第2話 鉢植えの女



 鷲尾さんが初めて私の家に尋ねて来たのは、一昨年の秋だ。

 土曜日の午前中、昼食の支度をしていたら呼び鈴が鳴った。

 インターホンの画面には黒いマスクをしたTシャツ姿の女性が映っている。年は四十代から五十代というところだろうか。首にタオルを巻いて、手ぶら。いかにも近所の人です、という風情だ。知り合いではない。


 うわあ、来た来た来た来た。

 

 宗教の勧誘だと思った。十中八九間違いない。絶対そうだ。ネットで山ほど見た。出たくない。


 けど、万が一何かのクレームだったら居留守を使えば余計にこじれるよなあ。

 

 私はその頃ご近所さんに対して、とてもナーバスになっていた。

 引っ越してまだ半年も経っていない上に大型犬を飼い始めたためだ。当時はまだジルもゴルも夜鳴きをする事があった。危険な悪戯(ソファーを破壊して中の釘を露出させるなど)に対して大声で怒鳴ってしまう事もあった。ご近所から何を言われてもおかしくないと思っていた。

 クレームの場合は誠心誠意謝ろう。宗教の場合には何が何でも断ろう。最悪警察呼ぼう。スマートフォンを握りしめ、覚悟を決めてインターホンの通話ボタンを押した。

「はい、外岡です」

「初めまして、近所に住んでる鷲尾です」

「は、初めまして」

 ほら来たぞ。絶対クレームもしくは勧誘。はい、知ってた。分かってた。

「ここの家の前の通りを北に真っ直ぐ行ったところの家で、黒くてでかい犬を飼ってる者です、えっと歯医者さんの近くなんですけど、分かります?」

 警戒されていると分かったのか、鷲尾さんは少し早口になった。

「あ、は、はい」

 歯医者さん、あったような気がするが、あやふやだ。あやふやなのに、つい「はい」と言ってしまった。てんぱっている時の悪い癖だ。

「酒屋さんもあるんですけど、花屋さんよりは南寄りでパーマ屋さんよりは手前」

 さらに詳しく言われた。どうやら私がぴんと来ていないと見抜かれているようだ。すみません、引っ越してきたばかりなもので。


 で、どっち? 勧誘? クレーム? これ以上ドキドキすんの嫌だから早く教えてくれ。


「あの、外岡さんはワイマラナーの仔犬を二匹飼ってらっしゃいますよね」


 ああああ、クレームの方だったか!

 今から怒られるんだ、私。嫌だな。泣いちゃうかもしれん。


 だが居留守を使わなくて本当に良かった。

「……はい、飼っております。すみません」

 もうさっさと謝ってしまおう。

 だが、鷲尾さんは怪訝そうだ。

「え? いや? あの、どうして謝るんですか? ワイマラナーの仔犬達、新庄さんって方がやってる犬舎から貰ったんですよね?」


 あれ? 何か予想外の方向に話が進んだ?


 鷲尾さんは「ワイマラナー」と言った。騒音などについて文句を言うだけならば、「銀色のでかい犬」とでも言いそうだ。ワイマラナーはプードルやゴールデンレトリバーなどとは違い、誰でも知っている犬種というわけではない。正確に言い当てるのは少し不自然な気はする。

「は……い、そうです。信州の方の」

 戸惑いながら恐る恐る頷く。

「やっぱりそうだ! で、犬の父親の名前、レオって言うんじゃないですか?」

「なんでそんなこと知ってるんですか?!」

 思わず叫んでしまった。

 これはどうやら、どの想定にも当てはまらない事態だ。

 バタバタとマスクを取りに走る。ジルとゴルを犬部屋に入らせ、急いでドアを開けた。

 健康的に日焼けした小柄な女性がマスク越しにも分かるような満面の笑顔で立っていた。

 第一印象としては「ものすごく運動神経良さそう、ていうか強そう」だった。細いがしっかり筋肉のついた手足と、活動的な服装のせいだろうか。

「こんにちは! やっぱりね。そうじゃないかと思いましたよ。いきなりごめんなさいね」

「は、はあ、え、な、なんで……?」

「あははは! そうですよね。びっくりしますよね。すんごい怪しいよね」

 その通りだが、そうですね、とは言えない。

「あの、うちの姉、県南の方に住んでるんですけど、姉はレオの飼い主なんですよ」

 レオはジルとゴルの父親で、ロング(毛の長い)のワイマラナーだ。ジルとゴルを引き取った時にブリーダーさんに紹介された。

「レオの飼い主はブリーダーさんの新庄さんじゃないんですか?」

「それがですね……」

 その犬舎はロングヘア―ドワイマラナーを売りにしているのだが、ロング同士を掛け合わせるのは遺伝上の問題で避けた方がよいとされており、ロングの仔犬が欲しい場合にもショート(短毛)と掛け合わせるので、生まれた仔犬がショートの場合もある。そうして生まれたのが短毛の、いわゆる普通のワイマラナーであるジルとゴルだ。そのせいで売れ残っていたのである。

 鷲尾さんは早口で続けた。

「レオはもともとドイツから来た子で、どの女の子とも血が遠いから、あの犬舎の種オスとして大切にされてて、ドイツから来た後、犬舎で飼ってたらしいんですけど」


 そういや新庄さん「うちはアウトブリードしかやらないんです」って言ってたな。


「でも一緒に住んでるドーベルマンとそりが合わなかったみたいで、ストレスで精子が減っちゃったらしくて、ほら、人間のオスもストレスでインポになったりするでしょ?」

「は、はあ」

 種オス、精子、インポ、初対面の女性からポンポン投げかけられる言葉としてはかなり直截的な言葉である。


 説明のためだからしょうがないけど。別に何も悪かないけど。


 若干脳が混乱する。ただでさえ今の状況がまだ掴めていないのに。


ていうか鷲尾さん、もしかしてノーブラ?


 スポーツメーカーのロゴが入った真っ黒なTシャツから乳首が浮いている。そんな場合ではないのに、つい観察してしまった。慌てて目を逸らす。


 この辺ではノーブラって普通なの? 私も冬とかたまにノーブラでだけど、すごい厚着するし、Tシャツではやった事ないよ。人に会う時なんかは、ばれないようにめちゃくちゃ気を付けるよね。

 ていうか普通……普通とは? 普通の女性はもしかして、そもそもノーブラで外には出ない? 私も普通ではない? むしろ他の人から見れば私は鷲尾さんと同類なのでは? いや、逆か? 普通の女性はちょいちょいノーブラだったりする? でも林さんとか絶対ノーブラで外に出たりとかしなさそう。分からない。今の状況も分からない。情報量が多過ぎる。何も分からない。


 私が内心の葛藤を表に出さないよう四苦八苦している間にも鷲尾さんは話を続ける。

「うちの姉があそこの犬舎を見に行った時に、レオがうちの姉にすごく懐いて、くっついて離れなくなっちゃって。たぶんレオ、本当に気持ちが弱ってたんでしょうねえ……新庄さんも何か感じるところがあったらしく、良かったらレオの里親になってくれないか、と」

 ぜひに、と頼まれたらしい。

「姉のとこに来たら、先住犬ともすぐに仲良くなって、超元気になりまして、下半身も元気ビンビンに!」

「……ビンビンに」

 つい繰り返してしまう。

「そうして増えた精子で生まれた仔犬が外岡さんちの子達、だと思うんですよ、たぶん、時期的にそうじゃないかと」

 鷲尾さんの予想は正しかった。

 私が犬舎でレオに会えたのは実はかなりのラッキーだったらしい。レオは今、基本的には鷲尾さんのお姉さんの家で生活しており、ブリーディングの時だけ新庄さんの犬舎に預けられるのだそうだ。

「まさにその通りです。うちの子らの血統書にもレオ君の名前が書いてありますよ。でも、凄いな。よくそれだけの情報で分かりましたね」

「いや、私も確信があったわけじゃないんですよ。ご近所の噂で、この辺りでワイマラナー飼い始めた人が居るって、犬舎は信州の方だって聞いて、お散歩してるの遠くから見かけたんですけど、だいたい月齢も合ってそうだし」

 そう言えば、お向かいさんと散歩の時に立ち話しをした気がする。その時に、どこの犬舎か尋ねられ、信州の方から貰って来たと答えた。ご近所の情報網で鷲尾さんまで伝わったと考えれば、おかしなことではないが、それはそれで少し怖い。

 鷲尾さんは上機嫌で続けた。

「うちの近所にワイマラナーの仔犬が来たよって姉に話したら、姉が『レオの子供達かもしれない』『孫みたいなもんだから気になる』って、『でもご迷惑かもしれない』とか、ずーっとうだうだ言ってるから、思い切って来ちゃいました。へへへ、すみませんね、突然押しかけちゃって」

 そうだったのか。


 クレームじゃなかった。良かった!


 安堵のあまり力が抜けた。

 まるで孫のように思われている、という事は飼い主の性質や生育環境をジャッジされて、場合によっては告げ口されてしまったりするのかもしれないが、それでもクレームよりははるかにましだ。

「ところで、仔犬ちゃん達はどこに」

 鷲尾さんはキョロキョロと見回し、ついでに伸びあがって私の肩越しに家の奥の方を覗き込む。


 ひえ! この人、すごい無造作に他人のお宅を探ってくる! 洗濯物とか干してなくて良かった。


 不躾さに少し驚いた。だが、鷲尾さんに悪気はないのだろう。この短いやり取りでもなんとなく分かった。この人はこういう人だ。

 姉が「ご迷惑かもしれない」躊躇するところを踏み込んでいくし、ノーブラで初対面の人間の家を訪ねてくる。そして種オスとかインポだとか、なんの躊躇もなく言ってしまえる人なのだ。たぶん林さんとは正反対のタイプだ。

 しかし私も林さんタイプか鷲尾さんタイプか、どちらかで分けるとすれば鷲尾さんタイプの人間なので、そこまでの拒否感はない。

「良かったら、うちの子らと遊んで行きませんか」

「え、いいんですか?」

 鷲尾さんは言いながらもう靴を脱ぎ始めている。

「どうぞ、どうぞ! 今犬部屋から出しますね、あ、戸締りだけさせて下さいね」

 クレームでも宗教の勧誘でもなかったと分かったので、だいぶ心が軽くなり、私はようやく笑顔になれた。愛想も良くなる。男性であれば躊躇しただろうが、相手は女性だ。渋る理由は特にない。

 ジルとゴルのはしゃぎようは凄かった。来客が嬉しくて堪らないのだ。扉を開けた瞬間に弾丸のように飛び出して鷲尾さんに突進する。鷲尾さんは危なげなく二匹を受け止める。

「おっほっほ! 元気だねえ!」

 仔犬とはいえすでに二十キロはゆうに超えているので、小柄な鷲尾さんは転んでしまうのではないかと心配したが杞憂だったようだ。

「お名前は?」

「オスの方がゴルでメスの方がジルです」。

「六カ月くらい?」

「はい、丁度六カ月です」

「一番やんちゃな時期でしょ」

「そうですねえ」

 破壊されたソファーを横目に溜息を吐く。

「タマタマは……まだ付いてんね。こーんなちっちゃくて可愛いタマタマなのにさ、お前さんもすぐ腰振るようになるんだよねえ」

 鷲尾さんは豪快にがっはっはと笑った。

「ははは……」

 私もつられて引き攣った笑みを浮かべた。


 うわあ、今日会ったばかりの相手に普通に下ネタ言うんだあ。


 すると鷲尾さんは二匹を撫でまわしながら急に笑みを消して私に顔を向けた。

「ところで獣医さんどこ行ってるの?」

「木下動物クリニックです」

 私が答えると、鷲尾さんは真顔のまま、この辺りの獣医の中で大型犬の去勢手術、避妊手術の症例数の多いところを教えてくれた。

「フィラリアの薬もらうだけなら、木下動物クリニックでいいけど、手術ってことになると、私なら、れんげ動物病院さんに行くね」

 オスとメスを一緒に飼っているので、繁殖させるつもりがなければ、どうしても去勢手術は必要になる。どこへ行こうか迷っていたので、教えて貰えて助かった。

「避妊手術は大型犬だと子宮が深くて結構大変なんだよ。それに比べたら去勢手術は全然大した手術じゃないから、先にゴル君の去勢して、事故だけは防いで、ジルちゃんの避妊をどうするかは獣医さんと相談して決めたら?」


 今日会ったばかりの相手に攻めるなあ。

 避妊手術とか結構センシティブな話題だと思うんだけど。


 いきなり現実的かつかなり踏み込んだ話をされて一瞬固まったが、話の内容自体は実に真っ当だ。

「そうします」

 妥当なところだろう。鷲尾さんはほっとしたように笑顔で頷いた。

「よかった、多頭飼いの避妊や去勢は待ったなしだから方針だけでも早めに決めておかないといけないもんね」

 鷲尾さんにも踏み込んだ話を急ぎ過ぎた自覚があるらしい。しかし彼女がうちの犬達に親身になってくれているのは確かなようだ。

「ところで、躾ってどうしてるの?」

「今のところは自分でやってます」

 「お座り」「伏せ」「おいで」「待て」はだいたい出来るようになった。トイレは成功率八割というところだ。だが「悪戯させない」というのは全然出来ていなかった。犬に何かをさせるのはさほど難しくはないが、何かを禁止するのは物凄く難しいのだと知った。

 仕事から帰って私が最初にすることは、引き裂かれたペットシーツの片付け(吸水ポリマーが散乱しており大変に手間がかかる)という日が続いていた。

「ふうん、そうなの」

 鷲尾さんは鋭い目で家の中を見渡した。齧られた柱、引っ掻かれて木目の見えてしまっている扉、ボロボロのソファーを見られた。間違いなくジャッジされている。気まずい。

 しかし鷲尾さんは私を非難するような事は一切言わなかった。

 ジルとゴルは鷲尾さんに撫でられて無邪気に尻尾を振っている。

「この子らは可愛いし素直で性格も良さそうだけどさ、やっぱり大型犬だからプロに相談しといた方がいいよ。どうしても出掛ける時、葬式とか出張とか、病気とか、犬を誰かに預けなきゃいけない時もあるでしょ。そういう時に普段から知ってるトレーナーさんが居ると安心だよ。これも急に必要になるから、なるべく早い方がいいよ」


 そっか、確かにな。


 ペットシッターやペットホテルについては調べていたが、ある程度以上に大型犬になると初対面の人間に預けるのは無理があるかもしれない。

「トレーナーさんってお預かりもやってることが多いからね」

 鷲尾さんはおもむろにポケットからスマートフォンを取り出した。

「ちょっと待ってな」

 鷲尾さんは連絡先を開いた。

「何かメモある? スマホでもいいよ」

「え、あ、はい今」

 慌てて紙とペンを持って来る。良く分からないが、鷲尾さんの鋭い目で見られると、つい従ってしまう。鷲尾さんの口調はいつの間にか敬語ではなくなっている。別に構わないが。

「この子、竹田美緒ってトレーナー、うちの子預けてたトレーナーさんのお弟子さんでさ、ちょっと変わってて……私はあんまり気が合わないんだけど、腕は滅法いいからね。この人にしなよ。うちがお世話になってるトレーナーさんから『くれぐれもよろしく』って言っといて貰うからさ」

 鷲尾さんはメモ用紙を突き出した。ちょっと待って欲しい。展開が早過ぎる。つまり私がジルとゴルの躾をトレーナーさんにお願いするのはもう決定事項なのか。いや、まあ、頼んでもいいかもな、とは思っていたが。

「竹田って子はピアスたくさんしてて、髪の毛緑色で短くて猿っぽい髪型の女の子よ。顔は栗鼠みたいで可愛いけどね」

 猿とか栗鼠とか、あんまりそういう事言わない方がいいんじゃ、と思ったが、本人はこの場に居ないので飲み込んだ。竹田さんの外見は若い人にとってはそれほど珍しいものでもないだろう。職場にも似たような髪型の人はいる。

 何より女性なのが嬉しい。一人暮らしの家に来て貰ったり、場合によっては鍵を預けたりする相手なら女性の方が安心だ。

 数秒しか迷わなかった。

「……ぜひ、お願いします」

「そうしな!」

 鷲尾さんは、満面の笑みを浮かべた。

 こうして物凄いスピード感で私と鷲尾さんの交流は始まった。


 次の週、鷲尾さんは再び訪ねてきた。

「こんにちは!」

 鷲尾さんはスーパーの袋を下げて新聞紙にくるまれた何かを持っている。慌ててゴルとジルを犬部屋に入れて玄関先に出た。

「いやあ、先週はごめんね。なんか急過ぎて我ながら怪しかったよね」

「いえいえ、そんな、いろいろ教えて下さって助かりました」

 あの後すぐにトレーナーの竹田さんと連絡を取り、トレーニングをお願いする事が出来た。面食らったのは確かだが、本当に助かった。

「これは先週のお詫び」

 新聞紙にくるまれたものは花束のようだ。中身は良く見えない。手渡されて受け取る。気を抜くとばらけてしまいそうなので抱えた。スーパーの袋も持たされた。どっしりと重い。中身が気になるが今確認するのは難しい。両手がふさがった。

「あと、犬を連れて来ました。うちのゾネちゃんです」

 鷲尾さんの背後からぬっと漆黒の巨大なオス犬が姿を現した。鷲尾さんは黒づくめなので、まるで鷲尾さんの影が犬の形になって現れたかのようだった。


 でっっか!


 ワイマラナーもかなりの大型犬なので、大型犬にはそれなりに慣れていると思ったが、その私でもたじろぐほどに大きい。鷲尾さんの隣に座って尻尾を振っている。頭のてっぺんはが鷲尾さんの肩のあたりだ。へっへと口を開けて舌を出して呼吸をしている。真っ赤な口の中で牙だけが輝くように白い。舌は長い。部品がどれも大きい。顎というか、頭の骨格自体が大きい。

「グローネンダール……っつっても分かんないか。シェパードの仲間みたいなやつよ」

 ベルジアン・グローネンダール、名前は知っている。日本ではかなり珍しい犬種だったような気がする。見たのは初めてだ。


 いや、でもさ、グローネンダールってこんなにでかかったっけ?


 ボリュームのあるふさふさとした胸の毛がさらに迫力を増している。確か、ワイマラナーとそう変わらない体格だったと思うのだが、同じ犬種でも個体差はあるものだ。大きな個体なのだろう。

 濃いとび色の瞳は優しそうだ。よく躾けられているのだと一目で分かる。

「この子一応救助犬の資格持ってるんだよ」

「え! すごい!」

 本当に凄い。

「って言っても今はもう高齢で引退してるけどね」

 おじいちゃん犬なのか、そうは見えない。白内障も毛の白化もないようだ。しかし犬の年齢は人間には分かりにくいものだ。

「私もおばあちゃんだし、老人と老犬よ」

「いや、全然そうは見えませんよ」

 これはお世辞でも何でもない。事実、鷲尾さんは若々しい。

「何言ってんの。私外岡さんの少なくとも三倍は生きてるよ」

 さすがにそれはないだろう。

 冗談か、はたまた逆に私がお世辞を言われているのだろうか。とは言え、私をどんなに若く見積もったとしても、三倍はおかしい。

 私が何か言う前に、向かいの家で飼われている犬達が吠えだした。見慣れない巨大な犬を警戒しているのだろう。ゾネちゃんは意に介さぬ様子だが、つられて近隣の犬達も吠え始める。

「あらら、気付かれちゃったか。うちの犬あそこの犬と相性悪くてさ。騒音で迷惑になっちゃうから、今日はこの辺で! あ、袋の中は巨峰ね! 自然にぽろっと取れたやつは先に食べなよね。あと、花束はうちの庭の花。早めに水に入れてね。毎日水換えれば一週間はもつから、そんじゃ!」

 それだけ言うと、初秋のまだ強い日差しの中を鷲尾さんとゾネちゃんは悠々と去って行った。

 相変わらずのスピード感だ。そして指示出しがとても多い。

 そう言えば鷲尾さんは初対面の時にも黒づくめだった事をとふと思い出す。マスクも、首に巻いたタオルも、スニーカーも全て黒かった。黒が好きなのかもしれない。飼い犬も黒い。


 ゾネちゃん可愛かった。撫でたかったけど、荷物で両手塞がっててしな。


 こうしてはいられない。紙袋や新聞紙は放っておけばジルとゴルの餌食になり紙吹雪にされる。さっさと片付けてしまわなければ。

 鷲尾さんに貰った巨峰を冷蔵庫の中にしまって、どうやら花束らしい新聞紙の塊を潰さぬようにそっと置く。その時、新聞の紙面が目に入った。何かの図形が描かれている。最初はクロスワードパズルか何かだろうと思った。

「え? なにこれ……」

 思わず目を疑った。

 それはクロスワードパズルではなかった。迷路だ。子供用の付録のついた雑誌に載っているような迷路がいくつも描かれている。それだけならまだ分からなくもないのだが、添えられた文章がおかしい。

『天体移転法クイズ初級編 Q:次のうち二等星を示す迷路はどれか? 一つ選び答えよ』

 ちょっと意味が分からない。二等星と迷路に一体何の関係があるのか。迷路の経路を鉛筆でなぞると「二等星」の文字が浮き上がる、だとかそういう類の懸賞問題だろうか。しかし迷路はどれも比較的単純で、一つしか選べないようだ。

「んん?」

 混乱したまま別の紙面も読み進めた。読者投稿欄、というか人生相談のようだ。どうやら娘がトランペットを習い始め、近所の公園で練習していたら散歩中の犬が吠えるので迷惑しているという話らしいが、相談者は『音楽への侮辱となる行為であり、決して許されることではありません』と語気が強い。だいぶお怒りのご様子だ。それは分かるのだが……


 音楽への侮辱って?


 さっぱり分からない。相談への答えの欄も読んでみたが『たとえ眷属であったとしても犬は吠えるものであり、決して音楽への侮辱とはなりません。捧げ物に糞尿をかけたのでもなければ』などとやはり意味不明な文面が続く。


 いや、犬は吠えるものだというのは同感だけど、眷属って何?


 宣伝欄も奇妙な文章で埋め尽くされている。

『ギンリョウソウ:風猪の骸に生えたものを星の光しか当てずに咲かせました。メガロドン避けに最適! ※オリオン座の見えない地域では使えません』

 ギンリョウソウ、たしか葉緑素を持たない腐生植物のことだ。真っ白だった気がする。なぜかそれが便利グッズとして売り出されているようだ。メガロドンとは古代生物の、あの巨大鮫のメガロドンだろうか。メガロドン避け、ということは、何もしないでいるとメガロドンが寄って来るということだろうか。いつの間にこのあたりはそんなに危険な場所になったのか。そしてオリオン座の見えない地域なんてあるのだろうか。

 その他は斜め読みしかしていないが、『眷属を増やすには? 今日からあなたも出来る! 眷属作りの条件に合わせて実戦! コントロールのテクニック シリーズ第一回 命令に従わせるだけが支配だと思っていませんか? 習慣や口癖を真似させるのも非常に有効です。対象がそれを下品だと感じていたり、堕落だと感じていればいるほど効果があります』だとか『産土神関係のトラブルお任せください 平日午後9時~翌午前3時0120-XX-XXXX』だとか、どれも意味不明だ。いや、電話受付時間が明らかに深夜だ。おかしいだろう、誤植だろうか。

 そもそも誌名がおかしい。『傾城新聞月寝市版』なんて聞いたことがない。

 眩暈のような混乱に襲われながら新聞紙の中身を取り出す。だが花束を見た瞬間に全てが吹き飛んだ。

 秋色紫陽花とカサブランカ、金魚草で出来た花束だった。

 紫陽花は深い群青色と若草色、真珠のように光る灰色が混ざり合い、万華鏡のようだ。秋色紫陽花によくあるような乾いた感じは全くなく、水滴をまとって瑞々しい。こんなに綺麗に秋色になっているものは花屋でもなかなか目にすることがない。それがいくつも入っている。

 カサブランカも見事だった。真っ白で大きな花弁の中の赤錆色の雄しべ、葉は鮮やかな青だ。花の一つ一つが大きい上に、いくつも蕾がある。

キンギョソウの花は赤黒く、葉も黒みを帯びている。

 カサブランカの鮮烈な白さと、ところどころに入る黒や灰色のせいか全体としての印象はモノクロだが、細部に目をやると鮮やかな青や赤がちりばめられており、その印象の揺らぎに目を奪われて、真実の姿がどちらなのかを見極めたくなってしまう。あまりにも魅力的だ。いくらでも眺めていられそうだ。

 花屋で買う花束と比べるとだいぶ葉が多い。葉の多い花束というのはこんなにも存在感を増すものなのかと初めて知った。


 本当に美しかった。鳥肌が立つほど。


 しばらく我を忘れて見入ってしまった。どのくらい時間が経ったのだろう。ジルとゴルがガリガリと扉を引っ掻く音で我に返った。切ない声で鳴いている。

「……あ、ごめんごめん! ちょっと待ってね」

 思った以上に時間が経っていた。しかし綺麗だ。つい目が行ってしまう。いけない、いけない。

 無理やり目を逸らして水差しを洗い、花を飾る。花瓶などという洒落たものはうちにはない。あってもジルとゴルに割られてしまうだけなので買う気もない。水差しも実用的なプラスチック製だ。しかし花があまりにもゴージャスで美しいので、何もマイナスにならない。凄い。いや、それにしても綺麗だ。見惚れてフリーズしてしまう。またやってしまった。もはや怖くなってきた。

 急いで犬に悪戯されては困るものを片付けて、犬部屋の鍵を開けた。途端に銀色の弾丸が二つ私を押しのけて飛び出していく。

「痛たっ!」

 脛に石頭がぶつかった。犬の頭はとても硬いのだと大型犬を飼って初めて知った。

 もの凄い勢いで部屋中を駆け回ってから私のところに戻って来て、立ち上がって鳩尾に正拳突きをかましてくる。大変にお怒りだ。申し訳ない。しゃがんで二匹を撫でまくる。

「ごめんて、ごめんね、はいはい、よしよしよしよし」

 貰った巨峰はとても美味しかった。スーパーで見かける巨峰と比べてはるかに粒が大きい。上等な巨峰をこんなにたくさん、結構なお値段になるはずだ。


 これは絶対に何かお礼をしなくては。


 翌週、私は手土産を持って鷲尾さんの家を訪ねた。鷲尾さんの家は思ったよりもずっと近かった。

「おお…」

 真っ黒な家だった。雰囲気が悪いだとか、暗いだとかそういうことではない。単純に何もかもが黒いのだ。焼杉というのだろうか、黒い板張りの和風の家に黒塗りのドイツ車が停まっている。

 垣根の椿の葉もやや黒みを帯びている。垣根というにはかなり背が高い。生茂る植物で出来た壁のようだ。良く見ると様々な種類の椿が入り混じってモザイク模様を作っている。どこもかしこも艶々していて花の時期ではないのにとても綺麗だった。

おそるおそる呼び鈴を押す。

「外岡です。ごめんください」

「あら、いらっしゃい! 今行くね!」

 垣根の奥から声がした。庭に出て作業をしていたらしい。黒い鉄製の扉の前で待っていると巨大な黒い犬がぬっと姿を現した。ゾネちゃんだ。首輪はしているがノーリードだった。門扉の丈は低いのでゾネちゃんならば簡単に飛び越えられるだろう。車道に飛び出してしまうのではないかと、飼い主の性で一瞬身構えたが、うちの暴れん坊達とは違ってはしゃぐ素振りすら見せない。へっへと真っ赤な舌を出して、お座りの体勢を取る。

 なんていい子なんだ。うちのゴルとジルなら絶対に門扉に前足をかけたり、門扉の隙間に頭を突っ込んだり、大騒ぎになるというのに。

「入っちゃっていいよ! ゾネについて来て」

 それを聞いたゾネちゃんはゆっくりと立ち上がり、私が門扉を開けて入り後ろ手に閉じるのを確認してから歩き出した。


 な、なんて賢いんだ!


「お邪魔します」

 車のわきをすり抜けて中に入ると剪定鋏を持った鷲尾さんが居た。今日も黒ずくめだ。本当に黒が好きなのだろう。

「わあ……」

 圧倒された。

 日本庭園でも洋館のバラ園でも、イングリッシュガーデンでもない、見事な庭がそこにあった。林さんのお宅もそうだが、この辺りは園芸に力を入れている人が多いようで、園芸のレベルが非常に高い。地域性かもしれない。その中にあってさえ際立つほど出来だった。

 庭は植物で埋め尽くされている。秋色紫陽花にシュウメイギク、白い薔薇、青紫のバラ、クレマチス、黒いタチアオイ、薄紫色の芙蓉、葉の細い紅葉(たしか鳳王)、その他にも私が名前も知らないような花や庭木が絶妙のバランスで生茂っていた。

 弱っている草木はひとつもない。艶やかにただ自然体でそこにある様なのに、決して自然ではありえない。そう本能が告げている。だって自然のままで、こんなにも美しいはずがない、おかしい。けれど美しい。美しいから見てしまう。何もかも全て見たくなってしまう。視線を定めておくことが出来ない。重たげな白いバラに見惚れれば、その下に生える紫陽花に目を奪われる。銀色の産毛が美しい葉は一体何の葉だろうか。

 頭の芯が痺れるようだ。

 花束に見惚れた時と同じ酩酊感に襲われる。だが家に飾られた花束と違って、この庭の中ではどちらを向いても美しい植物達から逃れられない。吸い寄せられるように、ただ口を開けて見惚れた。止め方が分からない。

 どのくらい時間が経っただろうか。

 犬の舌が私の腕を舐める感触で我に返った。ゾネちゃんが私の腕を舐めたのだ。犬の臭いがしたのだろう。

 そうだ、ジルとゴルが家で待ってる。早く帰らなきゃ。

 そう思った瞬間に奪われていた魂が戻り、声が出た。

「あ……は……あ、す、すごいお庭ですね。素敵過ぎて見惚れてしまって、はは」

 いけない。人の家を訪ねておいてぼんやりするなど失礼だった。しかし何だったんだ、今のは。あまりここに長居しない方がいいのかもしれない。幼い頃に読んだ絵本を思い出した。美しいユニコーンに見惚れて時を忘れ、白髪の老人になってしまう若者の話。

「いいよ、意外と早かったね」


 意外と早いってなんだ!? 

 もっと長い間見惚れてしまう人も居るってことか? え、何それ、怖い。しかも普通に言うわね?!


「気に入ってくれて嬉しいよ。欲しい植物ある? 分けてあげられるやつはあげるよ」

 ついさっきまで怯えていたくせに、くれると言われると、つい色気を出してそわそわしてしまう。だって、ここの植物はあまりにも美しいのだ。


 ほ、本当に? これ欲しいって言ったらくれるってこと? 気前良過ぎでは?

 いや、でもさすがにそれは厚かましいよね。


 すると手に持っていた包みをゾネちゃんの鼻先で突かれた。

「い、いえ、そんな勿体ない。あ、そうだ、これ、近所のお店なので鷲尾さんも良くご存知かとは思うのですが」

「あ、ベステミアのケーキ! やった、ありがとう。ここ美味しいよね」

 ベステミアは月寝市で人気のケーキ屋だ。こんな田舎で老舗としてやっていけるだけのことはあって、ケーキも焼き菓子も非常に美味しい。

「嬉しいな。へえ、外岡さんはここに入れる人なんだ」

 入れる? どういう意味だろうか。

 一言さんお断り、という類のお店ではなかった気がする。だが確かに少し奥まった場所にあり、地元民しか知らなそうな店ではある。古くからの住人ではなさそうなのに良く知っているね、とかそういった意味だろうか。

「甘さ控えめで、いいですよね」

「今後一緒に行こう。裏メニュー教えてあげるからさ」

 鷲尾さんはにやりと笑った。

「はい、ぜひ」

 とても楽しみだ。

 その後、鷲尾さんは、そんなにうちの庭が気に入ったなら、とその場で鋏を取り出して庭に咲く見事な花々をさっと切り、即席の花束を作ってくれた。

先程断ったはずなのだが聞いていなかったのかもしれない。今さら「怖いからご遠慮します」と言うわけにもいかず、おろおろしながら立っているしか出来ない。自分の気の弱さが憎い。さらに鷲尾さんには他人にノーと言わせない雰囲気があって、太刀打ちできない。

「うちの庭の一番綺麗な部分を、そのままちょっとずつ切り取ってお裾分けするつもりでね、葉っぱも多く入れるのがコツかな」

 などと話している間に見事な花束が出来上がる。今回はシックな色合いのバラが多めの花束だった。時計草というかなり個性的な花も含まれているのに、色合いのせいか全体がまとまっている。溜息しか出ない。あまりにも完成された美しさが一瞬で出来上がる。そしてそれを気前よく人にあげてしまうのか。お礼に行ったはずなのに、またこんな素晴らしいものを貰って帰ることになってしまった。


 まあ、またお礼がてら何かお届けにあがろう。

 素敵なご近所さんと知り合いに慣れて嬉しいな。


 意気揚々と家に帰って来たのだが、時計を見て驚いた。

「は?」

 鷲尾さんの家までは歩いて数分もかからない。お邪魔していた時間もせいぜい十分程度だったと思うのだが。

「一時間以上経ってる……?」

 唖然とする私に苛立ったように、ゴルとジルが扉をバリバリと引っ掻き始める。

「ああ、ごめんね! 今出すから!」


 そうだよね、いつもこの時間は家の中で遊ばせてるのに犬部屋でお留守番だもんね、そりゃ怒るわ。

 あ、今気が付いたけど、私今めちゃくちゃオシッコしたい! 出がけにトイレ行ってから出掛けようか迷ったけど、そこまで切羽詰まってなかったし、どうせすぐ帰るからって思って我慢したまま出掛けちゃったんだった。

 てか、なんで? 一時間以上? 絶対そんなに長居してないのに!


 戸締りをして、ゴルとジルを居間に出してやりながら、背筋が寒くなった。

 意外と早かったね。

 鷲尾さんは面白そうに言っていた。

 いや、鷲尾さんはどう考えてもいい人だし、犬の躾も凄いし、植物を育てるのも本当に上手みたいだし、素晴らしい人だとは思うが。

 鷲尾さんのくれた花束を包んでいたあの不可解な新聞紙をちらりと思い出した。

 だが、私も他人から見たら不可解な行動をそれこそ山のようにしているのだろう。不愉快だとか迷惑だとかではないのだから、あまり気にしても仕方ない。

 それよりトイレ! オシッコ漏れる!

 私は忙しさのせいにして、鷲尾さんの違和感について考えるのをやめてしまった。


 その後も鷲尾さんとの交流は続いた。

 散歩中に会うと立ち話をする間柄だ。ジルは基本的に他に犬に対して攻撃的で、ゴルとミドリちゃん以外の犬とは仲良くする事が出来ないのだが、ゾネちゃんは例外のようだ。尻尾を振って尻の臭いを嗅がせている。ゾネちゃんはおそらく犬からすると美男子なのだろう。

 鷲尾さんは美味しい桃や蜂蜜、珍しい林檎などを玄関先に置いてくれるようになった。お礼のお礼、そのお礼、が続いている状態だ。

 この間はドライフルーツがたっぷり入った食パンだった。どの品もびっくりするほど美味しい。あまりにも美味しいので、自分でも買いに行きたくてラベルに書いてある店名や住所などで検索しても、どういうわけか何も出て来ない。たまにあの謎の新聞紙が緩衝材として入っている。

 鷲尾さん曰く、隣県の道の駅のような場所で買っているとのことだが、出所は謎のままだ。住所で検索しても出て来ないのは、いくら何でもおかしいのではないかと思わないでもない。しかし美味しい。この美味しさの前には多少の怪しさなど、どうでも良かった。田舎なのだ、そういう事もあるだろう。鷲尾さんの選ぶものに間違いはない。


 県内にお住いのお姉さんも先日うちに挨拶にこられた。

 ジルとゴルの父親のレオの飼い主であるところのお姉さんだ。

急な話だったが、丁度予定が空いていた。事前に連絡をくれてもいいのでは、と思わないでもなかったが断る理由はない。

 鷲尾さんのお姉さんはジルの方が特にレオとそっくりだと言って喜んでいた。お姉さんは鷲尾さんと違って黒づくめではなかったが、鷲尾さんと同じくジャージ姿だった。ちなみに出迎えた私もジャージ姿だ。

 菓子折りを持って他人の家にお邪魔する、初対面の客人を出迎えるというシチュエーションだが、皆ジャージ。田舎ではこんなものだろう。気が楽だ。

 犬の毛塗れになりながら何やかやと雑談をし、お姉さんはジルとゴルの写真を撮りまくり、満足したようだ。その時の会話から、鷲尾さん姉妹のご両親はすでに亡くなっているのだと知った。

 帰り際に一緒に玄関先で立ち話をしていたら、ジャージ姿の私達三人の前を散歩中の林さんが通りかかった。林さんはきっちり頭を結い上げ、カシミアのカーディガンを羽織って、プレスされたパンツを履いている。

「あら、外岡さんと鷲尾さん、お知り合いだったのねえ」

 鷹のように鋭い眼差しで頭のてっぺんからつま先まで観察された。いつもきちんとした身なりをしている林さんからすると、ありえない状況なのだろう。

 その頃まだ私は林さんの事を良く知らず、なんとなく他人に対して厳しい人なのだろうと思っていたため、非常に気まずかった。先ほどまで呑気に「楽でいいや」などと思っていたけれど、あからさまな視線を向けられるとだらしなさを咎められているようで居た堪れなくなる。

「あ、はい、えと……」

 関係性をなんと説明したらいいのか迷う。私のぼんやりした返事に被せるように鷲尾さんがはっきりした声で続けた。

「そうなのよ、ジルちゃん、ゴルちゃんは親戚みたいなもんでね。あ、うちの姉です」

「どうも、はじめまして。その子がミドリちゃんですか? お話聞いてます。お散歩嬉しいね」

 お姉さんも気負いなく挨拶を返している。

 ちなみに鷲尾さんは今日もノーブラである。それでも堂々と胸を張り、ミドリちゃんに手を振っている。林さんの視線にもまったく動じない。なんて強いのだ。年季が違う。私も鷲尾さんに倣って林さんに会釈した。

 もはや舎弟の気分だ。

 鷲尾さんの立ち振る舞いには自然と人を従わせる力がある。少し無作法で強引、しかし不思議なほどに断る理由が見当たらない。受け入れてもこちらは何も損はしない。むしろ与えられるものは益ばかり。軽んじられ、雑に扱われたのではないか、と鷲尾さんの態度にわずかに反発しても、圧倒的なありがたみになぎ倒されて、それを繰り返すうちに、だんだんと無力感が増していく。考えるのが億劫になる。鷲尾さんの言う事を聞いておけば間違いないという風に思えてくる。

 今日も結果的に鷲尾さん姉妹のおかげで非常に楽しい休日になった。ゴルもジルも遊んで貰えてご機嫌だ。

 何の問題もない。そのはずだ。


 鷲尾さんに貰った花束があまりにも素晴らしかったので写真に撮って母に見せたところ、すぐに怒涛の質問攻めにあった。母は園芸が好きなので、私よりも鷲尾さんの凄さが分かるのだろう。

 一体何者なの? 業者の人? 何かそういう仕事をしてるの? この薔薇も牡丹も素人では難しいと聞いた事があるけど?

 そういえば、鷲尾さんの職業などは知らない。私の方は聞かれるままに教えた気がするが、なんとなく聞きそびれてしまった。お姉さん以外のご家族は居るのだろうか。ゾネちゃんと鷲尾さん以外、あのお宅には住んで居ないようだが。


 まあ、詮索するような事でもないよね。私だって見る人によっちゃ相当怪しい女だろうし。


 母が鷲尾さんの育てた植物に深く感銘を受けたようだと伝えたところ、鷲尾さんは椿の鉢植えを母にくれると言い出した。

「それはさすがに申し訳ないですよ!」

「いいのいいの、余ってるやつだから。一昨年の冬に屋根雪が落ちて椿が折れちゃってさ、枝をいくつも挿し木にしたら、思った以上に多く根付いたんだよ」

「でも、こんな綺麗に育ったものを」

 鷲尾さんが用意して来てくれた椿の鉢植えはどれも売り物かと思うほど蕾が多く付き、葉も艶々と輝いていた。いや、売り物以上だ。

「これは袖隠しってやつ、見てよこの蕾! 白くて卵みたいに大きいよ。咲いたらもっと大きいんだよ」

 ほら、外岡さんも欲しくなっちゃうでしょう? と鷲尾さんは笑う。


 けど、もしも弱らせちゃったり、枯らしちゃったりしたら。


 私なら落ち込んでしまう。申し訳なくて情けなくて、精神的にかなり引きずるだろう。植物は生き物であるから絶対に起きないとは言い切れないではないか。それがとても怖い。そして母もそういう性質の人間だ。親子だから分かるのだ。

「大丈夫だよ! 椿はみんな強いんだから。簡単簡単」

 しかし私は知っている。鷲尾さんはかなり難しいと言われている種類の薔薇ですら「あんなの簡単だよ」と言うのだ。鷲尾さんの「簡単」は信用できない。

「とにかく、お母さんに聞いてみな。お母さんが要らないって言ったらそれでいいから」

「そう……ですね。聞いてみます。本当にありがとうございます」

 そう答えながらも私には何となく分かっていた。今ここで断らなかったらもう結果は見えている。母は断らないだろう。親子だから分かる。母も私と同じく美しいものに弱いし強欲だ。こんなに美しいものを差し出されて突っぱねる事など出来ない。

たとえその結果、精神的に参ってしまう可能性があったとしても。

 案の定、母は椿を受け取った。

 そして、やはりというかなんというか、しばらくして母とのやり取りから椿の話題が途絶えた。花が咲いた時の写真は嬉しそうに送ってくれたというのに。もしも椿が順調に育っているなら私なら写真を撮って送る。鷲尾さんにぜひ伝えてね、と言う。絶対に言う。母もそうだろう。話題に出さないという事は何か問題が起きたのだ。それが申し訳なくて言い出せないのだ。親子だから分かる。

「お母さん、あの椿どうなった?」

 水を向けると途端に母から山のようにメッセージが送られてきた。

園芸書を買って読んで、その通りに肥料をやり、日に当て大事に育てていたが弱って来てしまった。貰った時からついていた蕾は咲いたが、来年は花が咲かないかもしれない。地植えにしたら元気になるのかもしれないが、弱っている時に植え替えたくない。どうしたらいいのか分からない。

 だいぶ煮詰まっていたようだ。半泣きになっている母の姿が目に浮かぶ。

「分かった、鷲尾さんに聞いてみるね」

 すぐに鷲尾さんから沙汰があった。丁寧な図入りの説明の画像と要点をまとめた文章が送られてきたので母に転送する。母はその内容にとても驚いたらしい。私は園芸には全く詳しくないので分からなかったのだが、どうやら常識では考えられないような内容だったようだ。

「本とは真逆の事も書いてあって驚いちゃった」

 母は半信半疑だったそうだが、こちらから尋ねたのだからと素直に鷲尾さんの指示に従った。するとすぐに結果が出た。弱っていた椿はみるみるうちに回復し、無事に母の庭に根付いたそうだ。母は大喜びで、鷲尾さんの手腕を絶賛している。

 良かった。

 母が喜んでいるなら何よりだ。母が鷲尾さんへのお礼にと送って来たハムやらベーコンやらを受け取りながら胸を撫で下ろす。ゴルとジルが興味を示す前に、さっさと鷲尾さんに届けてしまわなければ。

「鷲尾さんの言う事聞いておけば間違いないね」

 電話口の母の嬉しそうな声を聞いて、その通りだな、と心から思った。思った後でそんな自分にたじろいだ。


 なんだ、これ。


 鷲尾さんにはお世話になっている。何も酷い事はされていない。ゴルもジルもとても懐いているし、鷲尾さんは間違いなくいい人だ。鷲尾さんは私から何も奪わない。むしろ与えてくれるばかりだ。なのにどうしてだろう。知らないうちに何かを奪われているような焦りを感じる。

 美しい花、本来はただそれだけ、噛みついたりはしないし声も上げない。本来大した力を持たないはずだ。だが、美しさがほんの少し逸脱していれば魔性を帯びる。いとも簡単に人を落ち込ませもし、有頂天にもさせられる。そして気が付けば母は完全に鷲尾さんの心奉者だ。鷲尾さんが仏壇を買えとでも言えば買いそうだ。鷲尾さんはそんな事は言わないだろうけれど。

 いや、どうだろう。

 頭の片隅をあの謎の新聞紙がよぎる。あれだけで何かを決めつけることは出来ない。新興宗教の勧誘に植物を使うだなんて聞いたことがない。しかし、私が知らないだけで世の中にはそういった手法もあるのだろうか? 分からなくなってきた。そもそも私は一体何を不安がっているのだろうか。今までこんな風にご近所の方と親しくさせて貰った事がないから戸惑っているだけなのか。

 やっぱりちょっと怖いかもしれない。

 母は物理的に鷲尾さんとは離れているのでまだいいが、もしも私が同じように心を乱される事があれば抵抗出来ないのではなかろうか。

抵抗、何に?

 このような心配をしている時点で私に勝ち目などなかった。

 何に抗っているのか、何と闘っているのかも見定められないまま、私はそれからしばらくして大きな牡丹の鉢植えを鷲尾さんに頂くことになってしまった。


 母が送って来たお礼の品物と、ついでも私からも近所で購入した少し上等なコーヒー豆を鷲尾さんのお宅に届けに行った時のことだ。見た事もない珊瑚色の大きな花が目に入った。

 牡丹だ。

 黄味がかった淡い淡紅色の花びらの中心部だけが濃い臙脂色をしている。その黒に近い臙脂色の中に鮮やかな山吹色の雄しべが映える。子供の頭ほどもある重たげな大輪だ。

 例によって時を忘れて見惚れていると鷲尾さんが声をかけてきた。

「それ興味ある? お目が高いね。珍しいやつだよ。あげようか」


 出た、鷲尾さんの「あげようか」!


 鷲尾さんの知り合いが作った品種らしいが、その知り合いは新種の発表前に亡くなったため、残された枯れそうな一株を牡丹愛好家の仲間達でなんとか復活させ、増やしたうちの一つだと言う。

「こんな貴重なもの頂けませんよ」

 ガードするように身体の前に両手を上げて必死で首を振る。

「貴重でもないよ。うちでもう一株増やしてるしさ。水やりさえこまめにすればいいだけだから簡単だよ。肥料はやり方教えるし」

 鷲尾さんの「貴重でない」も「簡単」も絶対に信用してはならない。もう私は嫌というほど知っている。母はそれで一時期病んでしまったほどだ。

「無理です無理です。私は犬の世話も初心者で、手一杯で」

 その頃はちょうどゴルとジルが反抗期真っ盛りだった。車に乗って遠出すると、散歩から帰るのが嫌で車に乗ってくれない、二匹でじゃれ合い始めるとエスカレートして制止が利かなくなる、などの問題行動があり、トレーナーの竹田さんがアドバイスしてくれていても、死ぬほど大変だった。なるべく犬の世話以外の家事の負担を減らしたかった。

「じゃあ、分かった。貸してあげる。今度お母さんが遊びに来るって言ってたでしょ?お母さんに見せてあげなよ。それで、花の時期が終わったら返してよ。私も自分の家で育てるだけで、ほとんど人に見せられないから張り合いがないんだよね」

 そこまで言われてしまうと断りづらい。大輪の牡丹とマスク越しでも分かる満面の笑顔の鷲尾さんを交互に見る。牡丹はあまりにも美しい。目が吸い寄せられる。これを家でゆっくり眺められたとしたら至福の時だろう。きっと母も喜ぶ。

 結局、私は誘惑に負けた。その牡丹の鉢植えはうちの軒先に置かれることになった。

 私は鉢植えを恐れていた。その圧倒的な存在感、自然に傅きたくなるほどの美しさを。これは人から視線と時間を吸い上げる力を持っている。これにかまけて、うっかり他を蔑ろにしかねないのではないか、そう不安にさせる。仕事に穴を開けたらどうしよう。ゴルとジルの散歩がおろそかになったらどうしよう。それだけは避けたい。けれどもこの美しい牡丹をもしも弱らせるような事があれば私は物凄く落ち込んでしまいそうだ。

 何か特別な事があったわけではない。なんとなくハラハラしながら毎日水をやり、咲いたところを母に見せ、無事に咲き終わるまで世話しただけだ。

 だが、ありとあらゆる意味で心に負担を強いられた。普段の二倍は疲れた。


 もう無理、さっさと返してしまおう。


 そう決めたにもかかわらず、その牡丹はまだうちにあった。

 なぜか、何やかやと理由を付けて鷲尾さんが牡丹の返却に応じてくれないのだ。


「……というわけで、枯らしちゃうんじゃないかって気が気じゃないんですよ!」

 いつものように私は犬の散歩がてら近所の住設工務店に寄り、古人見さんと由美さんに不安をぶちまけた。

「もう花の時期も終わったのでお返ししますって言ったんですけど、そのまま持っててもいいよって。いや、こっちが良くないんですわ! 枯らしたら超へこむし」

 つい口調が砕けてしまう。園芸好きで強欲な母は「無理に返す必要なないのではないか」などと言うが、冗談ではない。

「ああ、分かる。分かりますよそれ! 私も母が死んだ後、母が大事にしてた薔薇枯らしちゃって、自分の駄目さ加減に落ち込みましたよ」

 古人見さんは本当にいつもお手本のように傾聴と共感を示して下さる。愚痴を聞いて頂いて申し訳ない。

 一方、由美さんは無表情だ。興味がないのか、反応に困っているのか分からないが無言である。これはこれで気が楽だ。この人は感情労働の類を一切しない人なのだ。我関せずと言った風にゴルを膝に座らせてゴルの腹を撫でまわしている。最近やんちゃになってきたとは言え、大好きな由美さんの前ではゴルもいい子にしているようだ。

「鷲尾さんも大型犬を飼ってらっしゃるんです。真っ黒で、ものすごくでかいやつ。運動量も多くて大変だと思うんですけど、救助犬のライセンス取らせるまでちゃんと躾けて、さらに植物の世話まで完璧、超人ですか?」

 鷲尾さんに比べて、私のなんと無能なことか。

「花束貰うたびにベステミアのお菓子でお返ししてますが、正直言って全然お返し出来てないと思うんですよ。なんだあの凄い花束は! 買ったらいくらするの?」

 言っていて自分が情けなくなってきた。

「黒い大型犬って、もしかして酒屋の近くかな?」

「いや、あそこがでかい犬飼ってたのは私らが学生の頃だからさすがにもう死んでるはずだよ。違うんじゃない?」

 頭を抱えて落ち込む私を他所に古人見さんと由美さんは雑談に興じている。

「ベステミアか、私いまだにあのお店たどり着けないんだよね。なんでだろ?」

「さあ、方向音痴だから?」

「違うよ。私以外にもたどり着けない人居るみたいだよ。ネットで見た。行く途中のお地蔵さんがやたらたくさんある場所がさ、なんか妙に分かりにくくて」

「あそこまでたどり着いたらあとは一本道なんだけどね」

「あのお地蔵さん群、怖くない? なんで全部信号の方を向いてるの? って、ああ、外岡さんごめんなさい。話が逸れちゃいましたね」

 ようやく古人見さんが私を振り返る。

「鷲尾さんって、どこに住んでらっしゃる人?」

 古人見さんは私に尋ねた後で、はっとした顔をした。

「あ、今のなし! こういうの聞くの良くないですね」

「気を付けなきゃ」

 由美さんが無表情のまま言う。

「うちってほら給湯器直しに行ったりするから、この辺りの人はだいたい知ってるの」

 そう言えば林さんのお宅の事も良くご存知だった。

「住設工務店あるあるですね。どこのお宅かパッと思いつかなかったから、つい。でもそんな事もあるよね。個人情報でした」

 私が答える前に質問自体を引っ込めてしまった。私も普通に答えようとしてしまっていたので苦笑する。職業上の配慮は大切だ。

「いえ、こちらこそ変なご相談ですみません。私がきっぱり断ればいいだけの話なんですよね」

「でも、それが難しい感じの人っているよ。いちいち指示出し多いって言うか、言う事聞かなきゃいけないような気にさせてくる感じの人」

 由美さんが独り言のように言う。まるで鷲尾さんを見た事があるかのような言い草だ。周りに似たような人が居るのかもしれない。

「鷲尾さんがどういう人か知りませんが、別にいいじゃないですか、所詮はただの植物ですよ。この世で唯一無二ってわけでもあるまいし。枯らしても向こうが押し付けてきたようなもんだって開き直っちゃえば? 外岡さんは悪い事してないし」

 由美さんが少し投げやりに言う。面倒臭そうな様子を隠さない。確かに我ながら面倒臭い相談をしている自覚はある。

「何言ってんの、そんな事出来るわけないでしょ!」

 しかし古人見さんは強い口調で言った。

「園芸好きな人にとってどうでもいい鉢植えなんかないはず。しかもそんな貴重な花……きっと大事なものなんだと思いますよ。もしも弱らせたら悲しませちゃうかも。外岡さんを信用して預けてくれたんだと思いますけど、その信用が重い! 分かる! 絶対に枯らしたくない! 早く返しちゃいたい」


 古人見さんは共感の達人か? 言いたい事を全部言ってくれた。


「よし、言うぞ。犬の世話で大変なのでお返しします! 枯らしちゃう前にお返しします!」

 自分を鼓舞するために少し大きめの声で繰り返した。

「外岡さん、頑張って!」

「気合いだよ、気合い」

「よし、断るぞ! 鉢植えを返すぞ!」

 古人見さんと由美さんに励まして貰い、ジルの散歩も終え、私は鼻息荒く帰宅した。もう外は真っ暗だ。

 犬の足を洗い、水を替え、餌をやり、勢いのままに鷲尾さんにメールした。ご在宅らしい。「鉢植えをお返しにあがります」とメールして、返事は見ずに散歩の格好のまま鉢植えを抱えて歩き出す。

 かなり重たい。小柄な鷲尾さんはこれを持ってうちまで歩いて来たので舐めてかかっていたが、とんだ重労働ではないか。鷲尾さん、すごいな。

 だが、それでも気持ちが逸っているせいかすぐに鷲尾さんの家に着いた。息が上がっている。

「こんばんは、夜分に申し訳ございません」

 鷲尾さんの家は月明かりに照らされていっそう美しい。白い薔薇が闇の中で光っているように見える。今は薔薇の時期ではないはずなのになんと見事に咲かせるのだろう。やはり鷲尾さんは凄い。

いけない、気持ちが飼いならされてしまいそうだ。ここの植物は本当に良くない。思い切って目を瞑った。

「どしたの、急に」

 鷲尾さんとゾネちゃんが奥から顔を出した。慌てて目を開けた。

「あ、あのっ!」

 息を整えながら鉢植えを差し出す。

「牡丹、本当にありがとうございました! 母も珍しいものが見られて喜んでいて……」

「えー、わざわざ持って来てくれたの? 悪いね」

 鷲尾さんは笑顔でそんな事を言うが、鉢植えを受け取ろうとはしない。

「水やりを忘れて枯らしてしまいそうで怖いのでお返しします」

「大丈夫大丈夫、二、三日忘れても意外と元気よ。真夏じゃなけりゃね」


 嘘でしょ、鷲尾さんも、ここまできてなんだって粘るの? 意味が分からん。


 それを言うなら何が何でも返したい私も意味が分からないと思われているのかもしれない。けれど嫌なのだ。どうしても嫌なのだ。今、心に余裕がない状態でこの重たい鉢植えを抱えていたくない。

「犬の世話もあって、私あんまり時間に余裕がなくて本当に心配で」

 言いながら、この理由はもちろん嘘ではないが、究極のところ理由など、どうでも良いのだと理解しつつあった。

 嫌なものは、嫌だ。これに尽きる。

 鷲尾さんは私に様々な指図をしてきた。もちろん強要されたわけではない。どれも心の底から嫌だったものはない。ないと思う。だが、どうだろう、本当は断れるならば断わりたかったものもあったのではないだろうか。あまりにも自然に命じられるまま(実際には命じたりはしていないわけだが、感覚としては命じられているようなものだった)従ってきたせいか、自分の正直な心さえもあやふやなのだ。支配されているような感覚が抜けない。これを続けていたら、いつか鷲尾さんに対してNoと言えなくなる日がやってくるのではないか。そんな気がするのだ。

 この一件で鷲尾さんとのせっかくの交流がふいになったとしても構うものか。どんなに素晴らしい贈り物ばかりくれる人でも、相手の拒絶を尊重出来ない人間とは上手くやっていけないだろう。

 鷲尾さんが何か理由があって私にこの鉢植えを託したいと思っているのだとしても、私に言わないのなら考慮するに値しない。よしんば伝えてこられたとしても、私には拒絶する権利がある。

「すみません……でも、とにかく、お返しします」

 鉢植えを支える腕が震えた。


 頼むから受け取って!


 鷲尾さんは私を一瞥してから、ふっと表情を緩めた。

「そっか、ならしょうがないね」


 良かった。


 ほっとして鉢植えを取り落としそうになり、慌ててそっと地面に置いた。

しかし、まだ戦いは終わっていなかった。

 しゃがんだ私の頭の上に鷲尾さんの明るい声が降って来た。

「でも、来てくれてちょうど良かった。さっき知り合いの養蜂家からミードが届いたんだよ。自社ブランドで売り出したやつだって。自信作らしいよ。いっぱいあるから何本か持って行ってよ」


 うっ!


 私はお酒が好きだ。ミードも大好きだ。鷲尾さんの知り合いの養蜂家の蜂蜜は以前に頂いた事があるが、とても美味しかった。それで作ったミードならどれほど美味しいだろう。

 だが、今は駄目だ。

 トレーナーの竹田さんに言われたのだ。仔犬のうちは、いつ動物病院へ連れて行く事態になるか分からないのだから飲酒はしない方が良いと。そして毎日早朝に散歩をするため、絶対に寝坊は出来ない。体調を崩すことも出来ない。飲酒は天敵だ。


 お酒は断った方が無難ですよ。少なくとも一年は。私も犬育ててた時はそうしてました。


 もともと晩酌の習慣はなかったが、ジルとゴルが来たその日からずっと禁酒していたので、それを続けている。実際、ジルとゴルの世話に追われて飲酒する余裕はなかった。試してみた事はないが、疲れていると酒が残る体質なので、もしも飲酒したら酷い目に遭ったことだろう。

 お酒は困る。貰ったら飲みたくなってしまう。


 だけど、くそ、なんて断りづらいんだ。


 鷲尾さんは傍若無人なように見えるが、この申し出は明らかに、こちらに気を遣ってくれている。

 私が鉢植えを返しに来ただけで終わりにすると気まずいだろう、と分かっているのだ。私も勢いに任せて鉢植えだけ持って来てしまった。ついでに何かお裾分けでもあれば良かったのだが、生憎と家に何もなかった。

 鷲尾さんは少し押しが強いだけで、優しい普通の人なのだ。

 このまま受け取ってしまえ、飲まずにそのまま誰かにあげてしまえばいい、感想を聞いて美味しかったと伝えればいい、なんなら一口だけ飲んであとは捨てたっていい。

 そう囁く己の声が聞こえる。

 そうしてしまえば、今この場は楽だろう。でも、それでは鉢植えの時と同じだ。また私は自ら気掛かりの種を抱える事になる。嘘を吐くのは嫌だ。一口だけと思っても、つい飲み過ぎて翌日に響くかもしれない。その時ちょうどジルやゴルが体調を崩したらどうするのだ。その葛藤、それ自体がもう負担なのだ。鷲尾さんが母に椿譲った時だってそうだった。私には分かっていたのだ、ああなることが。

 ちゃんと断ってさえいれば、それで済んだものを。


 もう、そういうのはうんざりだ。

 さっきも決めたじゃないか。


「凄く嬉しいのですが断酒をしておりまして」

「え、お酒好きって言ってなかった?」

「好きなんですけど、飲むと翌日起きられなくなってジルとゴルの散歩に行けなくなっちゃうから、犬を飼い始めてからは飲んでないんですよ」

「大丈夫でしょ! 度数高くないから」

「好きだけど、あまりお酒強くないんです。申し訳ありませんが」

「ええ、いいの? なかなか手に入らないやつだよ」

「勿体ないので、どうぞ他の方に」

 そう、ジルとゴルのためだ。そう決めると自然と心が落ち着いた。

 頑なな私を見て鷲尾さんは、はーっと大きなため息を吐いた。


 こ、怖い。


 土下座したくなる。

 頭を掻いてから鷲尾さんは諦めたように笑った。

「分かったよ」

「本当にすみません」

「そんな、謝らないでよ! 暗いから気を付けてね」

「はい、夜分に申し訳ありませんでした」

 家に帰るとどっと身体の力が抜けた。

 ジルとゴルがぶんぶん尻尾を振りながら突進してくるので抱きしめた。すべすべの銀色、耳の中の香ばしい臭い、落ち着く。

 

 終わったなあ。


 別れ際、鷲尾さんは大人な態度だったが、気分を害したに違いない。

 しかし、達成感と開放感がある。自由だ。私はやり遂げた。


 ちゃんと断って良かった。


 近所の人がくれるというものをお断りする、言葉にすればたったそれだけだが、たぶん私には必要な事だったのだ。


 私の予想に反して、鷲尾さんの交流はその後も何事もなかったかのように続いた。

 考えてみれば、あれしきの事で疎遠になるわけもなかった。私が勝手に思い詰めてしまっただけなのだ。鷲尾さんのような押しの強いタイプの人間とあまり関わってこなかったせいかもしれない。

 このままでは鷲尾さんから完全に支配されてしまうような危機感を覚えていたが、人付き合いの距離感の違いが生んだ錯覚だったのだろう。

 私が危惧していたような事は何も起こらなかった。新興宗教に勧誘されることも、例の様子のおかしい新聞を無理やり取らされることもなかった。

 母もあれから植物に振り回されて情緒不安定になることはなく、普通に過ごしている。変わった事と言えば、実家からの荷物に鷲尾さんへのお返しがたまに同梱されるようになったことくらいだ。

 鷲尾さんは懲りずに隙あらば私に植物の鉢植えを与えようとするが、難しそうなものはお断りし、世話が簡単そうなものは貰って、出来る範囲で大切に育てている。庭の紫陽花やクリスマスローズは鷲尾さんに頂いたものだ。かなり押しが強い事もあるが、こういう人なのだ、と思うことにした。一回断ってしまえば、さほど気負わずに対応する事が出来た。

 ジルとゴルの反抗期も落ち着き、植物を育てる余裕が生まれ、鷲尾さんの影響で私も園芸が好きになりつつある。

 影響を受けたと言えば、私もノーブラの日が圧倒的に増えた。

 今までは基本的にはちゃんと付け、たまにサボる、というスタイルだったが、ノーブラでも大丈夫ならなるべくノーブラ、になった。いったんこれに慣れてしまうともう戻れない。今までどうしてあんな窮屈なものを頑張って付けていたのか。もちろん体型によっては付けた方が楽な人も居るのだろうが、私は胸が大きくないので付けない方が圧倒的に楽なのだ。いろいろな意味で息がしやすくなった。


 梅雨入り前の晴れた土曜日、鷲尾さんが花束と美味しい果物を持って来てくれた。

 私はジャージ姿で出迎える。もちろんノーブラだ。

「わあ、ありがとうございます! いつ見ても素晴らしい花束ですね」

「明日雨の予報だから、庭に咲かせておいてもどうせ駄目になっちゃうしね。涼しいところに飾って」

「ジルとゴルと遊んで行きますよね?」

「もちろん。おー、よしよし、いい子ちゃん達、あらゴル、タマタマ取ったところ、綺麗に治って良かったね」

「おかげさまで」

 ゴルは先日、鷲尾さんに紹介して貰った動物病院で去勢手術を済ませたばかりだった。幸いトラブルもなくゴルは元気にしている。

「お、でもここ触ると腰が動いちゃうんだね、男だね! はっは、ごめんね」

 鷲尾さんは相変わらずあけすけだ。鷲尾さんの膝の上でゴルがもぞもぞし始める。

「去勢した後どう? 散歩中のマーキングしなくなる子もいるよね」

「いや、ゴルはマーキングしまくりますね」

「へえ」

「去勢したのにオスの悦びに目覚めてしまったようで」

 言った後で、しまった、と思った。少し下品な発言だった。鷲尾さんがあけすけなので、つい気が緩んだ。

 口を押えながら鷲尾さんを見ると、見た事もないような満面の笑顔で私を見ている。物凄く嬉しそうだ。あまりにも嬉しそうなので少し邪悪に見える。

「いいね」

 言って鷲尾さんは、ますます笑みを深める。一体何に対する、いいね、なのだろう。うっかり崖の縁に近付いたような感覚に襲われる。


 あれ、なんか、やばい。


 だが、ゴルとジルが今度は私に向かって突進してきたので、本能的な危機感は一瞬にして霧散した。

「わ、どうしたの」

 客人が来て興奮すると勢い余って飼い主にも飛びついてくることがある。

「元気なのはいいことだよ。性格変わって大人しくなっちゃう子もいるからね」

 鷲尾さんは先ほどまでの邪悪な雰囲気が嘘のように朗らかに言った。


 鷲尾さんは出会った日と同じく、今日も黒ずくめだ。

 年齢不詳の若々しい顔で、笑っている。

 紙袋の中には例の謎の新聞が覗く。

 黒いヤギの頭、男性の上半身、ヤギの下半身の図案が印刷されているのが見えた。


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月寝市の女達 八鼓火/七川 琴 @Hachikobi

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