魔導師アッシュ・グラント③




 魔力暴走から数日、クレイトン近隣には暗雲が垂れ込み、しとしと冷たい雨を降らせ続けた。この時季の雨は街道を濡らすと踏み固められた道はぬかるみを作りわだちに雨を残す。そして朝方には凍ってしまい昼頃には更に足場を悪くする。


 これには早馬を駆ける伝令に、気ままな旅人も近場の宿場町で宿をとり、大人しく暗雲が過ぎ去るのを待つしかなくなる。馬や馬車が足を取られてしまうのもそうなのだが、それとは別で野盗や塚人、腹を空かせた土鬼の類が霧や靄に紛れ街道へ姿を現すことも多くなる。

 そうなってしまうと旅を続けることが難しい。

 市場に向かう行商や資材を運搬する商隊、時価に左右される守銭奴達、そして親書を携えた伝令はそうも云ってはいられない。

 世界中を蜘蛛の巣のように張り巡らされた街道の要所要所には、旅の安全を約束する傭兵団の拠点が多く点在する。だから足を止めることを許されない面々は傭兵を雇い入れるのだ。そうやって街道での安全を確保する。リードランではもう数百年以上その光景は変わらない。


 そして、ここ<大木様の館>もそんな傭兵団の拠点の一つとして知られている。

 ルエガー大農園は表向きの顔。幾つかの顔をトルステン達は使い分け、本業を巧妙に隠している。

 

 魔力暴走から八日後には、そんな暗雲はすっかり過ぎ去り冬の空へ太陽が戻って来た。十日後の昼下がりには派遣されていたネリス達が東のハップノットから帰還し、厩舎へ馬をつなぎに来ていた。

 

「お、アドルフに——おお、アオイドスも居るのか。しばらくぶりだなお前ら」

 ネリスは厩舎につながれた栗毛の軍馬と白い毛並みが美しい軍馬を見つけ、分厚く優しい手で鼻面を撫で付けた。顔馴染みのネリスに愛撫された二頭は、ネリスの馬に軽くかぶりを擦り付け出迎えると、もう一度ネリスに愛撫を求めた。

 厩舎はいつでも馬を走らせられるよう、室温を適度に管理されている。なので随分と快適なのだが、しばらくぶりの再会に興奮をしたのか三頭は小さくいななくと、鼻やら口から白い煙昇らせた。

 馬をつなぎ終えたネリスは旅の相棒達へ「また後でな」と声をかけると、急いで厩舎を出ていった。先ほどから裏庭の方から聞こえてくる剣戟の音が気になったからだ。







 ここ数日大空を埋め尽くした暗雲はすっかりとどこかへ流れ鳴りを潜めた。昼下がりの裏庭は、空気がひんやりとしているが陽の光の中にいる限り随分と暖かい。

 

 アオイドスは魔力暴走を収めた後、大広間で今後の方針を確認をしたのだが自身が収集してきた情報は、ほとんど口にしなかった。

 それに不服を申し立てたリリーはアオイドスに詰め寄ったのだが、時がきたら全て話すとアオイドスは一点張りだった。果たしてリリーはアオイドスの言葉を信じる他なくなると、それ以上の追求はしなくなった。

 その担保となったのは、これまで彼女がそう云って約束を反故ほごにしたことはなかった信用による。

 尤も、アオイドスはアッシュの体調に関しては分かったことを推測も交え皆に伝えたのだから、話す話さないの境界線が何処なのか一同は首を傾げた。


 魔力暴走をしたアッシュ。言葉を少々濁したものの今のアッシュはかつての<宵闇の鴉>とは全くの別物であること、だが、その性質はそのまま残っていると説明をした。

 過去の経験、記憶を全て無くしたアッシュは、それと引き換えに<謄写とうしゃの目>と呼ばれた特殊な技能を覚醒していることを伝えた。


 これが唯一、吟遊詩人がもたらした情報だった。

 <謄写とうしゃの目>

 それは限界があるものの、意図的に観察、体験をした技能を完全に模倣できる技能なのだそうだ。では限界とは、以前のアッシュの経験値がそれとなる。つまり以前のアッシュが出来なかったことは幾ら観察をしようが、体験をしようが模倣ができない。

 ただし、どういう訳かアッシュは体力までも低下をしていたことから鍛錬を通じて筋力の増強を魔導魔術の修練と合わせ行う必要があるのだそうだ。

 だから、今はかつてのように両手剣を携え魔導を伴うことはままならない。



 かくして晴れ上がった昼下がりの気持ちの良い陽の中、アドルフとアッシュは対峙をしている。アオイドス曰く、鍛錬は実戦形式で行うのが一番手っ取り早いのだそうだ。


「なんで僕がアッシュさんの鍛錬に駆り出されるのか——」

「嫌なの?」

「いえ、そうではなくてですね——その……<宵闇の鴉>を相手にというのが、どうにもやり難くてですね。それに最初は魔導の修練ではなかったのですか?」

「つべこべ云わないの。細かい男はモテないわよ」

「——そ、そういう話しですか?」

「そう、そういう話しよ。さ、構えて」


 野伏のぶせアドルフ・リンディの視線の先で佇むアッシュ・グラント。


 今や何者でもないアッシュ。

 それは白でも黒でもなく無色透明のただのアッシュ・グラントだ。

 竜殺しの英雄。巨人の敵。多くの渾名あだなで呼ばれたアッシュ・グラント。外環の狩人は時の経過はさして問題ではないのだけれど、多くの時の中でアッシュが望まれてきた役回りは、彼が望まないものも含め彼を彼としてそこに在らせた。英雄譚の中、もはや神話に名を連ねる物語の中にこそ、かつての彼の居場所があった。しかし、その虚像はもう彼を覆ってはいない。

 

 魔力を封じた狩猟短剣を逆手に構えたアッシュはアオイドスの「構えて」の言葉に息を静かに吸い込むと、ゆっくりと右脚を下げ腰を落とした。

 左手を前に軽く掲げ、そして「お願いします」と、短く云い軽くかぶりを下げた。

 

「お手柔らかに」アドルフの戯けた表情は消えていた。

 今日この日に至るまでも館の修練場で簡単な手合わせをしているのだが、日々日に感覚を取り戻してきているアッシュは強敵だった。修練場では魔力を練りながらの体捌からださばきの鍛錬が中心であったから徒手空拳の組み手が主だった。だから武器を手にした本格的な実戦訓練はこれが初。アドルフに緊張が走った。


 それを見守るアオイドスは杖を取り出し地面を小突いた。

 すると二人の足元にパッと術式が現れ、青い光が二人を包み込む。


「さて、致命傷になる一撃が入ればこの<魔力の殻>は弾け飛ぶわ。そしたら、終わり。いいわね? 追撃は無し。アッシュはこれまでの修練どおり魔力を練っても良いけれども教えた<言の音>だけを使いなさい。それ以外に意識を向けては駄目。いいわね」

「はい」アッシュはアオイドスの言葉に短く答えた。

「了解です」

 アドルフもやはり短くそう答えた。そして両手を胸の前で強く合わせると、どうだろう黒鋼の短剣を二振取り出しアッシュと同じく逆手にそれを構えた。


 アッシュはそれに目を丸くしたが、すぐに気を取り直した。

 足首でキュッと裾が締まったゆったりとした黒いズボン。

 上から羽織った外套は膝下までを隠し、略式のケープにはフードが付いている。これは魔導師が修練する際の一般的な服装で本来であれば格闘には向いていない。しかしアッシュはこれが身軽で動き易いと好んで着用をした。


 アッシュの火照った頬を冷たい微風が撫でていく。

 視線上のアドルフも短剣を構えた。


「始め!」昼下がりの空の下、アオイドスの声が響いた。

 目にも留まらぬ速さで動き出した二人は、ほぼ同じ距離を移動した先で先ずは短剣を合わせ火花を散らした。

 右の一刀でアッシュの一撃を逆手に受けたアドルフは、左の一刀でアッシュの脇腹を目がけ突き立てようとする。


 その動きは洗練され、そして鋭かった。


 短剣術とは接近戦においては視線外での手捌きに合わせ、足技を巧みに型へ組み込み相手を翻弄する。しかし、アドルフの左の一刀はアッシュの脇腹を突く前に、身体を転回したアッシュの左掌底に阻まれ軌道を外された。

 アッシュはそのまま左脚を軸に旋回すると左の掌底を押し込み、右の一刀の切っ先でアドルフの背面を狙う。

 アドルフはその軌跡を想定済みだった。押された左腕をそのままに前へ踏む。背面をアッシュから隠すように旋回するとアッシュの切っ先を叩き落とした。

 思わず前のめりになったアッシュだったが勢いを活かし左の回し蹴りを放つ。器用に重心を移動するアッシュの動きに翻弄されたアドルフは防御が遅れ、堪らず脇腹に直撃を受けてしまう。


 くの字に折れたアドルフの身体はその瞬間、本当に瞬く間、身体を浮かせてしまった。アッシュはその瞬間を見逃さず、大きく踏み込み、肩でアドルフの身体を吹き飛ばした。そこで胸への一撃を放ってしまえば、恐らくアドルフに腕を取られ強烈な一撃を喰らうだろうと予測したのだ。


 しかし、それはアドルフの誘いだったのだ。

 吹き飛ばされたアドルフはそのまま宙で身体を捻り、すぐさま体勢を整えたのだ。アッシュはそれでも飛び掛かるように鋭い追撃を放った。アドルフはこの油断に誘われた一撃を待っていた。左の一刀でアッシュの短剣を弾くとアッシュは勢いを殺され空中で身体を開いてしまう。それは一瞬の無重力、虚、そういった空白の時間となる。


 アドルフは何かを呟くとその場から姿を消し、瞬く間にアッシュの背後をとった。

 左手の一刀を投げ捨てアッシュの外套を掴み引き寄せ——右の一刀で背後からの一撃を放った。


 バリン!


 何かが砕けた音がした。

 アッシュの身体が青く輝き、魔力の殻は砕け散った。


「そこまで!」

 アオイドスの鋭い声が辺りに響き渡った。


「あ、ありがとうございました」


 アッシュは大の字に転げアドルフを見上げながら云った。

 すでに息が限界を迎えていた。目がぐるんぐるんと回ってしまい四肢に力が入らない。剣戟の最中、確かに魔導で身体を強化していたにも関わらず、この激しい消耗はアドルフの卓越した技量が削り取った結果なのだと感じていた。


「ありがとうございました。アッシュさんに語るような話ではありませんが、短剣での戦いは引き伸ばされると結構厳しくなります。最初の一撃をあんな風に凌がれたのには正直驚きました。長期戦になるかと覚悟を決めたのですよ。いやはや、お見事でした」


 アドルフは「立てますか?」と声をかけながら右手を差し出し、そう云った。


「はい。ありがとうございます」フラフラとしながらも力強くアドルフの手をとったアッシュは立ち上がり、一礼をした。


「アドルフさんの体捌からださばき、本当に凄いですね。驚きました」

「いやいや、あの体勢から背中を狙われるとは思ってもいませんでしたからヒヤヒヤしましたよ——それと、アッシュさん」


 アドルフにことさら呼ばれたアッシュは、きょとんとアドルフの顔を見た。

 アドルフは、それに何故か顔を赤くして「いえ、アドルフでいいです。アッシュさんに敬称で呼ばれるのが、なかなかに気持ち悪くて」と癖っ毛を掻き乱した。

 

「何を恥じらいながら云っているのよアドルフ君。ちょっと気持ち悪いわよ」

 そう云ってアオイドスは一戦を終えた二人の傍に立ち「いい一戦だったわね」と労いの言葉をかけるのであった。


「き、気持ち悪いって酷くないですか先生……」

 そのやり取りにアッシュは思わずクスっと「二人は仲がいいのですね」と笑った。アオイドスとアドルフはそんなアッシュの顔を見ると、互いに顔を見合わせ肩をすくめあうのであった。





 剣戟の音に誘われたネリスは急ぎ足で厩舎を出ると、ずんぐりむっくりした身体を揺らし本館の角を「早くしないと終わっちまう」とぼやきながら曲がった。

 綺麗に清掃された正面玄関前の馬車回しには、落ち葉一つ落ちていなく、ネリスが留守の間もきちんと掃除は欠かさず行われていたことを伺わせた。


「おお、ちゃんとやってるじゃねぇか。っと、急がないと!」

 遠くから響く激しいぶつかり合いの音にハッとするとネリス血相を変え走り出した。向こうを見れば、その音の正体を遠目から眺めているリリーとエステル見つけ、声をかけようとした——その時だった。


 急ぎ駆け出したネリスを呼び止める声が聞こえたのだ。

 まさか、今通ってきたばかりの道すがらに人影など無かったはずなのに、その声ははっきりとネリスを呼び止め「すみません」と云ったのだ。ネリスは瞬時に腰帯へ忍ばせた短剣を抜き放ち、構え、一歩後ろに飛び退き「誰だ!」と鋭く云い放った。


 向こうに見えるリリーとエステルはこの異変に気付いていない。


 忽然と。それこそ忽然と。馬車回しにしつらえられた小さな噴水の前にポツンと佇む一人の少女の姿があった。

 独特な少々青みがかった白い外套は首周りにフサフサとした何かの白い毛で縁取られ、小さな顎下までを覆い隠している。足首まですっかり隠している外套の裾もやはり同じく綺麗な白色の毛で縁取られていた。長靴は黒くぴかぴかと丁寧に手入れをされている様子だ。


 彼女は「驚かせてしまってすみません! どうか短剣をしまってください」と慌てて云うと、両手を前にし、かぶりを下げた。

 それに合わせ流れ落ちる白銀の髪は、ふんわりとして、そして冬の光に輝く清流のようだ。光の当たる角度が変わると少し青みがかって見えるのだから尚更だ。


 ネリスはそれに何も答えず、息を呑むが、短剣をしまうことはしなかった。

 どこか儚く壊れてしまいそうな美しさにネリスは——疑いの目を向けていたのだ。いくら晴れ渡ったからといって徒歩でここまで来れば長靴は幾許かでも汚れて然るべきだったし、馬車に揺られてきた様子も、馬を駆った様子もない。


 そうなのだこの白銀の少女は、忽然とそこにあったのだから。

 気が緩んでいたとはいえ野伏のぶせのネリスが背後をとられるのは考え難い。もしそれができるのだとしたら、それは<外環の狩人>か若しくはそれに肩を並べる存在——例えば、そう、吸血鬼の始祖。


「悪いがお嬢ちゃん、確認させてくれ。いつからそこに居た」

「す、すみません。たった今ここに——えっと……現れた?」

「ちょっと待て、なんで疑問系なんだ。ん? まさかアオイドス達の知り合いか?」

「アオイ……ドスさんですか?」

「ああ、つまり外環の狩人かと訊いている」

「なるほど!」


 銀髪の少女はそう云うとポンと拳で掌を叩いて見せた。ネリスはそれに目を丸くしたが、構えは崩さない。


「すみません、そうです。私は薬師のブリタと云います。ブリタ・ラベリです。あなたの云う通り<外環の狩人>というやつです、はい。トルステンさんにお仕事を頂いてセントバからこちらに伺いしました。つい先ほど、門前まで馬車で送ってもらいまして」


 そう云うとブリタは外套の下にかけていた革鞄から一通の封書を取り出しネリスに手渡した。片時もブリタの同行から目を離さないこの用心深い野伏のぶせは、封書を綺麗に切り中の手紙を確認すると、うんうんと頷いて見せた。


「あーえっと」

「ブリタです。ブリタ・ラベリです」

「ブリタ、悪かったな。確かにお館様からの親書だ。それで、アッシュの容態を診てくれるって云うなら、あいつなら向こうにいるぜ。案内するから一緒に来な」


 ネリスはそう云うと、それまでの顰めた表情をすっかり崩し大声で笑うと、向こうに見えるリリーへ「おーい! リリーさん! 客人が来たぜ!」と必要以上に大きな声で叫んでいた。



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