冀求




 神様、どうかそれだけは奪わないでください、と冀ったそれが、唯一未だ手元に返ってこない。

 まるきり世界が変わってしまったような気がする。気をつけていたはずなのに、思い当たる現場など電車かバスかというところだ。三日三晩高熱を出して、下がった頃には味覚が死んでいた。食は私の唯一の娯楽だった。欲求という欲求のすべてを食欲に振り切って生きていたようなものなのに、あまり量を食べられない人間であるがゆえに「すこし」の絶品を堪能して生きてきたのに、この仕打ちはないだろうとなにか人の上位存在を恨まざるを得ない。

 体調が戻って初めて食べたハンバーグは、もきゅもきゅと弾力がありながら頼りなく崩れる、まるで劣化したゴム毬だった。わずかに獣臭くて、こんなにまずかったっけ、と思った。私の料理が下手になったのではない。鼻が使い物にならないのである。


 死んだ方がましだろうか。思い詰めながら天井を眺め、換気扇の轟音に機嫌を損ねた。肉の脂を悪臭だと感じ取りもしない私の役立たずな鼻、顔の真ん中にありながらなんと不甲斐ない。喉も舌も何の障りもないのに、鼻の内側にだけなにか透明なフィルムでも施されたように違和感が拭えない。生きていたって仕方がない、こんな体たらくで。すべてに投げやりになって口を開けて、口の周りの牛脂を舐めとる。不快な質感だけがぬるく舌の上で溶ける。悲しかった。命を拾ったとか、重篤化しなかったとか、大事に至らなかったとか良い言い方はいくらでもできるのに、鼻が使い物にならないだけであっさり死を考え始める己の短絡にわたしは呆れた。呆れながら無理もない、と思った。人は好きなものを手放しただけであっさりと死を願える生き物なのだ。幸福が二度と手に入らないと知ったとき、一切の生に執着がなくなる。こんな心境を理解できるのはまったく健全とは言えない。だからって、よりによって、私からそれだけは奪わなくたっていいだろう、と何かに対しての怒りが込み上げる。血も涙もない。馬鹿馬鹿しい。虚無というほかない悲しみに覆われて、私は天井を見上げる己の双眸を掌で覆った。真っ暗に向かって、くそ、と大きな声が出た。大きすぎて裏返った声に自分でびっくりして、それから叫ぶように泣いた。


 ひとしきり泣いたあと、鼻詰まりをティッシュで拭って、マスクを新しく下ろした。泣いても笑っても私の鼻は何も感じ取らない。唾液を飲み込むと喉の奥が痛かった。おいしい、がわからなくてもいたい、はわかる。いたい、は生命の危機だから。ならおいしい、も残してほしい。おいしい、があれば命なんていらないのに。矛盾した思いを引きずって私はキッチンに蹲る。跳ねた油がマットに染みを作っていた。なさけない。

「美味しいものが食べたい」

 LINE通話に応じた恋人にしゃくりあげながら伝える。仕事がひと段落していたらしい恋人は困惑しながら隣の部屋のドアを開けた。泣いている私に狼狽した恋人は、ハグならできると言わんばかりにマスクをしたまま私を抱きしめる。隔離期間はとっくに明けているのに、鼻が利かないうちは何があるかわからないからと家庭内別居を強いていた相手は、私の涙を拭ってそのまま私をあやした。

「まだ残ってる? 食べていい?」

「だめ」

「なんで」

「隔離してんのに食べたら意味ないよ」

「これもう濃厚接触だからね」

 恋人は脅しのつもりで不織布マスクを外そうとする。だが暴れる私に観念して、マスクはそのまま、もう一度強く抱きしめてきた。保健所の人に申し訳ない。無為な真似をして、公衆衛生を蔑ろにして。

 恋人は絶対おいしい、と私の背中を撫でながら言った。おいしいは、残してほしかった。性欲のない私たちの、私たちだけの愛してるを、もっと愛してを、もっとほしいを残してほしかった。いつか戻ってくるのかな。誰も何も教えてくれない。戻ってきてほしい。そう思いながら、恋人の背中を同じ数だけ撫でた。おまじないのように、何度も何度も、そうして祈った。

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