グーテン・ターク・マルクト




 夢を見ているのだろうか?

 どうだろう、ぐるぐると天も地もわからない。

 鈍色の雲海に壊れた建物、馬車に城にあらゆる物。

 鼠色なのか青色の海原なのか殺伐とした地平線なのか。

 揺蕩う人、ヒト、ひと。

 揺蕩う馬に牛に猫に犬に……あらゆる生物。

 全部がそのうちに表も裏も入れ替わり青い粒子に還ってゆく。

 それは世界が裏返りねられ——そして一つに還っていくようだ。

 僕はその中を揺蕩う何かだった。

 一陣の白い風が僕を押しのけ世界を横切った。


 

「ご主人さま、それの誘いにのったら駄目です!」

 女性の声だろうか。気取った声が世界に満ち溢れた。


「ロア」

 それに答えたのは、聞き覚えのある声であった。

 揺蕩う自由の効かない身体をなんとか捻って確かめた。

 するとどうだろう、そこには鼠色の海原へ片膝をついた黒ずくめの戦士が、左腕に喰らいついた——何かに苦しむ姿があった。


 もっと良く見なければ。


 僕はいつしか胸に——何が胸なのかもわからない状況だけれども、去来した不安に突き動かされ必死で身体を漕ぎ出した。

 ロアと呼ばれた少女が、そんな不審な僕に気が付いたようだったけれども、今は海原に突っ伏した黒ずくめの男に視線を落としていた。


「本当にご主人様は私が居ないと何も出来ないのですから困ったものです。聞こえていますか、ご主人様?」


 少女はその後も随分と「ご主人様」と呼んだ男にぼやきを投げつけていたのだけれども次第に集まってきた彼女に似た格好の男が「ロア様、もう接続が切れているようです」と静かに云うと「あら」と、口をつぐんだのだ。


「私としたことが失礼致しました」

 そう云うと少女は黒い男の傍にひざまずき、突っ伏した男の身体を優しくひっくり返した。


 果たしてそこにあったのは——僕だった。


 黒いぼさぼさの髪、彫りの浅い薄い顔。目は閉じてしまっているからわからないけれども、これは確かに僕だ。


「うわ!」


 僕は思わず声を挙げてしまった。

 気がつけば僕は、随分と少女と白ずくめの男の近くまで移動をしていた。だからなのか僕の上擦った驚きの声に白い一同は反応し、こちらに顔を向けたようだった。


「なんでもアリのとんでもない世界だとは思っていましたけれど。本当にここは時間の矢が届かない領域なのですね。ほら、あれ、ご主人様ですよ」


 いつの間にか集まって来た白ずくめの集団から「おおお」とどよめきの声が上がると、少女は滑るように揺蕩う僕の傍にやってきた。


「ご主人様、私の声が聞こえますか?」


 どっちが上でどっちが下なのか僕には分からなかったけれども、とにかく真っ逆さまに浮かぶ僕の顔のすぐ傍で彼女は僕にそう訊ねたようなのだ。だが、遠くに居る友人へ声をかけるような口ぶりに、僕へ訊ねているのではないと思えてしまう。でも、それはどうやら僕に云っているようだ。


「なんで逆さまなのですか?」

 

 ああ、そうだ。そういうことならその問いかけは僕に対してだった。


「ああ、すみません。はい、聞こえています。逆さまなのは——どうなんでしょう? 気が付いたらこうでした」そう云った僕は乾いた声で小さく笑った。


 少女はその答えには満足していないようで、はぁと小さく溜息を付いた。

 と、その後ろから慌て駆け寄った白い男が「ロア様、ご主人様にそんな」と嗜めるように云うと「いいのよ。これも愛情表現の一つだとご主人様は云っていたのですもの」と男へ言い返す。ご主人様というのが仮に僕なのだとしたら、僕はこのように、ぞんざいな扱いを受けるのを良しと公言でもしていたのだろうか。


「さてさて、ご主人様。ちょうど良かった。どの時点のご主人様かは解りかねますが、このままですと——ほら見てください、ご主人さまの腕に喰らい付いた、あの汚いのがご主人様をひっちゃかめっちゃかにしちゃいます。だから最初に忠告申し上げたのですよ? PODSをリードランに放置しちゃ駄目ですって。しかも七つも」


 少女はそこまで凄い剣幕で僕に捲し立てると、どこまでも、まるっきり、まったく理解していない様子の僕へ「今のご主人様に云っても解りませんかね」と、やはり落胆の表情をしてみせたのだ。何を叱咤されているのかさえ見当もつかない僕はと言えば、悪い癖なのだが取り敢えず「すみません」と口にした。


「気にしないでください。それでは、ご主人様。私達もこのままですと贋作に呑まれてしまいますし、あの魔女メリッサにも勘付かれてしまうので手短に説明をします。やっていただきたいことはたった一つですので安心してください。今のこの状況はといいますとダフロイトを中心にリードランが崩壊しようとしています。その原因は、あの汚いのが誤ってご主人様を媒介に<外環の世界>を呼び込もうとしたからです。細かいことはまた次の機会に説明しますが、今はあの喰らい付いている汚い頭に——」


「頭に?」

「名前をつけてください。ご主人様お得意のラベリングです」





 気持ちの良い日差しがアッシュの顔に落ち暫くすると外で鳥が囀った。

 変わりのない朝がやってきたことを知らせたのだ。

 変わりのない——とは云うけれども、遠く北のダフロイトは今でも警戒線が張られ、中央北、北西、北東区画は立入を規制されているそうだ。

 フリンフロン王国、アークレイリ王国を中心に各国から支援物資の供給や職人など働き手となる人工にんくが手配され、界隈では不謹慎ではあるが、いみじくも経済的な活動が大きく活性化しているそうだ。

 これらの情報は、昨日、館にやってきた薬師のブリタがもたらしてくれたものだった。


「——リッサ? 名前? そんなことを云われても——」


 アッシュは朝の日差しと鳥のさえずり、もっというと部屋の外から聞こえてくる館の面々の喧騒で寝言とともにパッと目を覚ましたのだった。


「え? 私何か云いましたっけ?」

「うわ!」

 寝言に答える声が優しく鼓膜を震わせた。

 それに思わず驚きの声をあげたアッシュは勢いよく身体を起こした。そこに居たのは、背を向けてはいるが綺麗に輝く銀髪のおかげで、すぐに薬師のブリタだということがわかった。彼女は部屋の鎧戸のすぐ横に用意された小ぶりな机でアッシュに呑ませる薬を調合をしているところだった。

 ブリタはトルステンからの依頼で、不自然なほど体力が低下したアッシュの症状を診ることと、治療に必要な薬の世話をしている。そして必要であれば良くなるまで館に逗留して欲しいとも依頼されていたのだ。


「今日は皆さんで市場にいく日ですよね? 携行用の薬も調合するので少し待ってくださいね。と、これは今朝の分です」


 ブリタはアッシュの大声には一切触れず、淡々と調合された薬と水の注がれたグラスを手渡した。どうやら外の喧騒に出発の時間が迫っていると、急いで調合を進めてくれているようだった。アッシュは酷い顔で薬を流し込むと「ブリタさん、おはようございます」と的外れな朝の挨拶をした。


「アッシュさん、さっきもそれ云ってましたからね?」

「あ、あれ? そうでした二度寝しましたかね?」

「ええ、そうですよ。さ、お薬飲んだら支度しちゃってくださいね」

「あ、ええ、はい。でも——」

「でも、なんです?」

「着替えるのに——」

「私はこっちを向いて作業しているので気にしないでください。なので早く支度しちゃってくださいな」

 微笑んだブリタへアッシュは少なからず不満といえば嘘になる気恥ずかしさを感じながら、ぎこちなくベットを降り支度をし始めた。


 


 

 ネリスが珍しくリリーを「リリーさん」と呼び、連れてきた少女はブリタ・ラベリと名乗った。トルステンからの親書を携え館にやって来た彼女は、アッシュの衰えた身体を診るのだという。

 リリーは御神木の秘術でブリタの来訪を夫へ確認をすると「ようこそ我が家へ」とブリタを歓迎したのだった。ブリタを初め見てた時は随分と怪訝な顔をしていたリリーであったが、トルステンと確認が取れると納得をしたのか、嘘のように晴れ晴れとした顔をしていたのが印象的だった。

 トルステン曰く、ブリタは交易都市セントバでも有名な薬師で、多くの狩人が彼女の配合する霊薬を求めてやってくるほどなのだそうだ。評判も上々で高明な医師が音をあげるような病でも、多くの場合は彼女が配合した薬を決められた期間しっかり服用すると、すっかり健康になるのだそうだ。

 もっとも、致命的に根の深い病であった場合、そもそもの体質に端を発する先天性の病の患者はブリタの見立てに基づき書かれた紹介状を携え教会の扉を叩くこととなる。


 トルステンはそんな彼女の腕前を見込んで仕事を依頼したのだ。

 

 しかし、当のアッシュは、アドルフとの鍛錬を終えると酷く疲れたようで簡単にブリタへ挨拶を済ませると、そそくさと自室へと戻ってしまったのだ。

 これにブリタは「仕方ありませんね」と云ったが心中複雑な表情で苦笑いをしていた。


「アッシュさん、お薬苦手なのですかね?」

 と、思わずブリタはアオイドスに訊ねたのだが「子供じゃないんだから、それはないでしょ」と、突然の来訪者へ憮然とした答えに苦笑いを重ねたのだった。そして、アッシュと同じくそそくさと館に戻っていったアオイドスの背中を見送りながらブリタは肩を竦めた。


「ここ最近、色々とあって皆、神経質になっているようなのです、ごめんなさい。私はエステルと云います。宜しくお願いします、ブリタさん」

 その場の空気の悪さに、それこそ神経質になってしまったエステルは、居た堪れなくなったのかブリタにそう声をかけると、握手をかわし簡単に自己紹介をした。

 それを遠目に見ていたリリーは「そうそう、気にしない気にしない。とびきり美味しいお茶を淹れるから大広間に行きましょう」と、その場の面々と大広間へ向かった。



 

 ブリタは粗方の状況を確認すると、館へ滞在することとなり翌朝からアッシュの診断を始めることにした。

 その日、結局夕飯にも顔を出さなかったアッシュの部屋へブリタはリリーとエステルと訪れた。やはりアッシュは泥のように眠っていた。

「疲労が溜まりやすくなっているのかも知れませんね」

 ブリタは触れても起きないアッシュを触診した。次々とつぶさに診断を口にする姿へエステルもリリーも感嘆の声を挙げるばかりであった。尤もアッシュの寝衣を開け胸に耳をあてたブリタに驚いたエステルが挙げた悲鳴は別物だ。


「明日は皆さん市場ですもんね? 滋養強壮の効果のある丸薬を準備しておくので、それをアッシュさんに持たせますね。朝には別の薬を服用してもらいますが、もし疲れが酷くなりそうであれば、それを飲むようにしてください」

 銀髪の薬師は最後にもう一度アッシュの顔を覗きこむと微笑んだ。

「子供みたいですね——さて、私も今日は疲れてしまったので、お先に失礼します」





 ブリタから丸薬を渡されたアッシュは、着替えを済ませ携行バッグを肩にかけると「ありがとうございます」と、そこはかとなく照れ臭そうにしていた。それには理由が二つあった。

 

 昨日はそそくさと自室に戻ったものだからブリタの印象と云えば綺麗な銀髪、それだけだったのだ。だから、口元を覆った布を外したブリタの素顔をまじまじとみるのは、これが初めてだといって良い。猫の目のような双眸に蒼い瞳。ころんとした鼻に小振りな唇といった仔猫のような印象。その愛くるしさに良い大人が、どう接して良いのかが分からない様子なのだ。


 そしてもう一つが、これだ。


 部屋に差し込んだ薄い薄い白い陽の帯。それが落とすちょっとした影。それは、そうなることが必然のような幾何学的な関わり合いで部屋を一つの額装のように見せたのだ。それだから部屋に佇み微笑むブリタは、その容姿もあってか、まるで画布に描かれた妖精か何かのようなのだ。少なくともアッシュにはそう見えた。部屋全体が、さながら額装された絵画を思わせたのだ。


 かくして、いよいよアッシュは声をかけることもままならない——しかしだ。

 最初は魚のように口をぱくぱくと空白を吐き出したのだけれども、ここはとしては伝えておかなければならない事があると意を決した。


「あの、ブリタさん」

「どうしましたか? 薬のことはリリーさんとエステルさんに伝えてあるので心配しなくても大丈夫ですよ」

「あ、いえ、それは大丈夫なのですが」

「あら。だったら、ささ、早く行かないと」

「ああ、はい——あの」

「ええ?」

「昨日はすみませんでした」

「え?」

「酷く疲れてしまっていたとはいえ、礼を欠くようなことをしてしまって」

「ああ、そのことですか。大丈夫ですよ。しっかりとリリーさんとエステルさんに慰めてもらったので」

「ああ、本当にすみませんでした」


「慰めてもらったっていうのは冗談ですよ! 本当に大丈夫ですので、気にしないでください。さあ、早く行ってくださいな。皆さんお待ちですよ」

「あー……」と、得心のいかないアッシュはその場で気色悪く、もじもじとし始めた。

「あ! わかった」

「え?」

「お土産!」

「お、お土産——ですか?」

「ええ、お土産。そうですね、私、クレイトンのシェブロンズダイナーのミートパイが好きなんです」

「あ、なるほど。わかりました。でもそんなもので良いのですか?」

「ええ、良いのです。それにあそこのミートパイはじゃないですよ。食べてみたらわかりますから、ぜひアッシュさんも食べてみてください」

「わかりました、シェブロンズダイナーのミートパイですね」

「ええ、楽しみに待っていますね」

 途中ブリタに揶揄からかわれたアッシュだったが、胸につかえた気持ちをようやくのこと口にできると「はい」と、でもまだほんの少しだけ、はにかんでブリタに背を向けた。


 本人にとっては、一世一代の吐露のようだったが、それはそれ。

 受け手は意気込みの空振りっぷりに、こそばゆさを感じるも嫌な気はせず、終始微笑んでいた。そんなアッシュの心境を知ってか知らずかブリタは最後にもう一度、悪戯に微笑み、鎧戸の前でもたもたする背中を押すと「行ってらっしゃい」と、アッシュを送り出したのだった。






 大崩壊以降、ダフロイトからの避難民は大きく二つに分けられ、フリンティーズと、クレイトンへ振り分けられることとなった。フリンティーズには防衛軍と警備隊に所属した戦士と魔導師、魔術師などとその家族や軍属が身を寄せ、クレイトンへは主に商人に農民などといった一般市民が身を寄せた。

 そして、一時的にとはいえ急激な人口の増加は、この二つの都市の台所事情を大いに圧迫したのだった。クレイトンでは、この問題を解決するべく街の主だった広場を王都フロン、マニトバの商人達へ開放し臨時の市場を開くこととなった。


 リリー、ネリス、その他数名の館の農夫達は、この臨時市場へ招かれた商人達と肩をならべ農作物など販売をすることとなっていた。勿論、商材はルエガー大農園産だ。


 アッシュとエステルはこれの手伝いとしてリリー達へ同行をする。

 一方、アオイドスとアドルフは王都フロンへ馬を走らせた。

 これは、各地で情報収集にあたった野伏のぶせ達からの報告を共に聞いて欲しいという魔導師ジーウの要請に答えたものだった。







 ——城砦都市フリンティーズ南 クレイトン郊外。


 ブリタが調合し飲ませてくれた薬の効果なのか少しばかり眠気を覚えたアッシュは、市場に到着するまでの間、馬車に揺られ眠っていた。


 エステルはアッシュの寝顔を覗き込みながら馬車に揺られている訳だが、轍にガタつく馬車の揺れに首をとられ、顔と顔が近づいたりもする。

 その度に小さな声を挙げる赤髪の頭をボケっと追いかけるリリーは、そのうちどこかじれったく「ねーエステル!」と自分でも驚く大きな声で彼女を呼んでいた。

 

 街の十字路、右から来る荷馬車を先に通したリリー達の馬車は丁度よく車輪の音を消したものだから思いの外、大声となってしまったようだ。目を丸くして手で口を覆ったリリーは「あら失礼と」肩をすくめてみせた。

「どうしましたか、リリー?」

 やっぱり目を丸くしていたエステルは「あ、到着しましたか!?」とアッシュの肩に手を触れたのだが、リリーは「ごめんごめん、違うのよ」と両手を振ってみせた。


 

「あのね、エステルはアッシュの事を愛しているの?」

 ドの付くほどの直球にエステルは口をパクパクさせると「あ、誰がですか?」と明後日の方向へ直球を打ち返した。

 そもそも、うわべだけの家族愛なんてものにだって愛想を尽かし家から逃げ出したエステルにとって、自分が誰かをそうなのかと訊かれてもピンと来ないのだ。いや、来ているのかも知れないが認める材料に気が付かないといったところか。


「おう! 晴れてよかったな!」

 ネリスは右に道を折れて行く荷馬車の一団に声をかけている。

 外から遠ざかってゆく幾つもの車輪と蹄鉄の音がぼんやりと荷馬車の中に聞こえた。


「誰がって、あなたがアッシュを愛しているのかって訊いているのよ?」とリリーはまたぞろ目を丸くし、グイッと身体をエステルに寄せた。


「あ、いえ、いや」

 これまでの人生で誰かから、ぐっと距離を詰められる経験はエステルにはなかった。それが得体の知れない質問の解を求められているわけだから、尚更焦ってしまう。辛うじて学友と呼べる王都の隣人達にとっては、エステルはいつだってベーン家の御令嬢。

 まるで腫れ物を触るかのように関わってくる輩と、気心知れた親友のように関わってくる輩とに別れていた。前者はやっかみ、後者はご機嫌とり。


 いつだって<ベーン家>が付き纏うわけだ。

 でもリリーは違った。大広間で啖呵を切った自分を受け入れ、むしろそれまでよりも心の距離が近く暖かい。時折感じる冷たさは彼女の職務故と、それを差し引いたとしてもエステルは、リリーのそんな真正面から接する心の距離感を心地よく感じている。


「で、どうなのよ?」リリーのにやけた顔が近づいてきた。

「あ、いえ。どうなんでしょうか?」

「何がよ」

「その、愛してるってどういうことなのかな? って。リリーさんはトルステンさんとなんで一緒になったのですか?」

「そうね、どうなんだろうね。気がついたら一緒に過ごす時間が段々と長くなって、そのうち毎日一緒に居るようになったのよね。ってあなた、話を誤魔化すのが上手ね。世間知らずなふりをして実は——」

「いえいえいえいえ、すみません。そういうつもりでじゃなくて」

「あはは、冗談よ冗談。それで?」

「あー答えないと駄目ですか?」


 エステルは可愛らしく、そばかす顔を赤らめた。

「そうね。聞きたいわ」リリーは陥落寸前の砦を目の前に勝利を確信したようだ。


「正直、何が愛しているということなのか訊かれると答えに困ってしまいます。でも、私、アッシュと出会ってから短い時間ですが一緒に過ごして分かったのです。この人、私よりも生き方が不器用なのだろうなって。それが分かった途端、彼の言動を思い出すたびに新しい発見があって。いつの間にか彼のことを考えると気が気でなくなってしまって。ええ、そうです、それが愛しているということではないと思うのですが、でも、こう、胸の辺りが苦しくなるんです」


 エステルの真っ直ぐな吐露にリリーはしっぺ返しを喰らったようだ。

 陥落寸前の砦にはどうやらがあったのだ。

 リリーは顔を赤らめ両手で頬を覆うと「ひゃー、アチチチ。火傷しそうね」と、エステルを真っ直ぐに見つめた。


「あ! やっぱり私変なこと云ってますか!?」

 エステルは慌てて両手を振って、リリーに負けじと顔を赤らめる。

「全然、変じゃない! だから今のアッシュも——」

「ええ、むしろこっちが本当の彼なのかなって」

「なるほどなるほど。いやいや良い話が聞けたわ、ありがとうね。いえ、ご馳走さまでした」


 エステルはリリーの悪戯な微笑みに結局陥落したようで「もう、リリーさん」と小さくか細い声で白旗を上げた。


「親方! 出して良いですかい!?」ネリスが惚けた声でリリーを呼んだ。

「ちょっとネリス! 盗み聞きしていたの!?」


 リリーは荷台から馭者台に身体を勢いよく出しネリスの耳を摘んだ。

「良いからさっさと出しなさい」と笑いながらそう答えた。

 ネリスは手綱を軽く波打たせ、荷馬車を走らせた。

 後ろに続く農園の馬車もゆっくりと動き出す。

 あと半刻もしないうちに臨時市場が見えてくるはずだ。


 リリーは「良い天気ね」と空を見上げると黒い鳥が高いところをゆっくりと飛んでいるのを見つけた。


「そう云えば、あれからも、何度かアッシュは空を眺めていたわね」

「え? 何がですかい?」

「いいえ、こっちの話よ」

「へい。お。親——リリーさん見えて来ましたよ。イテテテテテ!」

 ネリスの耳を再び捻り上げたリリーは「あら、随分と大盛況よ」と、荷台のエステルを呼んだ。


 目の前に広がるのは、赤に緑に青、見たこともない色鮮やかな模様のテントが、大小様々、所狭しと肩を並べ合う臨時市場の光景だった。

 どれが商い人で、どれが客なんてことは全くどうでもよく、とにかく人でごった返したその様子に「ちょっと出遅れちゃったわね」とリリーは苦笑いをした。


 ここから数日間、リリー達は露店を出し葉野菜などの作物も勿論だが、パンにチーズ、ハムにソーセージといったご自慢の加工品も売り捌いていくのだ。


 エステルはいつ間にか目を覚ましたアッシュと身体を乗り出すと、その光景に目を輝かせていた。



 

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