生きるということ




 ——ガライエ砦前。


「さてお姫様。この後はどうする」


 眷属が黒鋼の前へ沈む。それを黙って眺めた吸血鬼であったが、それには何か目算があってのこと。<宵闇>はその何かを警戒し、アレクシスを牽制する。単身であれば不測の事態にも対処ができよう。しかし今は自ら拾った命を背負っている。背後で息を切らす魔導師を一瞥し、アッシュは黒鋼をアレクシスに向けた。

 それに大きく目を見開いたアレクシスは、小さく拍手を送った。

「アッシュ・グラント。私はね、美しいものが好きなの。だから醜いだけの無粋な男は嫌い。でもあなたは違うわね。口は悪いけれども、美しさを感じる」


 アレクシスはゆっくりと歩みを進める。

 背後の魔導師は動けそうにもない。


「どう? 私と手を取り合わないかしら? 眷属になれとはいわないわ」


 高慢で何もかもが自分を中心に回っている。そんな不遜な態度。

 きっとこの女は、世界は自分の為にあると信じてやまないのだ。こういう手合いは拒否されれば激昂し、相手が屈服するまで怒りぶつけるから手に負えない。数年前のことだ、南のフォルダール連邦共和国クエイスダールの西を真っ白な塩だけの大地にしたのは吸血鬼の暴走によるものだったと聞く。

 クルシャ・ブラッドムーンと名乗る始祖は、自身の暴食を満たすため国一つを養殖場とするべくクエイスダールへ姿を現した。数名の狩人が討伐に向かったが、彼らの経験と力では彼女を退くことは叶わず毒牙の前に沈んだという。

 しかし、後に現れた双刀使いの狩人に完膚なきまでに敗れ、怒り狂いクエイスダール領土の半分を塩の大地に変えたのだそうだ。その原因は諸説あったが先に討ち取った<外環の狩人>の力を利用しようとし、失敗したというものが有力であった。

 自分の思い通りにいかなければ怒り狂う。随分と迷惑な話だ。


「お断りだ」

 自分の誘いに答える訳でもなく、向けた切っ先をクイっと上げ、そう云い放つ<宵闇>に思わず「あら」と高笑いをするアレクシス。ひとしきり笑うと蛇目を細め、人差し指を静かにアッシュの黒鋼へあてがった。

 異常な力で切っ先を押されるのをアッシュは感じた。気を抜けば腕ごと持っていかれる。身を引くには後ろの魔術師をなんとかしなければならない。

 これは自分の悪い癖だ。助ける義理もない人間に手を差し伸べてしまう。見返りを期待する訳ではないが、それでも人の無情に触れれば勝手に傷つき落胆する。そんな事の繰り返しに、自分のことだけを考えようと毎回誓うが、その誓いは守られたことが無い。


 だから今だってそうなのだ。


「———そうかい」


 アッシュは切っ先にかかる力をそのまま受け流し黒鋼を下げると身体を左に捻った。アレクシスは突然抜けた力に前のめりとなると、伸びた右腕を狙って剣筋が流れてくるのを感じ、ひらりと後ろに一歩飛び退く。

 左に急旋回したアッシュの身体からそのまま振り下ろされた黒鋼は虚しく大地を打ち付けたが、アッシュは剣を軸に一歩前へステップを踏んで詰め寄った。


「おい魔導師、動けるなら今のうちに逃げろ。これ以上はお前の相手をしていられない」


 アッシュはこの間合いを狙っていた。魔導師と吸血鬼の距離はこれで一気に詰められない位には稼げた。跳躍しようとするならば、この状況ならば斬り伏せることもできる。なんにせよ、これでサシの勝負に持ち込めた。


 エステルはこれまでに経験したことがない、長時間に渡る術の行使の影響で心身ともに疲弊していた。


 どうやっても身体を動かすことが難しい。

 しかし、今、目の前の戦士は自分に逃げろと距離も稼いでくれたのだから決めなければならない。逃げるのか、それとも死ぬのかを。

 このまま此処で彼の手助けをするにせよ、あの吸血鬼の格好の餌食にしかならないだろう。であれば、このまま逃げ出してしまった方がよっぽど役に立つ。話を聞いていれば目の前の戦士は、あの英雄アッシュ・グラントだ。きっとこの窮地も難なく切り抜けるのだろう。


 だって、かの英雄は竜殺しの英雄なのだから。


 しかし、本当にそれで良いのだろうか。その考えは自身の後ろめたさを否定し、聞こえの良い正当な理由とやらにすり替えているだけではないのか。いや、アウルクスの教えには全ての命は平等に生きる権利を持つというものがある。だから私だってこのまま生きたって良い筈だ。


「戦士様……」


 エステルは疲労困憊した顔を上げて黒い戦士の背中を見つめた。


「俺は大丈夫だ、いけ」

 

 戦士の言葉は、魔導師が抱いた罪悪感や葛藤、言い訳といったものを、澱んだ空気を嵐が押し流すよう胸を突き抜けていった。嵐の後に残ったのは、心のすみで膝を抱えた生きることへの渇望や希望、喜びだった。


 そして若い魔導師は決断をする。

 そばかすだらけの童顔な顔をくしゃくしゃにしたエステルは、大粒の涙を流し俯き、そして血が滲むほどに唇を噛んだ。この決断はきっと一生の後悔を胸に刻むだろう。もう戦士の背中を見ることはしなかった。いつかまた会えるのならその時は何に変えても戦士の恩に報いよう。非力な自分の脚を見つめ、その場から駆け出した。エステルは生きることを選択したのだ。





 あらあらまあまあ——体勢を整えたアレクシスは、アッシュを見捨てて走り出した魔導師の後ろ姿を楽しそうに眺め云った。


「でも、懸命な判断ね。このままあのお嬢ちゃんがいたら、足枷にしかならないものね」

「そういうことだ。さて、これでゆっくり話ができるな吸血鬼」

「あら、そう? もう興が醒めたわ」

 アレクシスは左手に握られたエストックを構え直し右手を腰に回した。

「もう言葉も無粋でしょ? ならば後はこれで語るのみ。そうではなくて、アッシュ・グラント」

 確かにな——アッシュは剣を右肩に担ぎ腰を落とした。


 遠くで爆ぜる炎の音。凍てつく風が運んでくる生臭い血の香り。死屍累々とした坂道。遠く離れたキーンでは多くの観光客が呑めや歌えの幸せなひとときを同じ満月の下で楽しんでいる筈だ。この陰惨な光景はその影なのだろう。英雄なんてもんは損な役回りだよ、どこの世界でもな。アッシュは苦虫を潰したような顔で笑い、口の中に溜まった唾を吐き捨てた。


 それが、瞬く間の攻防の合図だった。


 最初に距離を詰めたのはアッシュだった。

 目にもとまらぬ速歩で間合いを詰めたアッシュは左腕で吸血鬼を牽制すると右肩の剣を振るう手を止め、右背面に身体を旋回させた。そして、そのまま右脚を吸血鬼の横っ腹に叩き込む。剣士のくせに! 不意をつかれる形になったアレクシスは腰に当てていた右腕で受けたが、強烈な一撃に苦悶し身体を思わず折り曲げた。


「剣士が剣だけで戦うってのはお御伽話のなかだけだ」


 アッシュは次の動きに向けて体勢を整え吐き捨てた。

 アッシュの挑発に乗らなかったアレクシスは、宙に浮かされたが身体を反転させ距離をとり、この手合いの剣士が苦手とする刺突を見舞う。しかしそれもお伽話のなかだけだったのだろう。アッシュが左腕の籠手でそれを受け流すと、吸血鬼は大きく仰け反り身体を大きく開いた。


 アッシュはこの瞬間を逃さなかった。


 一気に詰め寄りアレクシスの強調された胸の谷間——人でいえば心臓のある部位に両手剣を突き立てた。

 自身の胸に埋め込まれた両手剣の冷たさをアレクシスは感じた。痛みはまだ感じない。いや、吸血鬼である自分はそもそも痛みを感じないのかもしれない。これまで自分は万物の頂点に立つ絶対者であった。だから、自分を跪かせる者などいなかった。故に何が痛みなのかわからない。しかし今目の前の戦士は自分に剣を埋め込み、あまつさえ剣を抜き取るのに自分に脚をかけた。


 屈辱だった。屈辱が胸を焼くのがよくわかる。そして鈍い感覚が身体中を這いずり回り、両手剣が抜かれた。足蹴にされ背中を大地につけたアレクシスへアッシュは切っ先を向けた。


「さてどうする。俺はネリウスのことを訊ねたいだけだ。お前に訊ねたいことも山ほどあるが、今はいい」


 ごほ! 仰向けのままアレクシスは血を吐き、そして向けられた切っ先を右手であしらいながら立ち上がる。屈辱に顔を歪め、目を細めたアレクシスは裂けたワンピースを手で確かめると、胸に開けられた風穴を塞ぐよう右手を当てた。するとどうだろう、紫紺の靄が立ち昇りあっという間に再生してしまう。


「あら、そう。私達のことを嗅ぎ付けてやって来たわけではないのね」


「でも——

 そう云うとアクレシスは大袈裟に両腕を広げ辺りを見回した。

 ——訊ねる相手がいないわね。残念ながら」


「ああ——

 そう云うとアッシュは黒刃を担ぎなおし二歩下がり足場を確保する。

 ——喰い散らかしやがって。犬でも、もう少し上品に飯を喰うぞ」


 アッシュは吸血鬼が逆上するのを待った。


 先ほどから気にしたのは、始祖がただただ眷属を斬り伏せられるのを黙って見ていた理由だ。切り札なりなんなり、追い詰められれば繰り広げるのだろう。しかし、それがなんなのかが想像がつかない。だから、逆上し、ご丁寧に自分の手札を明かしてくれるのを誘っているのだ。こういった傲慢な輩は追い詰められる程に自分の優位を誇示するものだ。クルシャ・ブラッドムーンという始祖は国の半分を塩に変えた。こいつは、何をやらかすのか。


 

 約束の眠りを汚し、眷属の大半を駆逐し、あまつさえ自分を圧倒する人間という種族。

 自分に初まりの覚醒を与えたのも人間。どうもこの人間という種族は都合良く自分を翻弄する。これまで絶対者だとふんぞり返ってきたのは、考えたくもないが、人間に与えられた泥の王座の上だったのかも知れない。そんな風に思えたアレクシスは、沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。


「本当、無礼な男ね」

 アレクシスは左手のエストックを突き出し、アッシュの顔面に向けた。


 ——そうだ。このスカした顔の男が、そういった屈辱を自分に与えるのだ。そう思うだけで、こめかみのあたりがドクドクと脈打った。そしてそれが頂点に達した時、アレクシスは得物を身体ごと静かに素早く突き出した。ゆらりと動いたその軌跡は流れるようだった。


 <宵闇>は最初の一撃を柄頭で弾き、吸血鬼の胸ぐらを掴もうと左手を伸ばす。


 今度は身体を開いてしまうのを堪え、アッシュの左手を右の底掌で打ち払う。だが、アッシュの動きは止まらず、まるでそれを織り込み済みな体捌きで身体を低く沈めた。

 肩に担いだ黒刃の柄を両手で握ったアッシュは低い位置から左の腹を狙い斬り下ろすが、アレクシスは器用にエストックを逆手に握りなおすと真下へ突き刺し、それを受け流す。

 アッシュはそれには構わず、鋭く突き降ろされた細身の刀身を、グイッと押し込むと前にステップし吸血鬼の左側に身体を並べ、背後に回ろうとした。


 アレクシスは終始アッシュの奇抜な動きに翻弄された。

 流石に背後に回られるのを避けるため一歩前に飛び退き、足場を入れ替える形でアッシュを正面に捕らえ直した。


「動きが単調なんだよ。子供でももう少しマシな太刀筋でくるぜ」


 そう云った<宵闇>は、顎を軽くあげてみせた。

 そこからの剣戟は常軌を逸した果てぬ撃ち合いが続く。全ての軌跡が命を削るべく火花を散らし、鈍い金属音をあげる。刃が届かぬのならば身体をぶつけ隙を誘い、瞬く間の虚を掴み取ろうとする。


 永遠とそれは続いた。


 麻痺していく時間感覚のなか、切り結ぶことだけが全てとなった二人は次の一撃、またその次、更にその向こうを読み合い撃ち続ける。互いの次の手は今や予知にも似た知覚で一寸先の軌跡を目の前に描き出し、互いにその線の上を動いた。理屈はわからない。しかしそれは兎に角、瞬く間に起こる全てを予知し、まるで時間を引き伸ばしたように互いが動くのだ。

 引き延ばされた時間の中、刹那の命を得た火花は、散りゆく様子を手に取るように刻々と描き、二人の前で消えては、また生まれゆく。


 アレクシスは永遠の中、屈辱にまみれ最強であるという自尊心を蹂躙された。

 しかし、不思議と怒りや憎しみが湧き出てくることはなく、自分を圧倒する存在を前にむしろ晴れ晴れとし、まだまだ撃ち合えるのだと喜びを見出していた。そして、改めて目の前の戦士に畏敬の念を抱くと、心の声を零してしまう「なんなのあなたは——」と。



 吸血鬼がそう云うと、アッシュは「言葉は無粋なのだろ?」と黒刃を突き出し一歩前に踏み込みアレクシスの吐露を遮った。行く当てを失った言葉尻を呑み込み、アレクシスは身体を仰け反りながらも右にステップし、事も無げにそれを回避する。そして、アッシュの一撃は虚しく獲物がいない空間を突いた。その時だ。


 アッシュの左側、北の空が昼間のように明るくなると、耳をつんざく高音が鳴り響いたのだ。金属を鋭いもので引っ掻いたようなそれは、極めて不快で、じっと聴いていると吐き気を誘った。

 そして、それに合わせ遥か北方で一筋の光が、音を追いかけるように夜空を駆け登る。その一本線はなんの迷いもなく大空に届くと雲を突き抜け、まだまだその先に伸びると、一瞬ののち、尻すぼみになった高音を追いかけ、中天に溶けるように消えていった。


 アッシュの視界はそれに呼応するように——外側から黒く塗り潰された。


(最後の一体が起動しやがった)


 アッシュは二度身体を揺らすと力なく膝から崩れ落ちた。



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