短編集

juno/ミノイ ユノ

箱庭





 100人と寝るより好きな人とたくさんする方がいいって、子どもの頃に読んだ作家が書いていた。もちろんひとりとすら「したこと」がなかった当時の僕は、そんなものなのか、と思いながら、もしそれを「選ばなければならない」ならどうしたものか、とくだらないことを考えた。

 ちょうどそのエッセイを読んだとき、告白を断ったばかりだった。クラスの女の子は残酷にも、男の子を足が速いとか、頭がいいとか、見た目が格好いいとかで序列づけて、そのお眼鏡に適った僕は話したこともない女子によく放課後に呼び出されていた。遊びたい気持ちを堪えて友達の誘いを断り、ごめん、と何も悪くないのに謝って、泣かせたことにさらにまたごめんと言う。僕はひどく傷ついていたし、怒っていた。その不機嫌は目の前の相手にすら向かっていなかったし、その程度の関心すらなかったのだが、そうして自分の心に素直に振る舞うたびにひとつ、ひとつと人間が嫌いになるような気がした。ひとりになった校舎裏の夕焼けの、いやにひんやりした空気。日が傾いて湿り気を帯びた足元の砂。僕は好きな人なんて一生できないと思った。一生誰も好きになんてならなくていいし、好きに傷つかなくてもいいと。


 そういう経験のせいで、人から寄せられる好意が今でも苦手だ。間違いなく向かない仕事を選びながら、誰かに好きだと言われるたびに反感が募っていく。仕事だから割り切るのは簡単で、人前に出るときに嫌だと言ったことはない。ありがとう、と感謝を述べることもできる。感謝は述べられるのだ。だって、その感情を抱いてくれることは、好意を持ってくれることはありがたいことなのだ。僕が嬉しくないことと、感謝すべきことは分けて考えればいい。そうやって思うことが僕なりの「割り切り」だった。


 好きだとは言わなかった。僕も彼女も。

 ただ、隣に座って同じものを見ただけだった。面識があったというわけではないが、名前は知っていた。巨大な温室の中央には象徴的な高い杉の木があって、クリスマスとハロウィンの狭間の時期に何を飾られるでも無く地味に放って置かれて、僕はただそこにあるのを見ていた。3分ほどそうしてお互いに何もせず座っているのに痺れを切らし、話しかけようとして声が被った。僕は木を見ていたと素直に打ち明け、彼女は恥ずかしそうに同じ、と言った。完全にオフになる時間がないとダメになりますよね。明らかに同意を求められていて、それ以上に言葉はいらなかった。それ以上の自己紹介はお互いにいらなかったのだ。

 素敵な人だった。曇り空の温室を後にして、間断なく降り始めた雨から逃げるように手をとって、近くにあった彼女の自宅に上がった。僕は冷静にこの後起こることを想起し、関係各所にどう伝えようかというところまで考えを巡らせて、たっぷりと時間をかけて彼女の手を握った。ただ手を握り、指を絡め、相手が同じことをしてくるのを待つ。いつの間にか騙せないほど強くなった雨脚は、遮光カーテンの向こうの窓に叩きつけるように降ってくる。暗がりのせいで今が昼か、もう夜なのかすらわからない。きっとそのうち彼女の造形すらぼやけてくる。もっと近くに寄って視認して、造形を辿って確かめなければ消えてしまいそうなくらい実態が怪しいのに、全てを知ってしまうのが怖かった。僕の怖がりを見抜くように、彼女は僕の手を離さなかった。

「大丈夫」

 何が、とか、何を、とか、無粋なことはいくらでも聞けただろう。ただ沈黙と水滴のけたたましい音に、僕はまるっきり言葉を奪われてしまった。まるで人形のように何もできなかったし、彼女も何もしようとしなかった。これは一体何なんだろう。どうして僕は、初めてその存在を認識した人と、これほど近くで呼吸すら戸惑っているのだろう。

「同じだから」

「同じ?」

「うん」

 彼女の声が震えている。手のひらのふくらみの部分を撫でると、くう、と喉の奥で鳴るような声がした。同じだったら、本当に同じなら、伝わるだろうか。僕が言葉の全てをかなぐり捨てて今、指先に全ての神経を集中させていることも。湿って冷えた空気に肌が痛くなるくらい、ピリピリしてざわざわして、喉が乾いて、どこかおかしくなっていることも。

「こういうの、初めて」

「そうなんだ」

「初めてだと思う」

「あたり」

「やっぱり」

「どうしてわかったの?」

「同じ景色を見てたから」

「何それ」

「怖いよね。私はずっと怖かった」

「うん」

 主語も目的語もない。きっと意図するところの違う言葉が僕と彼女の間で行き交って、誰も答え合わせをしないまま僕らの中で妥結点に滑り落ちていく。悪くないコミュニケーションだと思った。僕は少しだけ強く彼女の手を握り返して、いいね、と低く呟いた。芝居じみていて気取った声だった。彼女は少しだけ笑い声をあげて、私もいいと思う、と囁くように言った。雨音にかき消されそうな声量で、確かにそう言ったのだ。


 好きだとは言わなかった。始まりから終わりまでずっと。

 とはいえまるきりこういうことをすると思わなかったから、終わりは何をもって終わりと言えるのかわからなかった。ただ遮光カーテンの向こうが静かになって、秋の虫のような澄んだ何かの音が聞こえ始めて、時間の経過を感じ取ってどちらからともなく離れただけだ。

 僕はひどく疲弊していた。それは彼女も同じだった。僕らの間にあったことは間違いなく醜聞の類ではあるだろうが、言語化しろと言われると難しいものだった。それはもう、彼女の部屋に上がった時点から始まっている醜聞である。たとえ僕らが熱心にテレビゲームをしていても醜聞は醜聞だ。本質はどうでもいい。どう言葉を尽くしても本質には立ち会えないだろう。当事者である僕ら自身がどう言葉を尽くしてもそれを言語化することができない。

「2度目はある?」

「あってもいい」

「じゃあ、あるでしょ」

「思った」

「大丈夫なの? 仕事とか」

 彼女は返事の代わりにリモコンで電気をつけた。LEDの照明の下で見る彼女は記憶の中の彼女より随分と濡れて瑞々しくて、とんでもなく綺麗な人だと思った。それは当たり前と言えば当たり前なのに、実に美化された思い出のように思えて僕自身に少し失望した。こういう経験は仕事を始めてから全くなかった。何だったら、子どもの頃から数えたってなかった。

「一緒に怒られてくれる?」

「仕方ないね」

「そう言うと思った」

「なんでわかるの?」

「私も同じ気持ち」

 もう一度、明るいベッドの上で彼女の手を握る。他にも触れられる箇所は無数にあるのに、どうしてかその手を握ることに堪らない幸福を覚えた。選ばなければいけないとしたら、そんなの決まってる。人は選ぶか選ばないかではなく、選んでしまった後で答え合わせをして初めて気がつく生き物なのだ。

 最後まで好きだとは言わなかった。ただ、もう離れられなくなってから、その気持ちが好きそのものだと学ぶようにできているのだと思った。

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