6_Let yourself go, Let myself go

七分の七




 雨が激しく屋根を打ち付けていた。


 潜り込んだベッドから覗き込んだ小窓の外は真っ暗で、遠くに広がった広葉樹の森が右に左へと大きく揺れた。

 時折空を打ちつけた稲光が轟音と共に外を白く明るくした。ごうごうと吹き付ける風、どどーんと鳴る稲妻、ばちばちと屋根を打つ雨。そのどれもが、部屋にいる子供達の心をざわざわとさせた。アイネは小窓の外を眺めながら「ほら見て! 今あそこに雷が落ちたわ!」と指差した。セレシアはその先を追いかけたが、激しい雨脚に邪魔され、その様子を見ることができなかった。


「雨が凄いから、外が見えないよアイネちゃん」と困った顔をして見せた。

「アイネお姉ちゃんは雷怖くないの?」

「ないの?」


 二人の話し声に誘われて別のベッドから小さなポーリンとステラが這い出てきた。抜き足差し足でセレシアのベッドに転がり込んだ二人は、ぎゅっとセレシアに抱きついてそう云ったのだ。

「怖くないわよ、こんなの!」アイネは誇らしげに、小さなポーリンとステラに笑って見せた。




 クレイトン大災厄から二年の月日が経っていた。

 小さかったアイネは随分と背がのびた。

 スモックを被るのが嫌でリリーから逃げ回っていた頃から比べると、随分と大人びた。今ではリリー達と市場から一緒に帰ってきたセレシア、ポーリン、ステラ、トマ、クレモンと打ち解け、この二年の間にアイネは彼女達の良き姉をしている。

 血のつがなりは無い。セレシア達五人もそれぞれに親が違う。それでも、災厄で家族を失ったという境遇は彼女達を強い絆で結び合うようだった。

「トマとクレモンは泣いていないかな?」とセレシアは二人の妹の頭を撫でながら小さく囁いた。お調子もので比較的に気の強いポーリンは「カミルお兄ちゃんと一緒だから大丈夫だよ!」とセレシアを見上げそう答えた。「でもクレモンは泣き虫だからなー」と一生懸命にアイネのようなお姉さんになろうと背伸びをするステラが大人びた風に、やはりセレシアを見上げて云った。


「そうね、でも隣の部屋にはアッシュさんが居るから大丈夫かな?」

 と、二度目の落雷が轟音と共に外を白ませると、部屋にいた四人は「きゃ!」と悲鳴をあげアイネのベッドに身を寄せあった。

 四人は互いに顔を見合わせると「嵐が終わるまでこうしていようか」と、シーツにくるまった。そうすると、先ほどまで部屋に満ちていた恐ろしい嵐の轟音も雷の音も気にならなくなり、きゃっきゃと可愛らしい声だけが四人の全てとなった。


 程なく嵐は過ぎ去り、気がつけば四人はアイネのベッドで夢の国へと旅立っていた。








「凄い嵐ですね」


 エステルは向かいに座ったリリーへ云った。<大木様の館>の大広間で大机を挟み向かい合った二人は、先程から果実酒を酌み交わしていた。大窓の近くではアッシュが外を眺めている。


「そうね、去年の夏はこんなに酷いのは来なかったのにね」とリリーは用意された軽食を口にしながら答えた。

 三人はつい先日にトルステンから連絡を受けると、アークレイリで流布された噂話のことを知った。それはエステルが先のクレイトン大災厄で命を落としたというものだった。これに過剰に反応を示したアルベリクが躍起になり情報を収集していることも知ると、エステルは本国に戻った方が良いのかどうかを悩んでいたのだ。

 トルステンが伝えた話によると、これを口実にアークレイリがフォーセット、ブレイナット——先に開かれた世界会議で難しい立場に立たされた二国へ働きかけ、フリンフロンに攻め入ろうと画策しているそうなのだ。一国の姫が命を落としたというならば話はわかるが、いってみればが私情を拗らせそんな暴挙に出ようとしているならば、それは止めなければならない。

 エステルには、兄のアルベリクが独断でそのような暴挙に出るとは考えにくく、どうするかを思案していたのだ。



「それでエステルはどうしたいの?」とリリー。

「はい、正直に云えば——」

「云えば?」

「どうでも良いのです」


 途中、言葉を詰まらせたエステルは、ちらりとアッシュの姿に目をやるとリリーに促され、そう答えたのだ。これにリリーは目を丸くし「はははは」と陽気に笑った。アッシュはそれに気が付き「どうしたのですか?」と机に戻ってきた。


「国のことはどうでも良いですって」と、アッシュに答えたリリーは笑い涙をこぼした目を手で擦った。

「あ、いや、国のことではなくて、兄のことですよ」

 エステルは慌ててそう云うと両手を前にひらひらと振ってみせた。アッシュがそんなエステルを眺め小さく笑うと「もう」と彼女は頬を膨らませ、果実酒を一気にあおった。


「国のことが心配? あなたはこのまま名前を捨てて別人として生きていくことだってできるのよ? だってあなたは世間的には死んだとされているのですもの。ずーっとアッシュと一緒に居られるじゃない」

「僕と?」

「ええ、アッシュ。あなたとエステルはこの先一緒にいても誰も邪魔はしないってことよ」

「ちょっとリリーさん!」


 何杯目かの果実酒を口にしたエステルは、突然のリリーの発言に驚き、危うく口に含んだそれを噴き出してしまいそうになる。そして「変なこと云わないでください!」と顔を赤らめて云った。それが酔って赤らんだ顔なのか、羞恥心からの赤らみなのかと言われれば恐らく後者だ。


「まあ、それは冗談としても」

 リリーも何杯目かの果実酒を杯に注ぐと、瓶をアッシュに向けるがアッシュは「僕はもう大丈夫です」と云った。

「あれから二年経ったけれども、世界中が随分ときな臭くなっているものね。アオイドスにアドルフ君からも連絡がないしちょっと不安ね」とリリーは少し杯に口をつけながらそう続けた。


「ええ、そうですね。それにあの——」

 エステルの横に座ったアッシュがそう言葉を詰まらせると、エステルは「メリッサとアレクシス?」と訊ねた。

「はい、それと世界中に散らばっているという始祖達のことも気になります。戦争の気配についてが一番気がかりではあるのですが、ダフロイトやクレイトンのことを思い出すと僕が始祖と接触すると、ろくな事にならないというか——」

「そうね。それについてはアオイドスが一番良く知っている筈だけれどもね。狩人の考えていることはよくわからないわ」

「ええ、私、アオイドスさんに知っていることを話してくれとお願いしたのですが、はぐらかされて」


 エステルは、あの時の事を思い出し顔をしかめた。

 それを隣で眺めていたアッシュはハッとし「そう云えば!」と大声を出した。エステルはそれに驚き「ちょっと突然どうしたの」と、アッシュを顔を覗き込んだ。

 リリーはそれに、あらあらと小さくこぼし「どうしたのアッシュ?」と訊ねた。

「ああ、いや、そう云えばそのアオイドスさんとレジーヌさんって姉妹なんですかね? 双子みたいにそっくりだったなと思って」

「何? そんなこと?」と、エステルは呆れかったのか肩を竦めた。

「そんなことも云っていたわね。私はそのレジーヌに会っていないから、なんともだけれども。そんなに似ていたの?」

「はい、瓜二つでした。最後にアオイドスさんと彼女が並んで話しているのを見た時は、驚いたんですよ」

「そう。でも二人とも狩人なのでしょ?」

「ええ、そうでした」とアッシュとエステルが同時に答える。

「何、随分と息が合っているのね——二人が狩人なのだと云うなら、もしかしたら姉妹という可能性もあるわよね。まあでも今はそれよりも、国のことと始祖達のことね」

「ああ、そうでしたすみません」とやはり同時に答えるアッシュとエステルは、顔を見合わせ苦笑いをしてみせた。と、その時だった。大きな落雷の音が響き渡ると大広間の外から小さな悲鳴が聞こえた。









「カミル兄ちゃん、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だよトマ。アッシュさんのことが気になるでしょ?」

「それはそうだけれども——ヒィ!」


 カミルとトマ、クレモンの三人組は長く続く廊下を歩いていた。

 稲光が容赦無く硝子窓を照らし上げ、廊下に窓枠の影を強く落とした。

 嵐の音に寝付けないクレモンがアッシュのところに行きたいと言い始め、部屋を訪れたのだが、アッシュの姿はそこにはなかった。

 クレイトンの一件から、誇り高き兄の最後を介錯したアッシュを慕ったカミル。

 そしてそのカミルと兄のレオンに命を救われたトマとクレモンは、カミルと同じくアッシュを慕い、今では父親のようにも想っていた。


 そのアッシュが忽然と部屋から姿を消したのだ。


 これに三人は心配になり、アッシュ探索のため今ではおどろおどろしい館の廊下を歩いてるというわけだ。

 そして、落雷の音とともに夜空が白むとトマは悲鳴をあげたのだ。

 ちょうど通り過ぎようとした扉の奥からアイネが「ほら見て!」と声が聞こえてきた。

 泣き虫のクレモンはその声が聞こえると「アイネ姉ちゃん達も一緒にいくかな?」とカミルに云うが、カミルは「こんな時間に女の子を連れ出してはいけないよクレモン」と、小声で嗜めた。


 カミルは知っていたのだ。


 このことをアイネに知られたら、自分達以上に騒ぎ立ててきっとになると。アイネは元気すぎるのだ。だからアイネをこんな時間に連れ出しては駄目なのだ。

 ごうごうと吹き荒れる嵐が、硝子窓に強く雨を打ちつけた。

 それに耳を澄ましてしまうものだから、自分達が歩く廊下のギシギシという音が、いつもよりも大きく不気味に聞こえてしまう。三人は永遠とも思える廊下をゆっくりと歩き、雷鳴はしないものの空を白く這いずり回る稲妻の影に怯えながら身を寄せ合い、大広間の方へと向かった。


「にいちゃん」とトマとクレモンがカミルを見上げる。

「大丈夫だよ二人とも」


 そして遂にあ大木様のあるロビーまで辿り着いた三人は、大広間の扉から明かりが溢れているのを見て、そちらに駆け寄った。中からアッシュの声も聞こえてきた。と、カミルが扉に手をかけようとしたその時だった。

 再び雷鳴が轟き、稲光の明かりが大木様の影を奇妙な姿で映し出したのだった。


「うわ!」と三人はその場に座り込むと、大広間の扉が開け放たれた。







「カミル、トマ、クレモン、どうしたのこんな時間に」声をかけたのはアッシュだった。

「アッシュ!」と、儚げなアッシュの声音に堪らずトマとクレモンが駆け寄りアッシュの腰に顔を埋めた。カミルは「すみません、アッシュさんがお部屋にいなかったもので、心配になってしまい、つい」とタハハと面目ない顔で笑って見せる。


「ごめんごめん、云っておけばよかったね。嵐で寝られないようだったら、こっちで暖かいものでも飲んでいく?」


 アッシュは三人を迎え入れながら優しく云った。

 クレイトンの一件以降、アッシュはカミルとセレシア達を甲斐甲斐しく世話をした。時間があれば勉強を教え、天気が良ければエステルを誘って野原に遊びへ行ったりもした。もちろんそこにはアイネも一緒で、一番年上のアイネが子供達の先導役となって野原を駆けずり回った。カミルはそんな光景を兄と過ごした毎日に重ね、時折寂しげな表情を落としたものだった。しかし、時を重ねる毎に、アッシュに兄の面影を重ね、父の面影を重ね今では、新しい心の拠り所のような感じを覚えていたのだ。その傍にいつも寄り添っているエステルには、母の面影を重ねていたのはいうまでもない。

 でも、年頃のカミル少年はそれを気恥ずかしく思っているらしく、中途半端な敬語を使ってみたと思えば、気を許した時にはレオンにそうしたようにアッシュに砕けた様子を見せていた。



 次第に嵐は過ぎさていったようで、外では夏虫がジジジジと声をあげ始めていた。


「それで」——カミル達三人がやってきて、少しの間で、トマはアッシュの膝の上で、クレモンはエステルの膝の上で寝てしまうと、リリーは、横で机に突っ伏したカミルの柔らかい金髪を撫でながら話の続きを切り出した。


「エステルはどうするの?」

「はい、もう少し考えてみます。でもいずれにしても一度は国に帰って決着をつけなければいけないのは確かだと思っています」

 エステルは真剣な眼差しでリリーにそう答えると、ちらりと横のアッシュに目線をやる。アッシュはそれを受け止めると「うん、それがいい」と、いつになくはっきりとした眼差しでそれに答えた。


「そう。わかったわ。時期を決めたら教えて。まずは王都の大使館を経由するのが安全。私達の方で手筈を整えるわ」

 リリーもいつもの揶揄う様子はなく、真剣にそれを受け止める。そして、ンン! と咳払いをすると「次はアッシュのほうね」と頬杖をつきアッシュの顔を覗き込んだ。

「あ、僕のことと云うと始祖の件ですよね。でも——」

 と、寝息をたて涎でアッシュの白色のチュニックを濡らしたトマの寝顔を覗き込む。

「子供達のことは任せて、こちらでしっかりと面倒を見るわ。ちょうどトルステンも子供が欲しいと云っていたから、良い予行練習になるしね」と、リリーは軽く片目を瞑って見せた。


「ありがとうございます、リリーさん。何かなら何まで」

「いいのよ、気にしないで。そうそう、南のノーフォリアにね「若返りの秘薬」があるそうなのだけれど知っている?」

「あ、いいえ、すみません」


 リリーに訊ねられるとアッシュは「ははは」と乾いた笑いを漏らしそう答えると「それって——」と恐る恐る、それは何かと訊ねようとした。というのもクレイトンから戻ったアッシュは、真っ先にブリタ・ラベリの元に向かい、シェブロンズのミートパイを持って帰れなかったことを謝った。ブリタはそれに「全然気にしないでください!」と優しく答えてくれたのだが、どうもアッシュにはそれが気不味かったようで「今度、ショーンさんに頼んできます」と深々と頭を下げたのだ。

 それがアッシュにとっての何の教訓かはわからないが、相手の要望に答えられるよう、そういった情報は根掘り葉掘り訊ねるようにしていた。そして、そんなアッシュのことをリリーもよくよく知っているもので——。


「嘘よ」

「え?」

「冗談よ。アッシュは真面目すぎるのよ。秘薬が簡単に手に入ったら『秘』薬じゃないでしょ? それに、そんな薬あったら大騒ぎよ」と、悪戯にリリーは笑ってみせた。

「馬鹿ねアッシュ」と、エステルもすっかり寝息をたてたクレモンを起こさないように小さく笑いを漏らした。


「さて、冗談はさておき」リリーは話題を振った身を棚に上げ、会話をそう仕切り直す。

「アッシュの件は、もう少し時間を頂戴。あなたの場合、それ自体が国に大きく影響を及ぼす可能性があるから、王都で魔導師ジーウが何か策を考えてくれているみたい。これについては、アドルフ君達の帰りを待ちましょう」

「わかりました」と、アッシュはどこか憮然とした顔でそう答えると、エステルをチラリと見た。相変わらず、可愛らしいそばかす顔を綻ばせているエステルを見ると、なぜか憮然とした気持ちはすっかり拭い去られ、自分も顔をゆるりと綻ばせた。







 フォーセット王国属州ベルガルキー 首都クルロス。


 魔導大国フォーセットの侵略で併合されたベルガルキーの源流とは誇り高き騎馬の一族であったが、併合されてからはすっかりとその気配を身を潜めた。

 その一因として知られるのが、メルクルス神派過激派が引き起こしたとされる、大規模魔導災害による国土汚染だ。未だにその原因はが、首都クルロスを中心に発生したそれは、国土を汚染し、土地のあちこちに死の沼地——濃紫のあぶくたつ沼地を作り出してしまったのだ。

 原生の馬や牛達の一部はその沼地に繁殖した草をはみ、水を飲んでしまったが故に生態系を大きく変え、今では魑魅魍魎の部類に数えられる。また、それは大量の罪もない人々を生きたままに<屍喰らい>に変貌させると、国土のあちこちでコロニーを形成し、国民の生活を脅かしている。

 かくいうクルロスは、ここ最近ようやく都市機能を回復しつつあるが、それでも寝ても覚めても城壁に張り付く屍喰らいの変種との戦いが繰り広げられている。今では都市のあちこちにメルクルスの陰鬱とした教会が建てられ、訓練された僧兵達がその戦いの主戦力として駆り出されている。



 放棄されたクルロスの一区画に佇む教会が、昼でも陰鬱とした霧に包まれた沼地の中にあった。

 岸からそこまで渡された橋は、大きなアーチを描いている。歩けばギシギシと音がする。靄の中に佇むそれは、濃紫の沼地からあぶく立つ泡がパチパチと音を立て弾ける度に、足元に紫色の靄を這わせていた。


「まったく、こんな所に拠点を構えるなんて、どんな趣味をしているのかしら」

 アギャギャギャと魚が足を生やしたような沼地の住人達が奇声を発し飛び掛かるのを、アレクシスは軽く腕を振い斬り裂き魚の餌に換えながら云った。

 しばらく歩くと靄の中に禍々しく——元は神々しかったのだろうが今は違う、大きな教会が、その姿をぬぼうっとあらわした。巨大な正門の前には純白のローブを纏った老人が立っていた。男は忙しなく両手の指を胸の前で合わせ、動かし、そして落ち窪んだ大きな眼孔から覗かせた赤黒い瞳をアレクシスに向けた。


「<色欲>の淑女だな」カサカサした人を不快にする声が、アレクシスを迎えた。

「ええ、白銀の魔女に云われて来たわ。あなたはアイザック・バーグね」

「左様」アイザック・バーグは彼ら始祖特有の蛇のような瞳孔をキュッキュと絞ったり緩めたりを繰り返しながらそう短く答えた。

「先ほどまで儀式を執り行っておったが失敗であった」

 アイザックがそう云うと、右手の通用扉から出てきた魔導師達が裸の女の身体を二体、沼に投げ捨てる様子へ目をやった。それは、ブクブクと泡を立てると幾重にも水面に突き出された、青白い手によって沼底に引っ張られていった。


「あまり、いい趣味とは云えないわね」アレクシスはそれに目を細め、苦情を口にした。

 アイザックはそれに、カカカカと乾いた笑い声で答え「魂の抜けた身体は唯の肉塊よ。快楽も何も与えてはくれんのさ。尤もは、その後の抜け殻だがね」と、皺皺の顔をにやけさせた。


「本当に、良い趣味じゃあないわね。まあいいわ。中に入りましょう。手筈は万全?」

「ああ、勿論だとも。抜かりはない。前の持ち主は失敗したのだろう?」

「ええ、そうね。ただのチンピラでは役不足だったわ」

「ならば良い。儂が揃えた駒はしっかりと働いてくれるぞ。志も同様故にな」

「何ですって?」

「原住の人々の中にもおるのだよ」

「外環の存在を知っていると云うこと?」

「そうとも、直感的に感じておると云った方が正確だがね」

「そう。でもダメよ」

「何がだ」

「その子達に<雫>を使わせてしまっては」

「ああ、大丈夫だとも。尤も外環の深淵へ至ったその時に狂ってしまうだろうさ」

「そうね、私だって逝きかけたもの」

「そうかそうか。お主も勇敢よのお。募る話もあるだろう。ささ、中へ」







 大崩壊。クレイトン大災厄の大連鎖で各国の情勢が目まぐるしく変わると、当時ダフロイトで編成された大規模な狩人部隊、フリンフロン軍ジーウ師団長の活躍が世界中で流布された。それ以降、各国では積極的に軍への<外環の狩人>徴用が行われるようになった。


 これは大きな変革であった。

 そして、その影には軍の抜擢をまった在野の将が日の目を見ぬままに落ちぶれていく姿と、その逆に在野へ降る者の姿も多くあった。

 ここフリンフロン王国王都フロンでは、そのような戦士や元騎士が街でくだを巻き揉め事を起こすことが多くなった。その傍、警備隊に連行されず忽然と姿を消してしまう輩もいる。


 フロン郊外の山間にひっそりと佇む洋館があった。

 その一室で豪勢な椅子に腰をかけた、ミネルバ・ファイアスターターは下男から何やら報告を受けていた。

 気難しそうな白い顔をしかめたミネルバは、赤黒い瞳を大きく見開き下男を見下し、軽く波打った金髪の毛先をくるくると指で遊ぶと、苛立ちをあらわにする。


「それで、逃げ出した戦士達は見つかったの?」

「未だに——申し訳ございません、ミネルバ様」

「もう。あの子達は天塩にかけて苛め抜いたというのに。ダメよ、必ず見つけ出しなさい。今頃は身体の再編も終わって巨魔トロルのようになっている筈よ」


 そう云うとミネルバは燻んだ唐草色のドレスから伸びた白い足を前に突き出した。下男は「はい」と短く答えると、突き出された黒い艶のある履物に口付けをした。

「いい? 絶望に満ちた魂ほど私を満たすものはないの。必ず見つけ出しなさい」

 <強欲>に満ちた始祖ミネルバ・ファイアスターターはそう付け加えると、下男の顔を足で突き飛ばした。







「こんにちはー! ギネスの親方いるかい!?」


 先の大災厄で店のほとんどが焼け落ちてしまったシェブロンズ・ダイナーのオーナー、ショーン・モロウはブレイナット公国コリゴールに足を運んでいた。狩人達の念話というものは、どうやら国を跨ぐと機能しないらしく、ショーンはわざわざコリゴールにあるギネス・エイバリーのへやって来たのだ。

 無駄なもの一切を排除した質実剛健な造りの事務所は、事務所というよりはどちらかというと城館に近い。

 ショーンは立派な正面玄関をくぐると、よく声が響くホールで大きくギネスを呼んだものだから、従業員が慌ててホール正面の部屋から飛び出してきた。

「ショーンさん、そこの呼び鈴を鳴らしてくださいよ。ショーンさんの大声は心臓に悪いです」と従業員は額に汗を滲ませて云った。

「すまんすまん、うっかり忘れちまうよ」


 胸を上下させた金髪碧眼の女従業員に申し訳なさそうにそう云ったショーンだったが「それで、ギネスの親方は今日、居ない?」とずけずけと自分の用向きを伝えた。それに女従業員は、呆れ顔で「今日はまだですよ」とため息まじりに返した。


「そうかそうか、今日は来るかな?」

「どうでしょう? 特に連絡は貰っていないのですよね」

「そっか。そうしたら、これを渡しておいてもらっても良いかい?」そう云ってショーンは白い封筒を手渡した。

「これは?」

「ほら、世間で話題の『大災厄』って奴にうちの店が巻き込まれてな。店が滅茶苦茶というか焼け落ちちまったから。良い機会だから建て直そうかなって」

「それはそれは災難でしたね——ってそれが良い機会ってどういう神経しているんですかショーンさん」

「まあ、図太いって云われている?」

「訊ねているのはこっちですよ、もう。わかりました、ギネスさんに渡しておきますね」

「よろしく頼むよ」


 ひとしきり用向きを伝えて満足したのか、ショーンは「ふぅ」と胸を上下させた。

 女従業員はその様子を見ると、クスクスと笑い「本当は動揺されているんですよね?」と、悪戯に笑った。

「そりゃそうだよ。あの店、気に入っていたしな。それにうちの連中の給金も払わないとならないからね——そっちが一番重要だけれども、まあ狩りに出れば、その問題はすぐに片付くだろうけどな」

 と、ショーンは強がっているのか弱っているのか定かでない調子で女に返すと、最後は軽く片目を瞑って、本当は余裕なのだといった風を見せた。

「ところで、アレクシスって吸血鬼を知っているかい? こう、豊満で艶やかで、そうそう真っ赤な長い髪でさ——これが、めっぽう強くてな。流石の俺でも手を焼いたんだ」


 ショーンは最初、優しく笑いながらそう云ったのだが、最後の方は軽く目を細め声音を気持ち落とすと何かを探るようだった。それはショーンと長く付き合うとわかることなのだが、そういった時の彼は必ず確証めいたものを持っており、それを会話の中で符号させていくのだ。ただ、この時はいったい、何にそれを持っていたのかは分からなかった。


 尤も、それは訊ねられた本人には何か居心地の悪さを覚えさせたようだ。

 女は、二の腕がふんわり膨らんだ上品な上着のボタンを弄りながら「吸血鬼なんて本当に居るのですね」と困った顔で答えていた。彼女はそのまま足首あたりまである腰巻を揺らし「それでは、図面引きがまだ残っているので、失礼しますね」とショーンに背を向けた。


「相変わらず勤勉家だな、よろしく頼むよ







 フォルダール連邦共和国サルダール小王国。


 西に隣接するクエイスダールは随分と昔に始祖クルシャ・ブラッドムーンの手により国土の半分を塩害地に変えられた。それ以来、連邦各国は塩害地から吹き付けてくる塩分を含んだ湿った風に悩まされている。塩は森を枯らし、鉄を錆びさせるといった害をもたらすと様々な産業に大きな被害を与えた。

 そんな連邦各国の状況であったが、比較的にサルダールは隣接したクエイスダールが盾となり塩害地からの被害を被らずに済んでいた。小王都カイラスの南に広がる広葉樹の森は段々と東に広がり、遂には未開拓地との境界にまで達すると、名もなき山脈に行き当たりその版図をそこで終わらせる。


 比較的に降雨量の多いサルダール各地に点在する森林はどれもが、鬱蒼と茂った木々と北ではお目にかかれない奇抜な色をした植物で構成されることが多い。木の実、果実の類も毒々しい色彩のものから、淡い桃色と黄色が薄く混じった鮮やかなものといった様々なものが見つかる。

 夏場ともなれば亜熱帯の様相を見せる森は、そこに住まう住人達——猿や蜥蜴、野鳥などこれもまた多種多様な生物が、特有の生態系を築き上げている。ほとんどの動物達は体毛が無いに等しいか、もしくは直射日光から皮膚を守るのに必要な分だけの体毛を持ったものが殆どだ。


 だから、カイラスの森に大量発生した毛長栗鼠の存在は、明らかに異常であった。

 それが観測されたのが塩害地の発生から数年後であったことから、塩害がもたらした生態系の変化だと伝えられてきた。しかし、その栗鼠達は何年もの過酷な環境下でも、息絶えることもなく現在でも観測される。

 生物学者達によれば、この栗鼠達の個体はどうも数に限りがあるようで、それは長い年月が経ってもその個体数に変化がないのでは無いかと口を揃えた。

 森に足を踏み入れた人間を食い散らかし、害獣として駆除されようとも個体数に変化がない。ある一定の数から増えもしないし、減ったとしてもすぐに、その数に戻るのだそうだ。


 つまり——。



 この時期にしては珍しく雨も降らず、月明かりが森の中を青白く照らす夜。

 カイラスの森を抜けようとした勇猛な商隊が壊滅的な状況に陥っていた。

 雇い入れた護衛の傭兵達は腹部を何かに喰い破られ、思い思いに臓物を垂れ流し、十数頭いた馬は、それぞれの荷馬車から逃げ出していた。打ち捨てられた荷馬車の数々を背に、浅黒い肌の商人達が身を寄せ合い地べたに座り込んでいた。

 その前に立ち尽くす茶髪の女は、この蒸し暑い森の中では奇妙にさえ見える厚手の皮の外套に身をすっぽり隠していた。それは、ぬらりとし月明かりを怪しく滑らせていた。


「いいかい、あたしは今物凄く機嫌が悪いんだ。この塩臭い喰い物の少ない森に辟易しているんだ」


 女は腰に片手を当て、もう片方の手で頭の上で纏められた茶髪の脇を掻きながら、そう云うと双眸に浮かぶ赤黒い瞳で商人達の一人一人に目をやった。蛇のような瞳孔を細め「それで」と低く云うと赤くチロリと出した舌先で唇を舐める。


「早くしな。誰から喰われたいんだい? あたしの食糧になれるんだ、嬉しくて嬉しくて我先に手をあげるところだよ、ここは」

 勿論のことだが、それに答えは返ってこない。

 商人達は口々に「助けてください」「妻と子供が——」「金なら幾らでも——」とあらゆる命乞いの常套句を垂れ流すだけだった。

「嗚呼、ダメだね失格だよあんた達。最初に手を上げた奴を召し抱えてやろうと思ったけれどね。あんた達はあたしに喰われて糞になるしかないようだね」


 そういった女は外套を翻すと——その姿は一瞬、黒く輝いたかと思うと、わらわらと崩れ去り、そこに残されたのは無数の黒い可愛らしい毛長栗鼠の群れだった。誰が数えたかは分からないが、その毛長栗鼠の群れは一際大きな体躯のものを入れれば百八は居たそうだ。


 今、その群れはカイラスの森で本日何度目かの食事にありついたところだった。

 商人達の断末魔の声が森中に響いたが、それを聞き届けるのは、彼らを喰い千切り呑み込む百八の毛長栗鼠だけであった。

 つまり——ある一定の数から増えもしないし、減ったとしてもすぐに、その数に戻るその原理とは、<暴食>の始祖クルシャ・ブラッドムーンを形作る百八の栗鼠は、確実にクルシャを消滅させなければ、いくらでもその数に戻るということなのだ。







「叔父さん、早く行こうよ!」

「そう慌てるな。長旅になるのだから保存食と酒はたっぷり持っていかねぇとな」

「何を偉そうに。グラド。どうせお前は直ぐに酒は呑んじまうんだろ?」

「何をぉアイボルト! お前のシケた店で、こうやって金をつかってやっているんだ、黙って準備をしろよ!」


 夏の日差しが眩しく、森の都キーンの目抜き通りは刺すような暑さだった。

 <冬のヤドリギ亭>では、ずんぐりむっくりの男二人——グラドにアイボルトが額に汗を滲ませながら、随分と大きな背嚢に荷物を詰め込んでいる。塩気が旨い乾燥肉に、乾燥果実、温めた湯で戻せば直ぐに食べられる不思議な葉野菜——尤もこれはグラドは苦手な部類で、一緒にその作業をソワソワと眺めているミラ・グラントの為に詰め込んでいる。野菜を食べさせないとアイシャが怒るからだ。


 アオイドスが連れてきたミラ・グラントは、グラドの家に預けられると最初は酷く居心地が悪そうだった。しかしグラドの持ち前の気っ風の良さにアイシャの愛情深さに触れると、直ぐに打ち解け家族のように生活を送ったのだ。

 一年もすると急に大人びて、アイシャについて回るようになった。

 最初は一緒に遊んでくれるグラドにベッタリだったのが、同じ女性としても魅力的なアイシャから女らしさを学ぶと急に炊事など家事全般の手伝いをし始めるようになった。口調もアイシャそっくりになると、夜に酔っ払って帰ってくるグラドを嗜める姿までアイシャそっくりとなった。これにはグラドも面食らいアイボルトに愚痴をよくこぼしていた。


 酒をしこたま呑んで<冬のヤドリギ亭>を出る頃には「小アイシャにもよろしくな!」とアイボルトに揶揄われたりもした。


 そんな毎日が続いた。

 そして、すくすくと育ったミラは二年目のある日の朝、唐突に「お父さんのことを思い出した!」と大声を上げてベッドから飛び起きてきたのだ。


 夢を見たのだと云う。

 ミラと同じ黒い髪に黒い瞳の男が、どこかの村で化狐に襲われている夢なのだそうだ。その男は仲間達と、狐を追い返すのだけれども自分の身体の中から、今度は白い狼が現れ男を食べてしまうのだそうだ。ミラはその夢の中で男が狼に喰われる瞬間、それが自分の父だと直感したのだそうだ。そしてそこで目を覚まして飛び起きるとアイシャに「お父さんを助けなきゃ!」と、今度はうわんうわんと泣き出したのだ。


 アオイドスは三年後までにと云っていたから、その時期がやってきたのかも知れない。そうアイシャはグラドに云い聞かせ、大災厄のすぐ後で不吉な空気を漂わせるご時世ではあったが、ミラを旅立たせることにした。


「もおぉ! そんなに詰め込まなくても途中の街で買えば良いでしょ? 早く行こう、叔父さん!」

 痺れを切らせミラは、黒瞳を爛々とさせてグラドを急かした。グラドは「わかったわかった」とミラに目配せをすると、アイボルトに金貨を手渡した。


「おいおい、こんなにいらねぇよ」とアイボルトはそれに目を丸くした。

 掌に輝くのはフリンフロン金貨。

 これ一枚あれば、向こう数日は喰うに困らない。

「釣りはいらねぇよ」とグラドは片目を瞑って見せた。

「叔母さんに怒られるからね。知らないよ?」とミラはそれに呆れ顔で水を差す。

 アイボルトはそれに大笑いすると「小アイシャがこう云ってるが!?」と背嚢の天面をキュッと縛りバンバンと叩いた。


「おうよ! さ、行くぞミラ!」と、グラドは背嚢を背負いアイボルトに右手を差し出し固く握手をした。

「じゃあな相棒。行ってくるぜ」

「アイボルトさん、またね! 今度はお父さんを連れてくるよ!」

「おう! 待ってるぜ」


 あまりもの背嚢の重さによろけたグラドの身体を支えたミラは「ほらー」と小言を云いながら、元気よくアイボルトに手を振り、別段格好をつけた訳ではないのだけれど、グラドは振り返ることなく片手を挙げ友に暫くの別れの挨拶を送った。

 二人は<冬のヤドリギ亭>の鎧戸を開けると、陽の光で白く輝いた目抜き通りに消えていった。



 

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