リリシズム
キツノ
第1話 バレリーナ
幾つもの白がせわしなく動いている。白たちは舞台上を駆け回った後、整列する。
足先を一本の杖のようにして立つ。そして飛び跳ねる。
俺は観客席にゆったりと腰を下ろし、肘を立てて、下唇を右手で掴む。
おかしなことをしていることはわかっていた。身内が出ているわけでもないバレエの発表会を何故真剣な顔で眺めているのか。
唇から手を離す。椅子の肘に手を乗せると、冷たく乾いた手と重なった。
「すみません」
暗がりの中に浮かぶ、ぶかぶかとしたジャケット。
長い髪とそこから突き出た鼻。
冷たい手の持ち主は俺をちらりと見ると退屈そうに座席に深々と座りなおした。
「気をつけて」
彼女はそう言うと立ち上がり、そそくさと退場する。
『失われた時を求めて』
そう図書館のホームページで検索するといつも△マークが出てくることに俺は首を傾げていた。百年以上前の外国文学が誰の心をそんなにも引き付けているのか。
それが今日に限って貸出可能となっていた。
ホールを出て、併設された図書館に行くと俺は真っ先に外国文学の棚を探した。
異邦人……悲しみよこんにちは……、何故外国文学の棚は作者名ではなくて作品名順なのだろう。本の背を指が流れてギーギロのようなリズムを奏でる。古書の静かな匂いが流れた。
「それ、やめてよね」
さっきの彼女が本の天に指をかけていた。つま先立ちで、右手を背中から覗かせて、先ほどのバレリーナのように。
「本が傷む」
『失われた時を求めて』が彼女の左手に現れた。表紙は薄汚れていて、朱色の栞が飛び出していた。
「何?あなたも借りたいの?」
彼女はウェイトレスが盆を持つように本を軽く上げた。
「ああ、まあ。ずっと借りられていたから」
「そう、借りていたの私なんだけどね」
俺は首を傾げた……といっても実際は首をあからさまに横に曲げたりはしていない。
「もう読み終わったんだから返したんじゃないのか」
「違う。これ、相当長いのよ。この単行本だけでも全体の三分の一も占めてないんじゃないかしら」
「延長は?」
「しない。だって読みたい人がいるかもしれないから。だから毎度こうやってきっちりと二週間経ったら返しに行く。それで、日曜日の4時までに誰も借りに来なかったらまた引っ張り出してあげる」
彼女は滔々と台本を読み上げるように呟くと俺に本を差し出した。
「私はいつでも読めるから」
彼女の声は明るいわけでも暗いわけでもなく、ただ平坦で、時々舌が鳴っていた。
「プルーストは初めて?」
「ああ、いや、そもそもフランス文学が初めてだ」
「他の国の奴は読んでるの?」
「まあね」
例えば、と彼女が聞く。俺は特に何も思いつかなくて(こういったときどういった作品を挙げるのが理想なんだろうか)文庫で一年前に買った本の名前を呟いた。
「パタゴニア」
「パタゴニア?」
「そう、南米の」
パタゴニアと彼女はまた呟いた。
本を物色して、しばらくして俺は図書館から出た。
風が強く吹いている。
図書館から道路を挟んで向かい側に公園がある。人工で造られた滝がしぶきをあげて落ち、水道水がコンクリートの水路を伝って伸びていく。
水路に設けられた飛び石を飛んでいくと、水で囲まれたガゼボに人影が見えた。
「あんた、よくここにくるの?」
彼女は本から目を離さずに話した。
「まあ」
「そう」
彼女はガゼボを抜け出し歩き出す。滝の音が遠くなった。
「じゃあ、多分会っていたのよ。なのにどうして初対面のように思えるんだろう」
水路の先は大きな池になっている。池の中央から複数の細長い水が噴射され、貝の紋様に似た円弧を描いていた。
「君と話したことは無かった。通りすがりの人間は知り合いとは呼ばないだろ。つまり、なんて言うのかな。相手を人として意識しているかどうかって言うこと」
「人として意識していなかったら?」
「風景だよ。ほら、あの電車に乗っている人たちみたいに」
JRがそそくさと通り過ぎていく。
「じゃあ、人として意識しなくなったら?」
「それは、どうだろう。例えば駅で道を尋ねられたらその人を人として意識するだろうけど、でも電車に乗ってしまったらもうその人は風景になじんでしまっているような」
彼女は池に石を投げた。石は跳ねることなく、小さな音を立てて沈んだ。
「久しぶりに、私誰かに話しかけたの」
彼女は仁王立ちで空を見上げると言う。
「誰かの中で存在するのって、なんだか不思議な感じね」
また列車が通り過ぎていく。今度は新幹線だ。
直線と直線を行き来する日々の中でたった数日前のあの日曜日がとうの昔のように思えてくる。
上司の説教を1年目が緊張した面持ちで聞いている。
同僚のやけに大きい笑い声が聞こえてくる。
俺は酒が強いわけではないが、こういった会ではどうしようもなく飲みたくなってくる。
何杯目かのチューハイを口につけたとき、テレビ画面に映るニュースが見えた。
遠い国での大災害が映し出されている。老婆が手の甲を目にこすりつけて泣いている。
俺はぼうっとしながら、その姿を見ていた。
恐らく旨いであろう、刺身の生臭さが口に広がった。
二次会の誘いを体調不良を理由に断って、俺は帰路につく。
駅前というのに人通りは少ない。
星は薄く、かといってまったく見えないというわけでもない。風が吹き、俺は目を細めて体を縮める。
「あの、倉本くんですか」
声がして振り返った。灯篭の形をした街灯に照らされて、道路の真ん中で顔を赤らめる女性がいた。
「その、違っていたのならごめんなさい」
「城山中学出身じゃないですか?」
「そうですけど」
「わたしもそうなんです。同級生」
俺は思い出すように空を見上げた。明るい夜の空をごちゃごちゃとした電線が横切っている。
「ごめん。知らなかった」
「いいですよ」
彼女はそう言って、そう言って苦笑して地面を軽く蹴った。
「どうしてここに?」
「仕事で。大学がこっちなんです。倉本君は?」
「仕事で。配属がこっちでさ。何年前だっけ。6年になるのかな」
「そう。6年前……。誰か連絡とってる?」
「いや、何にも。そもそも連絡先自体知らないし」
「そっか」
じゃあさと言って、おもむろに携帯を取り出した。
「……いいですか」
「いいよ」
「この近くに誰も知り合いいないから」
「まあ、俺で良ければ」
佐藤和美という彼女の名前と、のっぺりとした平原のアイコンが浮かんでいる。
「こんなことって中々ないですよね。東京とか大阪だとわかるけど、こんな……」
「田舎?」
「そう、田舎」
彼女は少し笑った。差し出した携帯をコートのポケットに入れる。
「じゃあ、また」
「また」
背を向けてしばらく歩くと、後ろから彼女……「佐藤和美」が絞り出すような声で言った。
「友達、いますか?」
俺は苦笑した。
「……いや、いないけど」
「そうですか」
彼女はなぜか微笑を浮かべた。
愛のテーマが流れている。
ジャック・ペランがするように俺も柔らかな笑顔を浮かべてあのキスシーンを眺めていた。エンドクレジットが流れ始めたが、誰も出ていこうとはしない。休日にわざわざこんな小ホールに赴いて、何十年も前の映画(ニューシネマパラダイス)を見る人達だから当然と言えば当然か。
「パタゴニア」
耳元でささやく声がした。
「意味が分からなかった」
ぶかぶかとしたジャケット。
長い髪とそこから突き出た鼻。
「でも良かったわ」
銀幕には自転車に乗ったアルフレードの姿が映し出されている。
俺は彼女の方を見て言った。
「気が付かなかった。いつからいたんだ?」
「最初から」
クレジットが終わりに近づいている。
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