第2話 コーヒー

木製の、底が少しすり切れた扉を開ける。

玄関を抜けると暖炉のある部屋に通される。何処のだれかわからない胸像がこちらを見つめている。部屋の左右を埋め尽くす本棚(ただし、右方にはカーテンに遮られてはいるが巨大な窓が確認できる)には古めかしいフォントが刻まれた背表紙が並んでいる。天井を見上げると細かくツタの意匠が絡み合い、優し気な花を咲かせていた。

「コーヒーを入れるわ」

彼女はそう言って別の部屋に消えていく。

豪邸には彼女以外誰もいないようだった。

彼女……つまり先週バレエを見て、今週同じ場所で映画を見た女性の名前は能間朋絵といった。

数十分前映画が終わった後、俺達はまた噴水のある公園に向かった。そして水量の増減を繰り返す噴水を眺めていたが、しばらくして能間朋絵の「家にこない?」の声が響いた。

能間の家は高台の頂に堂々とした趣で佇んでいた。何度か通った道だったが、こんな邸宅には目も向けていなかった。

「毎日少しづつ掃除しているの」

カップを両手に能間が戻ってきた。

「掃除も自分でしているのか?」

彼女は俺の言葉を手で制して速足でまた部屋を出ていき、すぐ戻ってきた。

テーブルの上にはコーヒーと(ミルクと砂糖ももちろんついている)、そして速足で取りに行ったバナナケーキが大皿にのせられて並べられた。

「これは自分で?」

「ええ、まあそう。レシピ通りにやっただけだけど」

彼女は角砂糖をスプーンで溶かした。

「それでなんだっけ」

「何が?」

「さっき何か言ってたじゃない」

「ああ、そう。掃除も自分でしているのか?」

「そうよ。元々来てくれていたんだけどね。亡くなってしまって。高齢でね。最近だけど」

「新しい人を雇えば?」

「勝手がわからないもの。給与の払い方にしろ、募集の仕方にしろ」

「調べればいい。ネットとかで」

「そんなものもってないわ」

「本当に?」

「本当に」

彼女はパソコンも携帯も持っていなかった。固定電話もないので電話をかけようとすると少し歩いた先にあるバス停の近くの公衆電話で掛けるらしい。ただ極端なネオフォビアというわけでもなく、冷蔵庫や洗濯機は最近の物だった。

車は当然のように無かった。ただそれについては注釈が入った。

「一度は購入を考えたわ。やっぱり有ると無いとでは、特にこんな所では全然違うもの。でも免許が必要って知って。面倒だったけど教習所に行ったの」

彼女はコーヒーを飲み干した。

「でも、教官がうるさいの。隣で色々言われると気が散るじゃない。それで、スラロームでぶつけそうになって」

「うん」

「こうしてやったのよ」

右手の甲を俺に向けると中指を一つ突き立てた。

「その日にやめてやったわ」

俺は笑った。


「あんた、仕事はあるの?」

帰り際に彼女は言った。

「あるよ。そりゃ」

「ここで働かない?使用人として」

「そりゃ、無理だよ」

「どうして?」

「どうしてって」

俺はジャンパーのチャックを閉めて靴のつま先で床を二回鳴らした。

「なんか、書くものある?」

「ええ」

俺は彼女の差し出したメモ用紙に電話番号を書いて渡した。

「平日は無理だけど、土日なら」

「ここで働くの?」

「いや、働くというか、手伝いくらいならやるよ」

「そう」

俺は左手を背に向けて振った。

坂道を下っていくと海が近いことがわかる。太陽が溶けて消えていく。


残業中の回らない頭の中で、おとといのバナナケーキについて考えていた。

きっかけは同僚の出張土産の東京バナナだった。昼休みに咀嚼しているとその甘ったるい味に2日前の記憶が蘇ってきたのだ。

あのバナナケーキには覚えがあった。しかしどこで食べたかが思い出せない。

電車が踏切をゆっくりと通り過ぎていく。

少し明るい夜の暗闇が小さな山を大きく映し出している。


「雨の日に飲むコーヒーってなんだかさみしい」

能間朋絵は深夜特急の第三便を読みながら言った。

「そう思わない?」

「急になんだよ」

「いや、急に思ったの」

脚立に乗って、クイックルハンディでカーテンレース、戸棚、本棚もろもろのほこりを取る。カーテンをクリーニングに出し、掃除機をかけ、クイックルワイパーでフローリングを拭く。安請け合いしてしまったものの、思ったよりもきつい仕事だった。

午後、何とはなしにこの家のドアを叩くと当然のように能間朋絵はいて、鍵を開けた。六時に入った予定までの暇つぶしだったのか、それともこの大きな屋敷をもう一度見てみたいという好奇心か。

掃除が終わると、彼女は暖炉の前の安楽椅子に腰かけた。長い髪が肩からはらりとほどけ落ちた。頬は赤らみ、熱いコーヒーの湯気を浴びるようにコップを顔に近づけていた。

「そんなにコーヒーを飲んで、眠れなくないか」

彼女に促されて俺はソファに腰掛ける。熱いコーヒーは遠慮して、冷たい水をのどに流し込む。

「眠れないわ。全然。十二時には布団に入るけど、それからも全然」

「じゃあ、なんで」

彼女は俺の目を見た。

「好きだから」

首を傾ける。

「それじゃ駄目?」

暖炉の火が揺れる。遮光カーテンに阻まれて、家の中は夜のように薄暗い。

不思議な空間だ。世界は確かに動いているが、ここだけは例外のように思えた。スノードームの中の家のように、いつまでも雪の中で明かりをともし続けているように、そう思えた。




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