子だ。


 カミルは慌ててその場を駆け出した。









 どういう訳か今夜は大農園周辺の空気が重苦しく感じる。

 それは大雨が原因というだけではない。そこはかとなく大気そのものが揺らいでいるように感じるのだ。

 相変わらず棚田の稲の頭を打つ大粒の雨は次第に強さを増し、白んだ空は雷鳴を伴う間隔が近くなってきているように思える。その騒々しさの中にうなじを気持ち悪く撫で上げる、その揺らぎをアドルフは感じていた。

 それは大崩壊の時にも感じていた揺らぎだ。

 アドルフの背筋に汗がつたった。



 アッシュたち三人はネリスを船頭に馬を駆け棚田を西に向かっていた。巨魔トロルが見掛けられた辺りに三人は向かい、姿を消した二人——アイネとカミルの行方を捜索した。

 アッシュがカミルの魔力の残滓を嗅ぎわけネリスへ、その行方を終始伝えると、ネリスは現場までの土地勘と摺り合わせ大凡の場所を特定する。野伏とは今も昔も優秀な追跡者なのだ。


 ネリスは疾駆する馬の腹を両膝で固く挟み込み身体を固定した。そして器用に身体をもたげ雨除けのフードを取り払い北に顔を向けた。目を細め棚田の上の方に視線をやると、静かに後ろを走るアッシュとアドルフに合図を送った。

 右手の人差し指と中指で双眸を指し、すぐに前に突き出す。

 『北を見ろ』ネリスはそう云ったのだ。


 棚田を登り切った先に広がる森林の東に横たわる岩棚が見えた。

 そしてそこには、少しでも魔力を起源とした業カニングクラフトに触れたことのあるものならば直ぐに感じる、魔力の淡い光が感じられた。


「カミル! アイネ!」

 声を挙げたのはフードを取り払ったアッシュだった。手綱を引き、馬の腹を軽く叩くと速度を上げ、一目散にそこへ向かった。

「アッシュさん!」アドルフとネリスはそれに慌てるようにその後を追いかけた。




 





「うわ!」


 声を挙げたのはカミルだった。

 慌てて駆け出したカミルが洞窟の入り口を出た所へ、ちょうど棚田を駆け上がり岩棚にやってきたアッシュと鉢合わせになったのだ。


「カミル!」

 アッシュは馬から飛び降りると「無事ですか?」と小さな両肩に手をかけ抱き寄せた。カミルはそれに身を任せアッシュの胸に身体を預け「すみませんでした」と声を振るわせる。


「何故こんな夜更けに外へ出たりしたのですか? アイネは? アイネはどこに?」

 アッシュはカミルを抱き寄せ一拍を置くと、そう訊ね顔を覗き込んだ。すると、小さな魔術師はそれに「大丈夫です無事です。でも——」と含みを持たせた。


 

 カミルに駆け寄り抱き寄せたアッシュの後ろ姿を見守ったアドルフは、安堵の表情を漏らし微かに微笑んだ。しかし、その表情は、そこはかとなく曇っているようにも思える。この大雨が、そのように映し出しているのだろうか。ネリスは、そんなアドルフの横顔を眺め訝しげな気持ちになったが、別段それを口にすることなく、馬を降りた。

 そしてネリスは、ずんぐりむっくりの身体を揺らして周囲を見て回る。

 アドルフは、それに気がつきネリスの後を追った。


「でも?」


 カミルが濁らせた言葉尻。

 それをアッシュは優しく訊ねると、跪き視線を真っ直ぐに合わせた。

「はい、説明が難しいのですが僕たちは巨魔トロルを発見したのです。今はそこの洞窟にアイネと一緒に居ます」

「え!?」アッシュは目を大きく見開き驚愕の声を漏らした。

「本当に大丈夫です、その巨魔トロルは——」

 カミルはそう云うと岩棚にぽっかりと口を開けた洞窟のほうに目をやった。そしてアドルフ達が、その洞窟の前に差し掛かるのを目にすると「あ!」と声を漏らした。





「アイネ! そこから離れて!」叫んだのはアドルフだった。

「待ってください!」


 アドルフの絶叫にカミルは間髪を入れず、そう叫ぶとアッシュの手を振り解き慌ててそちらに駆けていった。アッシュは「カミル!?」とその後を追いかけた。

 絶叫したアドルフの目に飛び込んできたのは、蹲るように座った巨魔トロルと、その前に立ったアイネ。そして、その足元に寝転がる——<外環の狩人>だった。

 アドルフのうなじに纏わりつき離れない気色の悪い揺らぎが一層にその濃さを増したように感じた。


 アイネはアドルフの声に驚き、身体を小さく跳ね上げたが、気の良い野伏に気が付くと「違うのアドルフ! この子は違うの!」と巨魔トロルを庇うように前に躍り出た。

「アイネ、こっちに来て!」

「アドルフ何が——アイネ!?」


 野伏はアイネにこちらへ来るように云うと、両手を強く合わせ二振りの黒鋼の短剣を握りしめた。そして巨魔トロルに向かい構えをとった。アッシュはその後ろから駆け寄りアイネの姿を認めると思わず声を張り上げた。

 カミルはその二人を掻き分けアイネの横に並び「待ってください。本当に大丈夫なのです」と両腕を広げた。


 アッシュ、アドルフ、ネリスは思い思いに得物を手に構えた。

 アッシュは、ゆっくりと一歩前に踏み出すと「カミル、説明——できますか?」と、焦る気持ちをできるだけ抑え訊ねた。カミルはそれに「もちろんです。ですから武器をしまって貰えませんか?」と、静かに答えた。


 茫然とその光景を眺めたアイネはカミルの言葉に、ハッとすると小走りにカミルの傍に来ると「私が説明するよ」と、事の経緯を話し始めた。


 得物を構えた三人は、それへ静かにかぶりを縦に振った。

 アドルフは、怯えるように蹲った巨魔トロルを脇目に、横たわった狩人の傍へ小走りすると「大丈夫ですか?」と声をかける。そのまま片膝を付き懐から小瓶を取り出すと、ルトの液でその狩人の胸へ<言の音>を素早く書いた。そして二言三言を呟く。

 すると横たわった狩人の身体が仄かな緑色の光に包まれた。




 アイネが語ったのは、巨魔トロルの正体からだった。


 アイネ曰く、この巨魔トロルは<外環の狩人>なのだそうだ。そして人の言葉は理解をするが話せない。そういった不確かな存在だと云った。

 話す途中、ぬらりとした洞窟の壁や、巨魔トロルの足元を指差し、びっしりと書かれた文字を見るように三人の大人に告げる。アッシュはそれに、かぶりを振ると、あちこちに書かれた文字へ目をやり、それが何かを理解した。たどたどしく書かれたそれは、言葉だった。


『こいつを外環に帰してやってくれ

 白仮面の女に騙された 

 金に目を眩ませてしまった

 そしてアイツを巻き込んでしまった

 あの狐女は狂っている 

 あいつは蟲を俺に流し込んだ 

 相棒はまだ助かるかもしれない 

 いや、喰いつかれていたからわからない

 でも

 こいつを外環に帰してやってくれ

 違う、白仮面と狐女は別々だ

 俺はこんな姿になっちまった

 自業自得だ

 危険だとわかっていたのだが

 ここに来てしまった

 居ない

 俺には家族はいない

 だがコイツにはいる

 だから

 こいつを外環に帰してやってくれ 

 違う、マニトバのシラク村の近くだ

 捨てられた館がある

 そこが狐女の実験場だ

 わからない

 でも沢山の男が囚われていた

 すまない、俺はもうダメかもしれない

 逃げてくれ

 迎えが来たのか?

 いや、駄目だもう抑えられなくなってしまう

 小さいの。ありがとうな』



 そこまで息をつく間もなく読んだアッシュは静かに巨魔トロルに視線を落とした。この男は、この男の犯した罪の精算をしたかったのだろう。だからせめて友人だけでも助けたい。そう願ったのだ。自分はいいから友人を助けてくれと願ったのだ。

 逃避行の間、友人を背負っていたのだろう。しかし、姿が急変しままならなくなった。どう、声をかけてやれば良いのか分からなかった。巨魔トロルは、それに気がつくとモゾモゾと身体を動かし、アッシュを真正面に見据えた。



「アッシュさん——こちらはもう駄目です。どうやっても生命力の流出が止まりません」


 アドルフはアッシュを見上げ淡々と云った。


「もう、どうにもならないのですか?」とアッシュ。

「ええ、残念ながら。でも——」


 それでもアドルフは最後の悪あがきを始めた。

 その様子に気がついた巨魔トロルは、横たわる狩人に目を向け、静かに目を閉じた。喉の奥からだろうか、低い呻きが聞こえた気がした。


「アドルフ、<外環の狩人>というのは本当に死んだりするのですか?」

「と、云うと?」

「狩人の秘術には、死者を蘇生する術があると聞いたことがあります」

「ええ、それはあります。が、それは——魂と云えば分かりやすいでしょうが、それがあればの話です。この方は、それすらも犯され今はリードランの地に縛られている。このままだと恐らく存在そのものが消失してしまい、永遠に失われます。そこの巨魔トロルも、狩人だったというならば、今はリードランに縛られている状態です」


 限りはある。しかし、アドルフは懸命に全てのすべを打つべく寝転がる狩人から目を逸らさず、術を行使する。その中にはアッシュ達が見たこともない輝きを放つものもあった。恐らくそれが狩人の秘術なのだ。


 あああああああ。


 巨魔トロルが唸り、アッシュの方へ突き出すようアイネの背中を優しく大きな手で押した。アイネは「ちょっと」と小さく声を挙げたが、巨魔トロルの橙の瞳がゆらゆらとしているのに気がつき、そのままアッシュの腰にしがみ付いた。


 巨魔トロルの様子がおかしいのだ——ぐううううううう。


 次にはアッシュを見据え、口角をひきつらせ、黄土色に変色した牙を剥き出した。笑ったのか、それとも怒ったのか、威嚇したのか。それはわからない。

 ネリスはカミルとアイネを後ろに下がらせると、腰の黒鋼の短剣を弄った。アッシュはそれに一歩距離をとるとアドルフの方へ位置をとった。


「アドルフ——」

「ええ、わかっています。すみません、力及ばずでした」


 淡々と云ったアドルフにアッシュは、そこはかとなく冷ややかな視線を送り「そうですか」と小さく答え短剣を構えた。そして、アッシュは巨魔トロルに向かって「言葉はまだ届きますか?」と訊ねた。

 巨魔トロルは身体を震わせ、何かに抗うような様相を見せていたが、かぶりを縦に振り、身体をかがめた。太い人差し指を突き出し、地面に何やら文字を刻んだ。

 まるで、みみずの這うような文字が書かれていく。

 アッシュはそれを、じっと見守った。


 こ


 巨魔トロルは次第に苦しみ始め、口角から涎を垂れ流すと、オウオウオウと悲しげな声を喉の奥から響かせた。


 ろ


 右腕の痙攣が酷くなり始めると左手でそれを抑え、なんとか次の文字を刻む。


 し


「おい、アッシュ」とネリスが、その変貌ぶりに狼狽し短剣を構え巨魔トロルへ、にじり寄ろうとしたのだが、アッシュはそれに「待ってくださいネリスさん」といつになく語気を強め云った。


 て


「なんとか、なんとかできないのですか?」

 横たわった狩人の身体が強く青い輝きに包まれ粒子を撒き散らした。そしてそれは、狩人の身体を巻き込み宙に霧散していった。それを、苦虫を潰したような顔で見届けるとアッシュに「なんともできないです……残念ながら」と答えた。


 く


 そこまで文字を刻んだ巨魔トロルは踠き苦しみ始めると、強く頭を地面に叩きつけ始めたのだ。それに驚いたカミルとアイネは目を背け、アイネはネリスの背中で小さく嗚咽を漏らした。


 あぐぅぅ。


 頭を抱え込んだ巨魔トロル

 最後の力を振り絞り、右手を突き出し、そして最後の一文字を刻んだ。


 れ


 ころしてくれ——巨魔トロルは、殺してくれと懇願した。


「アッシュさん! もう駄目です! 諦めてください!」

 アドルフは二振の短剣を構えた。ネリスもそれに倣い構えるが、カミルとアイネを背中にし少しづつそこから距離をとった。そして「カミル、カミル」と茫然としたカミルに呼びかける。


「す、すみません」

 カミルが返すとネリスは「殻を張ってくれないか」と手短に答えた。

「は、はい!」と上擦った声で答えたカミルは慌てて術式を展開をする。すぐさまにアッシュ、アドルフ、ネリスの三人の身体が青い輝きに包まれた。

 カミルはアイネの手を引き、その場から更に離れた。


「ちょっとカミル!」

「駄目です、もう僕達の出番じゃありません」


 次の瞬間だった。

 巨魔トロルが急に身体を起こし両腕を振り上げた。

 耳をつんざく咆哮が鳴り響いた。

 アイネはそれに堪らず耳を抑え、その場に座り込んでしまった。

 更に咆哮が轟くと巨魔トロルは右太腿から血飛沫をあげ巨躯をよろめかせた。


「アドルフ、なんで!」


 最初に斬りかかったアドルフへ声を挙げたアッシュは「クソ!」と声を荒げると、狩猟短剣を握りしめた。

 

「やらなきゃ、やられます! 当たり前でしょ!?」

 アドルフは苛立つようにやはり声を荒げていた。



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る