蛍雪
俺が好きなチョコレート菓子のパッケージにはいつも「準チョコレート」と書いてある。本物じゃないってことだろうか。でも「高ポリフェノール」とか、純カカオとか書いてあるチョコレートは高いだけで全く美味しくなくて、結局いつも安っぽい、カリカリした食感のチョコレートを齧っている。
コンビニを出ると思ったよりも風が冷たくて、思わず背が丸くなった。ただでさえ低い背がもっと低く見えるのが嫌だったが、別に張る虚勢もない。肩肘はっていきたいと思うようなことなんてそもそもないのだから。
何度も頭を過ぎるのは、今日返ってきた模試の結果だった。今度こそは判定をあげられると思っていたけど、現実は全然甘くなかったというか、努力した割には全くその成果が出ていなかった。高望みをしているわけではない。実際に進学するならばそれしかないと言ったほうが正しい。それか、大学を諦めるかだ。
以前ちょっとだけ体験に行った予備校のチューターだかメンターだかが言っていたが、今のこの世の中でも大学に進学するのは高校3年生全体の半数程度なのだという。中には浪人した人もいるだろうし、専門学校や海外に進学した人はどう数えているのか知らないから話半分くらいに聞いていたけど、要は大学に行くのは贅沢なことであるらしい。誰も高校に進むことを贅沢だとは言わないけど、大学に進むことはなんとなくそう捉えられている。俺たちがどう思うかではなく、俺たちをみる大人がそういう風に見ている。
母にこの結果を伝えると、きっと母は言いたいことを飲み込んで、そう、と平静を装うだろうと思った。そもそも、母にこの結果を伝えるかどうかは大変悩ましいところだ。伝える義務はない。というか母も困るだろう。もっと勉強しろと子どもの時みたいに叱ったほうがいいのか、大人になりつつある息子を叱っても良いものかという迷いみたいなものが伝わって、結果として何も言わずに「明日も早いから」と寝てしまう気がした。俺は毎日大人になっていて、ということは自然と母の心情に寄り添えてしまうことが多くなっていて、親の気持ちなんてわかっても仕方ないのに、似すぎている俺と母の心理はいらないくらい正確にシンクロしてる。母が何を言おうとしているか、何が気に入らないか。母以外の人間がいない家で、それはあまりに簡単な読解問題だった。母は俺が金を食うのを明らかに嫌がっていたし、俺が進路の話をすると露骨に顔を曇らせた。
国公立でなくても母は応援してくれるだろうか。死ぬほど色んなところで集めてきた学校の資料とか、進路指導の教師が焼いたお節介とかで、どうやら俺の家庭環境だと学費免除とか奨学金とかの対象になることはわかった。でも公助はあくまで公助でしかないので、私立大学の馬鹿みたいな学費を考えると全然十分じゃないし、その不十分さを母がどう捉えるか考えると気が重い。母は俺に文句らしい文句など言ったことがないけど、言われたほうが被害者ぶれるのに、それすら許してくれない残酷さがあった。
俺はまっすぐ家に帰り、勉強机を兼ねるリビングの卓上に模試の帳票を広げ、もう一度細部まで細かく数字を睨んだ。定員120名の学部に順位が128位。上の全員が通れば弾き出される程度の成績で、何を強いることができるだろうか。
いろんなものを諦めて生きてきた。高価なゲーム、アイドルのCD、日本代表のジャージ、やさしい父親。アイコン状に並ぶそれらの隣に学歴が食い込み、帳票の判定がデカデカと浮かんでいる。大学は保険で、投資で、将来のための希望を積む行為だと、教師たちはみんなそう言う。俺だってそう思っている。でも保険の掛け方が分からなくて、ついでに言うと一人で保険をかけることができない。親の同意も保護者の承認も、教師たちは肩代わりしてくれない。ずっと何かを諦めたような母に、さらに何かを諦めろとも言えない。
食べかけのお菓子をまた口に入れる。甘ったるいが馴染んだ味わいにいくら寄り添われても、俺の救いにはなってくれなかった。鄙びた匂いのするリビングで帳票に突っ伏して頭を振る。ぐしゃぐしゃになった紙の上で、何度見ても変わらないD判定と目があったような気がした。
***
3回目のデートで結婚を切り出されたのは、お互いに再婚であるということ以上に、利害関係の一致がここを逃してはならない、と思ったからだろう。控えめな花束をレストランの席で差し出されて、私は頷かざるを得なかった。何もいやではなかったから、こんなところまでついてきている。普段食べているものよりははるかに美味しいけど、さして印象に残らないフレンチを食べながら、なんとなく私は運がいいのかもしれないと思った。
好きだと胸を張れるような恋ではないけれど、今後を一人で生きることを思えば再婚だって悪くはない。そういう妙な熱の低さがお互いに相通じたからプロポーズを受け入れた。私たちは打算的であるという一面においてのみ非常によく似ていた。そしてひとしきり感情面でのやりとりをした後、息子のことを話題にあげた。
「何か話したことは?」
「全くない。だって3回目だよ」
「それもそうか」
「物分かりの良い子だから厄介なことにはならないと思うけど」
彼は心配そうに頭をふった。結婚歴はあるけど、子どもを持ったことはない中年男性は、突然高校2年生の息子ができることを端的に不安がっていた。私は全く心配をしていなかったけど、それは息子を信頼しているからというより、息子が私のそうしたプライベートな出来事に対して何らかの関心を示すようなことなどないと断言できたからであり、この感覚を言語化するのは非常に難しかった。彼の手を握って大丈夫、と言ったのは、花束に見合うだけのパフォーマンス的な愛を示したかったからかもしれない。若い時にはできなかったこうした甘えを、歳をとると人間は意外に実践できるようになるものだ。
「男の子でしょ。嫌われたら嫌だな」
「うまく言えないけど、そういうことはないと思う」
「穏やかな子なの?」
「親子だからそういうことはわかるよ」
微妙に答えになっていないことを彼は咎めなかった。面倒だと思ったのだろう。この恋が燃えるような愛情ではなく、将来への宣誓めいた利害関係に基づくことはわかっていたから、私も改めて言葉を重ねることがなかった。面倒くさがりなところもよく似ている。似ている人間は恋をしやすい。
「受験生だっけ?」
「そう言ってる。でも、大学に行けるかどうか」
「勉強が苦手なのか」
「というか、得意ではないけど頑張らないといけないと思っている感じ。したいことも特にないし」
「ないでしょう、そりゃ。高校生の時にしたいことなんて全然なかったよ、ぼうっと大学に行っただけ」
「お金もあるし……」
「それは僕に頼って欲しいよ。大学くらいいくらでもやれる」
人の話ならば普通に受け流せるのに、我が子のこととなると、したいこともないのに勉強したいなんて馬鹿げている、と思ってしまう。何かしたいと、こうありたいと言ってくれたらいくらでも応援できるのに、応援したくなるひとことを我が子は私に決してくれることがない。したいことが何も語られないまま、できた、こうなった、ここの学費はこれだけ安いと事実ばかりを報告してくる。無意味だと私は腹を立てて、怒号の代わりにため息をつく。息子は何かを勘違いしてそれ以上何も言わなくなる。つい昨日もあったやりとりだ。私がもう少し、子どもに対して支配的な母親であれば、やりたいことを見つけろ、先の希望を話せと詰め寄っただろうが、何か言い返されると止まらなくなりそうで深掘りができない。彼氏には悪いが、私にだって子どもを大学にやれるだけの蓄えはあるのだ。大学などよりずっと、小学生の時のサッカーの送り迎えや、スパイクや、練習の手伝いの当番の方が迷惑で腹立たしかった。
「あなた話してみてよ。年上の男の人になら何か話すかも」
「ええ。年上の男にこそ絶対喋らないんじゃないの」
「父親は特別だと思う。ずっと父親の欲しい子だったし」
「プレッシャーだな」
どこか楽しそうに彼が伸びをする。人生なんて、順風満帆なんて、誰が決めるというのか。どの時点の自分を切り取って良い人生だったというのだろう。意識が混濁したまま死んでしまった人間は不幸だったと言われるのだろうか。私には分からない。息子の心の内すらわからない母親が、何を知った気になって他人とコミュニケーションを持てるというのだろう。それは殆どコミュニケーションなどではない。本来なら向かない作業を、私以外の誰もが担当者になれなかったから、形式的に気を使っただけにすぎないのだ。
「母親のあなたもいい母親なんだろうね」
これから婚姻届を提出する人に、まだ正直に「母親を辞めたい」とは言えなかった。一刻も早く向いてない母親業を辞めたいと、一上がりたいと、そう心の内で呟きながらとんでもない、と肩を竦めて見せた。謙遜ではなく本心から言った言葉を額面通り受け取り、彼氏は私の謙虚さを褒めるように微笑んだ。
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