宵闇の鴉と吸血鬼




 ——ガライエ砦 胸壁。


「シャルドラさん?」


 望遠鏡を落とした気難しい魔術師は胸壁から後退り何故あいつが居るのだと、ぶつぶつと独り言を口にした。シャルドラに声を掛けた男に背中からぶつかった魔術師は「ヒィ!」と声を挙げ勢いよく振り返る。


「誰だお前は!」と魔術師は甲高い声を張り上げ、トーガの内から取り出した魔法の杖を構えた。

「シャルドラさん落ち着いてください、俺です。一体どうしたと——」

 そこまで云うと、男はシャルドラの視線が明らかに自分の後ろを向いていることに気がつき言葉を止め、恐怖に塗り固められた視線を手繰り寄せた。



「あら、あなた達」


 上品に鼻にかけた声が男の視線を出迎えた。そこには燃えるような赤髪の女の姿が、忽然と、悠然と、毅然と在った。男の三歩先に居るその女は寒空の下、袖の無い黒いワンピース姿で、強調された胸は谷間を露にした。切長の双眸の瞳は髪と同じ真紅に濡れ、男を見据えている。

 

 男はこの状況であったが女の妖艶さに心を奪われた。

 なんでこんな所に——こんな上等な女がいやがるんだ。


「ダフロイトの娼館にだってこんな上玉はいないぜ」


 思わず心の声が口を突いて出てしまった男は、自分の声にハッとして我に返り、コツコツと膝まである革の長靴を踏み鳴らし歩く女から後ずさった。


「娼館だなんて失礼ね。私は歴とした淑女よ。アレクシスというの」


 男とシャルドラは二人で肩を寄せ合いながら後退りをする。どんなに魅力的で妖艶だろうが——目の前の女は人ではなく吸血鬼で、きっと今そこら中で人を追いかけ回す眷属の主人なのだ。始祖というやつだ。得体の知れない恐怖に堪らずシャルドラは尻餅を付き、男はそれに躓いてよろけてしまった。その瞬間、目をそらしてしまったのだ。自分を淑女といって憚らない怪物から。


 尻餅をついたシャルドラの顔に生暖かい何かが飛び散った。


 それは鮮血だった。男が女から目をそらした瞬間だった。アレクシスは左の手刀を軽やかに振り抜くと、男の頭が血飛沫を撒き散らしながら宙に舞ったのだ。真鍮のように青ざめた頭がシャルドラの股の間にグシャと音を立て落ちると、男の体は痙攣し前のめりに沈んだ。


 ヒィあああヒィイ——と声にならない声を挙げたシャルドラは、どす黒くなった血の海に手足を取られ逃げ出すこともままならなく、その場でジタバタとした。魔法の杖はもうどこに落としてしまったのかもわからない。


「いい声で鳴くのね、あなた」アレクシスはワンピースの裾を押さえシャルドラの前にしゃがみこみそう云った。そして人差し指でシャルドラの顎をなぞって見せる。


「あなた、お名前は?」

「シャ、シャルドラ・オウス」

「そう、いい名前ね。それじゃシャルドラ、少しお話をしましょう」

 シャルドラは黙ってそれに頷いた。

「あなた達はなんでこの砦にやってきたの? ここは<勃興戦争>のあとは放逐された筈なのだけど」


 アレクシスは人差し指でシャルドラの顎をクイっと上に軽く持ち上げた。


「ぼ……勃興戦争なんて、いつの話をしているんだ」

「あら、そう。もう昔話なのね」


 あ、ああ——シャルドラは片時もアレクシスの赤い瞳を逃さないように見つめながらそう相槌をうった。


「じゃあ質問をかえましょう。シャルドラ、あなた達はどこの誰で、何が目的で私たちの聖域を破ったの? 入口は術式で隠蔽していたし簡単に破れるものではないはずよ」

「私たちは……栄えあるリードラン解放戦線の第五師団だ」


 アレクシスはこの鼻持ちならない魔術師の口ぶりに苛立ち、思わず手の甲で魔術師の右の頬を打ち据えた。


「栄えあるかどうかなんて訊いていないわ」と怒気を露に云うと「続けなさい」と顎をあげてみせた。は、はい——魔術師は目を白黒させ言葉を続けた。


「我々の将軍ネリウスは戦死した筈でしたが、数週間前に忽然と姿を現したのです。しかし、様子がおかしく——」

 すっかりと従順な家来のようなシャルドラはそこで咳き込み、す、すみませんとアレクシスの顔色を伺った。アレクシスはクスクスと小さく笑うと、いい子ねと恐怖ですっかり青ざめた魔術師の顔に近づけ「続けて」と耳元で囁いてみせた。


 は、はい——シャルドラは深呼吸をして話を続けた。

 

「ネリウス将軍は戻って来たかと思うと全師団を集めろと云ったのです」

「それで?」

「しかし私たち第五師団の師団長は将軍の様子のおかしさに——」

「どうおかしかったの?」

「はい、元来私たちアークレイリ人は赤い瞳の者が数多くいるのですが、それでもあんなにドス黒い赤の瞳は見たことがなかったのです。獣のような瞳が赤黒く——」

「ネリウスがそうだったの?」

「はい、将軍もほんらい赤瞳で鮮やかな赤色でした。しかし戻ってきた将軍は違いました。おかしかったのはそれだけでなく、我々の師団長がとにかく将軍を軍議にかけようと云いました」

「続けて」目を白黒させるシャルドラは懸命に話をまとめようと頭を回転させたが、所々で頭の中が真っ白になり言葉を詰まらせる。だからアレクシスは、魔術師の喉元を爪で突き覚醒をさせ話すよう促すのだ。


「はい、そして全師団が集められたその時でした。ネリウス将軍が豹変し——」

「狼にでもなった?」何かを察したのか、アレクシスは目を大きく見開き濡れた瞳でシャルドラに詰め寄った。

「え?」その言葉に続く「どうしてそれを?」という疑問をシャルドラは呑み込んだ。アレクシスが被せるように言葉を続けたからだ。

「その狼はあなた達を喰らったのよね?」

「はい——」


 目の前の吸血鬼は吸血鬼である以前に、その惨劇を起こしたものと同様の存在なのかも知れない。シャルドラはそう思うと身体に悪寒が走り顎を震わせた。


 それで、あなた達は命からがらこの砦に逃げてきたってことね? アレクシスは息を荒くしながら魔術師にそう訊ねると顎を舐め回していた人差し指をツツツと胸の辺りまで降ろした。静かに魔術師はかぶりを縦に振った。


「それじゃあ、隠蔽の術式を破ったのは偶然?」

 顎を震わせたシャルドラは大きく声を震わせ、半ば引き付けを起こしたようになりながら「そうです」と答えた。

「砦そのものを隠蔽しようと術式をはったのですが、打ち消されてしまうので、原因を探して——」

 入口の鍵を破ったのね——アレクシスは更に指を降ろしていき魔術師の下腹部の辺りまで持っていくとそう云った。

「よく理解できたわ。ありがとうシャルドラ。あなたは優秀な魔術師ね。でもね、やっぱりそんなくだらない事でこの聖域を汚したのは不味かったわ」

 でもまあ——アレクシスは再び魔術師に顔を寄せて甘い声をあげた。

「思った以上のお話が聞けてよかったわ。十分な成果よ。だから——苦しまないよう、殺してあげるわ」と、下腹部に突き立てられた人差し指をアレクシスは素早く振り抜いた。

 振り抜かれた人差し指の軌跡はこの従順な魔術師の身体を綺麗に切り分けた。輪切りになった魔術師は最後にはゴボゴボと自らの血に溺れ絶命した。

 アレクシスはシャルドラの白髪むんずと掴み、中庭へ上半身を放り込んだ。すると中庭からは悲鳴があがり「シャルドラ様がやられた!」と方々から声が上がったのだった。



 これで兵士たちは完全に心を折られた。

 他の人間のことはもう考えられない。

 この吸血鬼どもがダフロイトに流れ込もうと、そんなことはどうでも良い。だから兎に角、あの桃源郷へ逃げ込もう。生き残りの敗残兵は脱兎の如く逃げ出し、追われることも厭わず一路ダフロイトへ必死に駆けたのだった。狂宴は最後の刻を迎えようとしていた。

 アレクシスは胸壁に立ち、両手を耳に当て目を閉じ、混沌を聞き、感じ、恍惚とした。眷属達が血を啜るたび、身体を突き抜ける快感が走るのだ。それは底知れぬ麻薬で、脳を震わせた。頭の中で肥大する快楽はアレクシスの胸の奥を心地よく撫であげ、身体を疼かせ、そして感覚を研ぎ澄ませる。


 どこまでもどこまでも視界が遠くを映し出し広げていく。

 飛翔する鳥の視界のように。


 アレクシスは、どこまでも暗く黒い一人の男を見つけた。

 男は黒い刃の幅広の剣を片手で振り彼女の眷属を斬り伏せていく。

 その度に胸の奥が疼き、得も言われぬ快感が身体を突き抜けていく。

 嗚呼、なんとしてもあの男を手に入れたい。

 アレクシスはそう思い、そして胸壁からひらりと飛び降り男を迎えることにした。









 ——ガライエ砦前。


 地獄絵図というのはきっとこのことを言うのだろう。


 喰いちぎった腕を口に咥え次の獲物を探す人外。

 身包み剥がされた魔術師の首筋に群がる吸血鬼。

 それを犯す人外。最後の抵抗を試みる解放戦線の小隊は駆け寄ってきた吸血鬼の群れにあっけなく呑まれた。


 今や砦は炎に包まれ、月夜を赤く染め上げている。

 繰り広げられる殺戮の光景、阿鼻叫喚の地獄絵図。両手剣を肩に担ぎ構えたアッシュの周囲にはそういうものが広がった。吸血鬼の始祖アレクシスは、露わにした肌を桃色に紅潮させゆっくりと何かを噛み締めるようアッシュと対峙した。握られたエストックの切っ先は下に向けられていたが、隙はない。濡れた瞳でアッシュを捉え、瞳孔は蛇のように縦に細められた。そして、喉元から胸、腹から下腹部まで右手をゆっくり沿わせ、嗚呼と声を漏らしたのだ。


「——それで、偶然ここに居合わせたのかしら、アッシュ・グラント」


 恍惚として見下すよう視線を向けるアレクシスは息を荒くしながら云った。


「そうだな、こんなクソな光景に出くわす予定はなかったが——

 アッシュはアレクシスの真正面からゆっくりと左にずれ云った。

 ——それに、吸血鬼と出くわす予定もなかったな」


 真正面への突進で距離を詰められる可能性を潰そうとするアッシュの動きにアレクシスは「あら」と小さく漏らしながら微笑んだ。そして、アレクシスも同じく左に動きながら間合いを取り直す。


「奇遇ね。私もあなたのような粗野な男に出会う予定はなかったわ。でも、出会ってしまったのだから仕方ないわね」

「そうか」


 アッシュは短く応え左腕を胸の前に突き出し掌を軽く握った。

 相手の剣撃をいなし隙を生み出し一撃必殺を叩き込む。そのため黒鋼の籠手は鱗を重ね合わせたように造られ、受けた力を外に逃す仕組みとなっている。その籠手がアーティファクトであるかは不明だがこれで竜の爪さえも受け流すのだそうだ。


 気が付けば、どうやら周囲の狂宴は粗方終わったようだった。

 轟々と音を立てる炎は相変わらずアレクシスの髪を揺らした。

 炎がうねる音。

 遠くで薪が爆ぜる音。

 気取った吸血鬼の笑い声、人外共の唸り。

 そんな狂宴の残響だけが辺りを満たしていた。


 ジリっ! アッシュは、足をにじる音をたて右足を後ろに動かした。

 身体を右に捻り遠心力で振り抜くためだ。

 有象無象を一度に斬り伏せるには、これが一番手っ取り早い。

 その時だ——アッシュの右足を弱々しく掴む者がいた。





 豊穣幻装の中には、周囲に潜む悪意を浮き彫りにし察知する術がある。アッシュは吸血鬼どもと斬り結ぶ間も<言の音>を紡ぎ続けその効果を維持していたのだが、アレクシスと対峙した際、それを止めていた。だから、アッシュの右足を掴んだ者に気がつけなかったのか? 周囲にある悪意は全て把握をしたはずだった。長年戦場ではそうしてきていたのだからぬかるはずも無い。


 ではなぜか。


 そう、そもそもその者は悪意を持っていなかった。

 この狂宴の生き残り——生存者だった。





 エステルは解放戦線の同志ではなく、ダフロイトのアウルクス神派の魔導師だった。

 だった。というのは、現在彼女は教会所蔵の御神体である魔導書グリモワールを外部に持ち出した嫌疑をかけられ教会を追われた身なのだ。

 司祭長から身体を求められ、それを拒否したことによる報復が、その謂れのない嫌疑だった。エステルは教会を出奔し、ひとまずこの打ち捨てられた砦に身を隠した。明日の朝には自由の街、吟遊詩人達の故郷、世界の中心、様々な呼ばれ方をした交易都市セントバに向かおうと心に決めていたのだ。そこで身の潔白を立証するために。しかし、どこからともなくやってきた解放戦線が砦に雪崩こみ籠城の様相を顕にした。エステルはこれに驚き、闇夜に紛れて逃げ出すつもりだったが、狂宴に巻き込まれてしまった。

 しかし幸か不幸かエステルは捕食されず、アッシュが切り伏せた吸血鬼の下敷きになると岩へ頭を殴打し気を失ったのだ。





「た……助けてください、戦士様。ご慈悲を」


 エステルは必死だった。

 目の前にそびえる戦士を見上げ懇願する。

 この戦士からは魔導の気配を感じる。

 ただそれだけで、エステルはこの戦士を信用した。

 いやそうせざるを得なかったのだ。


 見る目を疑うこの陰惨な光景のなか、真っ当な命は自分とこの戦士だけ、あとは全てが魑魅魍魎。人間だけが真っ当な命だというのも随分と傲慢な考えではあると思ったが、今この状況でアウルクスの教えを唱和し全ての命の尊さを説く気には毛頭なれない。自分と目の前の黒の戦士は真っ当で、それ以外は違う。そもそも恐怖に駆られそんな思考も覚束ない。だから、エステルはアッシュの右足を弱々しく掴み、もう一度「助けてください」と願った。





 チッ! アッシュは脚元を一瞥し右足の感触が人のものであることを確かめると思わず舌打ちをした。そして素早くアレクシスに視線を戻す。あの、ふざけた調子の吸血鬼は一切の隙を見せることはない。だからきっと今アッシュが抱えてしまった弱点を見逃すことは無いはずなのだ。あの女吸血鬼は狡猾にそれを活用するだろう。


 そうで無かったとしても、どうする?

 この無様に寝転がる魔導師を見捨てるのか?

 助けてやる義理はない。

 あの女が吸血鬼の始祖であるのならば、神代の獣、雪原の王ヴァノックと同じだ。命乞いをする女を庇って闘えるような相手ではない。そうだ、そこまでして助けてやる義理はないのだ。

 

 そして——アッシュは意を決した。





 自分を一瞥した戦士の舌打ちに、エステルはこれで最後だと諦めた。


 華奢な身体に、そばかすだらけの童顔な顔、今ではくしゃくしゃの赤髪——もし自分が女神アウルクスのような容姿端麗、魅力的な魔導師であったのならば結果は違っていたのか。自分の身体を求めたあの色欲司祭は小児性愛者であったともっぱらの噂だった。だからきっと自分の身体を求めたのだ。もし目の前の戦士がそんな変わった性癖でもなければ——もう、そんなことはどうでもよかった。

 恐怖と混乱の最中、エステルは動転し正常な思考が不可能であった。

 その思考は情緒的に強く色付けされた表象に傾倒し更に混乱した。

 そして、エステルはゆっくりと目を閉じ最後の刻を待った。





「おい魔導師」

 腕を乱暴に掴まれ引っ張られるのをエステルは感じた。引っ張り上げたのは黒の戦士だった。エステルは仰天し思わず、うわずった声で「はい!」と応えた。


「いいか、一度しか云わないからよく聞け」

 周囲を取り囲む吸血鬼達が騒めき始めたのを他所にエステルはもう一度「はい!」と応え、はだけた白い絹のローブに黒い革の防寒コートを整え、地面に転がった木製の杖を手に取った。


「状況はわかっているな? 祭りじゃないぞ」

「はい、わかっています!」


 アッシュは魔導師の首元へ目をやり魔導を生業にしている者ならば必ず首にする印を確かめた。大地から雄々しく生え立つ大木、世界を包み込む枝葉、それらを象徴した銀細工が随分とくたびれた革の紐を通され、それは魔導師の首からかけられた。その印は、遥か昔、大飢饉に見舞われたリードランを巡り大地と人々を癒したとされる大魔導師アウルクスのものだ。

 口伝された彼女の<言の音>は豊穣幻装として三大幻装魔導の一端を担い、その言葉が記された魔導書——グリモワールを御神体とした一派はアウルクス神派として人々を癒す魔導を継承した。


「俺が吸血鬼をひきつける。お前は死ぬ気でアウルクスに祈れ」


 え? 祈れって——エステルは黒い戦士の背中に回りながら云った。

「それはどういう意味ですか?」


「そのまんまの意味だ。いいか、あいつらは既に死んでいる。あの赤い奴の負の魔力だけで動いている。だからお前の正の魔力、普段は傷を塞いだりしているだろ? あれで打ち消すんだ。気休めだが、あいつらの動きは緩慢になる」


 わ、わかりました——エステルはコートの懐をさぐり、ガラスの小瓶を取り出した。仄かに緑色に輝く液体が入ったそれの蓋を外すと、人差し指を液体に軽く浸し、そしてそのまま黒い戦士の背中——外套に何やら不可解な文字を書き殴った。


「あなたを中心に周囲へ祈りを届けます。が、<言の音>が届くまで——」

 時間を稼げばいいんだな——アッシュは魔導師の言葉を遮った。

 魔導師はそれに小さく、はいと答えかぶりを縦に小さく振った。




 アレクシスは濡れた瞳で相変わらず、アッシュを見つめた。

 自分に敬意を払わないこの不届き者は、自分を前にしても尚、落ち着きを払い、あまつさえ同胞に手を差し伸べている。どう見てもその同胞は貧弱で吹けば消えてしまいそうな命であるのに、それを救いあげようとしているのだ。

 随分と舐められたものね。アレクシスは、そう思った。先ほどから魅惑の術をアッシュに送り続けているが、それに屈する様子もないし、さして抵抗をしている感じもない。その全ての余裕がアレクシスは許せなかった。だから、自分が激昂してしまってはみっともない。自尊心を傷つけてしまう。自分をこの世に産み落とした少女との約束もあるが、しかし、今はこの男をどう屈服させようか、そればかりを考えた。


「もう良いかしら?」


 手にしたエストックをアッシュに再び向けた。もうこの男に策を弄する必要はない。だから濡れて妖艶な輝きを放っていた瞳は、今ではすっかり渇き鋭くなり瞳孔がいっそう蛇目のように縦に絞られた。


「なんだ、お前随分と優しいんだな。待っていてくれたのか」


 アッシュは魔導師を背にし更に左へ動く。

 魔導師は何やらブツブツと口にしながら、それに続いた。


「そうね、あなたのような無礼者は最高の状態でなぶってあげたいのよ」


 そりゃどうも——そう云うと背中越しに魔導師が再び触れた感触を感じた。きっと準備完了の合図だ。左に動くのを止め、つま先をアレクシスに向け、そして腰を落とした。

 やってくれ——アッシュは魔導師に声を掛けると身体を左に力強く捻り、そのまま両手剣を振り抜き、右手にステップを踏む。魔導師は黙って頷くと手にした杖で地面を小突いた。すると、緑に強く輝く一陣の風が巻き起こりアッシュを中心に辺りへ広がった。

 

 吸血鬼達はそれを合図に一斉と動き出すが、風に巻き込まれると見事に膝から崩れ落ちる。アッシュはそれを見逃さず一寸違わず吸血鬼の首を斬り落として回った。

 かたや魔導師は懸命にアッシュの剣戟に巻き込まれないよう、彼の背後を護った。

 飛びかかってくる人外を杖で叩き落とし遠ざける。メルクルス神派であれば僧兵としての訓練も施されるから、こういった戦闘が得意なのだが、エステルはあくまでも医療を司るアウルクス神派。馴れない戦闘行為の中でできるのは、これが精一杯だった。


 それでも救われた命。

 目の前で黒鋼を振るう戦士——もっとも自分のためでは無いのは百も承知だが、少しでも彼の役に立とうと必死になった。


 眷属が斬り伏せられていく光景を恍惚とした表情で眺める始祖に違和感を感じる。アッシュはそれを気にしながらも次々と眷属を斬り伏せ、切っ先が描く軌跡は数多あまたの赤い筋を描き続けた。

 その光景は——魔導師は思った。不謹慎だが見惚れるほど美しく、胸のすく思いだと。

 相手の剣を籠手で叩き落とし、相手のみぞおちを蹴り上げ、浮かせるとそのまま首を斬り落とす。首を無くした体躯は地面に叩きつけられ血飛沫をあげた。そして、身体を旋回させるなか的確に次の相手の隙を斬り抜け移動をする。全ての動作は相手の動きを予測しているかのように的確で無駄がなかった。決して地から足を離すことはなく常に全身で力を制御する。


 跳ね上がる有象無象の頭に胴体と腕。

 両脚を斬り落とされ崩れていく魑魅魍魎。

 魔導師は目の前で繰り広げられる剣戟に心を奪われそうになりながら、頭を振るい自分ができることを成そうと必死になった。





 私達は百はいただろうか。


 命の灯火に群がる羽虫は突如に吹き荒れた緑と黒の風に巻き込まれ、その全てが地に這いつくばった。あまりにもその灯火は自分達にとって明るすぎたのだろう。誘われるがままに近寄った途端、羽を焼かれ堕とされた。


 ブロンドの華奢な女吸血鬼は主人に付き従う侍女の一人だった。

 先ほど主人は首筋に牙を立て快楽を与えてくれた。

 彼女は胴を斬り飛ばされ、最後に主人の姿を眺めながらそんなことを思った。


 嗚呼、アレクシス様。

 あなたに頂いた白のドレスを汚してしまいました。申し訳ございません。

 嗚呼、兄さん——最後にひと目会いたかった。

 でも——そんな訳にはゆきませんね。


 ごめんなさい。


 侍女はそのまま静かに目を閉じた。



 

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