月寝市の女達

八鼓火/七川 琴

第1話 高台の女

 私が仕事の都合で、この海沿いの田舎町に越してきたのは四年前だ。最寄りの高速のインターを降りると崖沿いを走る道に出た。眼下には真っ青な海が広がり、沖合には漁船が見えた。初めてここにやって来た時気分が高揚したのを、よく覚えている。

 ここ月寝市は山間部と海岸線に挟まれ、とにかく坂が多い。崖も多い。そのせいか、転落事故がやたらと多い。細い道や一方通行も多い。田舎とはいえ通勤通学の時間帯には国道が渋滞するので、出来れば自転車通勤をしたかったのだが早々に諦めた。

 職場の近くに引っ越すかどうするか迷っているうちに二年経ち、三年経ち、気が付けばもう四年もこの街に住んでいる。転勤に備えて、いつまでも賃貸アパートに住んでいるのが馬鹿らしくなり職場の徒歩圏内に住まいを購入することにした。

 私は犬を飼いたかった。ずっと犬を飼いたいと思って生きてきたが、仕事や忙しさを理由に諦めていた。定年後に犬と暮らせたら、などと思っていたけれど、これからの住まいや生活について、あれこれ考えを巡らせるうちに定年後に今より暇になる保証などどこにもないのだと気が付いた。

 先のことは誰にも分からない。それどころか、その前に人生が終わってしまう可能性もある。やりたい事はやれる時にやるべきだ。犬を飼うぞ。私は犬を飼う。犬と一緒に住む。そう決めた。

 となれば家探しだ。

 この辺りにはペット可のマンションも多いが、大型犬の場合にはトラブルになりやすいと聞くし、海と山の間の狭い土地に工場がひしめき合う月寝市では駐車場が慢性的に不足しており、「駐車場付き」と記載があっても蓋を開けてみれば徒歩五分のパーキングを使わなければならない、なんてこともある。せっかく田舎に住んでいるのに、そんな不便は御免だ。

 一人暮らしだが思い切って中古の一軒家を買った。二階建ての木造だ。職場まで徒歩圏内、というのが最大の決め手だった。犬を飼うために多少リフォームはしたが、元が安いのでそれでも予算内に収まった。女性の一人暮らしで一軒家は不用心か、と少し考えたが、犬と暮らすのだし神経質になり過ぎても良くない。

 隣近所は古くからの住人ばかりのようだ。町内会長は年配の男性だった。私の家の二軒先に夫婦で住んでおり、たまに娘夫婦が子供達を連れて遊びに来ている様子だ。ゴミ捨て場の掃除当番や防犯灯の管理費の件で挨拶に伺った際、世間話のついでにこんな話を聞いた。

「あそこの角のお宅、玄関先のお花が綺麗なとこ、分かりますかね。そこの林さんは、ヤクザさんの二号さんでね」

 町内会のメンバー紹介のために持って来てくれた地図を指差しながら町内会長は言った。町内会長の言葉に私はぎょっとした。

 林さんは六十代前後の女性だ。いつも見ても、きちんとした身なりをしており、フワフワした茶色い犬(アプリコットのラブラドゥードルのミドリちゃんだ)を連れ、よく道路の掃き掃除をしている。目が合うと、はきはきとした声で挨拶をしてくれるので、つい背筋が伸びる。

 町内会長の言う「ヤクザさん」とは私の家から数ブロック先、大きな道路を挟んだ東側の運転代行業の事務所である。

 ほとんど窓のないその建物は指定暴力団員の持ち物だと不動産屋から聞いていた。使ったことのある代行業者だったので驚いた。「今は真面目に代行業をしているらしいですよ」と不動産屋は言っていたが、安心させるためのセールストークかもしれない。

 その事務所の向かいは高台で、擁壁を割るようにして作られた長い階段を上った先に林さんのお宅はあった。凌霄花やモッコウバラの咲き乱れる玄関先が美しいので、引っ越して間もない私でもすぐに「ああ、あの家か」と思い当たった。

 私がぎょっとしたのは林さんと暴力団員との関係に驚いたからではない。

 そんな思いっきりプライベートな事を普通に私に言っちゃうんだ。それって、いいの? この距離感ってこの辺では当たり前なの? ちょっと怖いな。

 戸惑う私に気付くことなく町内会長は続けた。

「でもね、まあ普通の人ですよ。むしろ普通より丁寧でちゃんとしてる感じでね。挨拶もしてくれるし」

 などと言いながら笑っている。

 それなら、そんなこと別にわざわざ教えてくれなくても良かったのに。

 綺麗に髪をまとめた林さんの、すらりとした後姿を思い出す。

私が林さんだったらどう思うだろうか、そんな事を言い触らされたいだろうか。もちろん言い触らされたくはない。しかし変に興味を持たれて探られたりするのは、もっと嫌だ。女性が一軒家に一人暮らしというだけで奇異な目で見る人は居る。その点は私も林さんも同じだ。それなら最初から誰かに噂話として耳に入れておいて貰った方がまだまし、という気もする。

 いや、でも暴力団関係者はまた別かな?

 なにせ不動産屋に告知義務まであるのだ。ご近所さんとして当然知っておきたいともう人も居るのだろうか。居てもおかしくはない。もしかして戸惑う私がおかしいのか。分からなくなってきた。

 しかし、この調子だと、すぐに私の勤め先から何から何までご近所に知れ渡るのだろう。それだけは確かだ。無意識に自分の心配をして居心地が悪くなっただけかもしれない。

良いか悪いかは別として、家を建てて地方に定住するというのはきっとこういう事なのだ。幸い今のところ、ご近所トラブルは一切なく平和である。


 そんなこんなで家を手に入れて迎え入れたのは二匹のワイマラナーだ。本当は別の犬種を考えていたのだが、犬舎で売れ残っている仔犬が居ると聞き、ついそちらを覗いてしまった。犬達と目が合った。目が合ったらもう駄目だった。その場で決めた。

分離不安になりやすい犬種だと聞いたので、私が働きに出ている間も寂しくないよう二匹まとめて引き取った。琥珀色の目の雄とブルーグレーの目の雌だ。雄にゴル、雌にジルと名付けた。

 賢く気立ての良い犬達だったが、大型犬なので運動量が多い。まだ若いので他の犬やカラス、猫などに反応して急にリードを引っ張ることがあり、一匹ずつしか散歩は出来ない。そうなると時間的制約から平日は運動させるにしても限りがあった。

 市内にはいくつかのドッグランがあるが、犬を飼っている人が多い街なので、大抵は先客が居る。ドッグランでのトラブルの多さについては世話になっているドッグトレーナーからよくよく言い聞かされていた。かみ殺されてしまう小型犬なども居るらしい。初対面の他の犬と喧嘩になったら目も当てられない。ジルの方は気性が荒いのだ。

 運動させて犬のストレスを発散させるために、ひと気のない早朝に広い場所でロングリードを付けて犬を走らせたりもしているが、いつジョギング中の人が現れるかと気が気でない。人懐っこいので遊びたがってそちらへ走って行ってしまう可能性がある。また、ゴルもジルも脚が長いのでロングリードがすぐに絡まってしまう。ゴルは一度それで転んだ。幸い怪我はしなかったが心配だ。

「はあ」

 ため息を吐きながら朝の散歩に出かけた。晩秋の今、この時間帯はまだ薄暗いが空は晴れており冷えた空気が心地良い。

ゴルは工場の前の道でいつものように塀と塀の隙間に鼻先を突っ込んで尻尾を振る。一体何に興味を惹かれているのか分からないのだが、楽しそうなので好きなようにさせている。しばらくすると戻って来ておもむろに排便する。そして私がホカホカのそれをゴミ袋で掴んで処理する。

 大型犬の便の量は多い。ごみ袋で回収するのだが、女性の手のサイズでは掴むのに少し苦労するほどに。麻雀牌を積むのが得意な人は、これも得意だろうな、といつもなんとなく思う。硬さはいつも通り、快便だ。どっしりと重い袋の口を縛って散歩用のバッグに入れる。

 芝生のグランドに連れてゆき、猫や他の犬や人が居ないタイミングを見計らって、少しフリスビーで遊んでやる。

 私がフリスビーを投げると咥えて持って来てくれるが、なかなか渡してくれない。フリスビーを投げて欲しいという気持ちと、このまま引っ張りっこをしたいこという気持ちがゴルの心の中でせめぎ合っているのだ。フリスビーを斜めに傾けたり押したり引いたりして、なんとか奪ってまた投げる。ゴルはそれを追いかけて走りだす。するとまたゴルは嬉しそうにフリスビーを持って来る。これを何回か繰り返して、飽きる寸前を見計らって終わりにする。散歩が終ると真冬でも汗だくになっている。

 帰ったらゴルの足を洗ってから拭いて、今度はジルの番だ。玄関ドアを開けるとジルが期待に目を輝かせて私を待ち構えていた。散歩が大好きなのだ。

 これを朝夕二回、つまり一日四回、毎日平均で十キロ以上は歩いている。

 犬を飼い始めてから、かなり痩せた。血液検査の結果はとてつもない勢いで改善され健康になった。健康になったとは言っても、最近は疲れが溜まっているので、肉体的にかなりきつい。人間の私がぐったりしていてもゴルとジルにはまだまだ元気が有り余っているようだ。当然と言えば当然である。若いワイマラナーの体力は底なしだ。人間よりもはるかにタフでアクティブなのに、私一人で二匹分の運動に付き合わなければいけない。

 どこか広い、誰も居ない場所で、二匹で追いかけっこが出来たらいいのに。

 そうすれば飼い主は見守っているだけでよく、あとは犬達が勝手に走り回ってくれるだろう。だが、たとえいつも空いていて貸し切り状態のドッグランがあったとしても、大抵のドッグランには「飼い主一人につき犬一匹まで」というルールがあるので難しい。付き添ってくれる知り合いや友人が居ないわけではないが、そう頻繁には誘えないし、予定を合わせるのも大変だ。

 幸い自宅の一階部分は広く、庭もあるので駆け回らせることが出来るのだが、それでも家具や壁にぶつかって怪我をするのではないかと、はらはらしてしまう。

 狭い場所での追いかけっこもそれはそれで楽しいようで、いつも白熱したレースを繰り広げているし、息を切らして疲れて寝てしまったりもするので、運動が足りなくてストレスが溜まっているというほどではないだろう。しかし、やはり広い場所で遊ばせてやるにこしたことはない。

 運動が足りないと寝付けなくて夜鳴きしたりするんだよなあ。

 犬を撫でるのは至福の時間だが、夜中に起こされるのは勤め人には辛い。

 私が富豪なら土地買ってランを作るね。屋根付きのやつ。夏も使えるように冷暖房完備で。それって、もはや体育館?

 そんな事をつらつらと考えながらジルと連れて帰って来ると、リードを引っ張られた。林さんの家の前だ。門の奥の階段にミドリちゃんが居る。遊びたいのだろう、ジルが尻尾をぶんぶん振りながら頭を低くして、林さんの家の門扉に鼻先を突っ込もうとしている。

 ジルは運動能力が高く、利発で勝気だ。雌なので体格はゴルと比べると小さいが、序列は絶対的にジルが上である。つまり生まれてから一度も他の犬と競り合って負けたことがないのである。そのせいか、どの犬にも勝てると思っている節があり、腕試しをしたくて仕方がない。

 慌ててリードを引いた。遊びたいだけなのは分かっているのだが、勝ち負けのつく類の遊びを誰彼構わず仕掛けるのは飼い主としては本当にやめて欲しい。本気の喧嘩に発展することもあるからだ。犬によっては尻を嗅ぎ合って挨拶が出来る場合もあるのだが、雌犬同士ではほとんど出来たことがない。

 ジルを叱り、座らせる。

「あら、いい子ちゃんね! ジルちゃんの方よね?」

 後ろから声をかけられた。林さんだ。植物に水を撒いている。

 いい子ちゃん、ではない。ジルがミドリちゃんに喧嘩を売っている様子を林さんに見られてしまった。ばつが悪い。

「あ、おはようございます。そうです。ジルの方で。すみません、毎日」

 林さんはほぼ初対面の頃からジルとゴルを正確に見分けることが出来た。これはなかなか凄い事だ。大抵の人はジルとゴルを初見では区別できない。

「いいのよ! ミドリも刺激があっていいみたい」

 ミドリちゃんは吠えもせず、ゆっくりと尻尾を振っている。落ち着いたものだ。

 先程座らせたはずのジルは堪え性なくもう立ち上がってしまって、また鼻息荒く門の柵の間にマズルをねじ込んでいる。ジルやゴルも少しはミドリちゃんを見習って欲しい。

 その時、突然ジルがその場で座り込んだ。

 嘘!? オシッコしてる!

 綺麗に掃き清められた林さんの玄関の真ん前にジルの尿がじわっと広がる。つい先程グランド脇の草むらで排尿したばかりなので完全に油断していた。

「重ね重ね本当にすみません!」

 心の中で悲鳴を上げながら、慌てて頭を下げる。

「いいの、いいの! 犬はオシッコするもんよ。気にしなくていいのよ!」

 林さんは明るく笑いながら言ってくれたが、冷汗が止まらない。

 林さんは、なんというか、とても、きちんとしている人だ。

 早朝のお散歩であっても、いつも必ず化粧をして、髪を結っている。だらしない恰好どころか、Tシャツ姿すら見た事がない。「どうせ汗だくになるのだから」と起きてから顔も洗わず髪も梳かさず、マスクだけつけて、下手すると冬はブラジャーすらせずに散歩に出かける私とは大違いだ。

 夏になれば頻繁に雑草をゴミとして出しているのを見かけるし、それだけこまめに草むしりや道の掃除をしているのだろう。私が犬の下痢便を片付けていて仕事に十分ほど遅れた日には「あら? もしかして今日は寝坊?」と声を掛けられ、あまりにも正確に私の通勤時間が把握されているのに驚いた事がある。

 他意はないと思うが、他人の粗相に対しておおらかな方であるとは、とても思えない。いや、林さんは全く悪くはないのだが。

 これ実はすっごい怒ってる可能性があるやつだ。

 私が平身低頭している間にまたジルがミドリちゃんにちょっかいを出そうとしている。

「わ、こら!」

 きちんと謝罪する余裕すらない。今度菓子折りでも持って来よう。犬抜きで。

「ミドリちゃん、いつも優しくしてくれて、ありがとうね。林さん、毎朝すみません、それでは。ほら、ジル、行くよ!」

「それじゃあ、ジルちゃん、またね」

 手を振って階段を上り始めた林さんにミドリちゃんがひょこひょことついて行く。林さんはミドリちゃんが追い付くのを、立ち止まって見守っている。

 ミドリちゃんは決して小さい犬ではない。スタンダードプードルもラブラドールレトリバーも大型犬と言っていいサイズなので、そのミックスであるミドリちゃんもそれなりに大きい。本来であればこの程度の階段は苦にならないはずだ。足腰が弱ってきているのかもしれない。

「ミドリももう十一歳だしね。階段はちょっときついね」

 林さんは優しい顔で笑った。言うまでもない事だが犬は人間よりも先に老いて、死ぬ。ミドリちゃんはいずれ、あの階段を上ることは出来なくなる。病院に連れて行くにしても、長い階段をミドリちゃんを抱いた状態で行き来するのは大変だ。

 うちも全然他人事じゃないな。

 二匹も居る上に小柄な方のジルでさえミドリちゃんよりも大きい。そしてワイマラナーの平均寿命はラブラドゥードルよりも短いはずだ。犬を飼い始めてから、それこそ、ゴルとジルが小さな仔犬の頃からずっと、私が老犬介護のことを考えない日はない。

 林さんもそうだろうか。

 聞いてみたい気もしたが、先程ジルを玄関先で排尿させてしてしまった気まずさもあって、どうやって尋ねるべきか咄嗟に思いつかず、結局そのまま会釈をして家に帰った。


 仕事を終えて家に帰ると、この時期はもう真っ暗だ。何もかも後回しにしてまずは散歩へ向かう。トイレの躾は二匹とも完璧だが、雄のゴルの方はやはり出来れば外で排泄を済ませたいようで、トイレを我慢することがあるからだ。

 夕方の散歩では大抵いつも近所の住設工事の事務所に寄ることになっており、今日も元気にゴルは事務所に突撃した。

「待ってたよ、ゴルちゃん! 今日もほんとに可愛いねえ、ちょっと待ってね」

 すぐにエプロン姿の女性が出て来てくれた。彼女は古人見さんという。事務所に常駐している職員だ。小柄な古人見さんはびくともせずにゴルの巨体を受け止める。エプロンのポケットに突っ込まれた事務所の電話の子機にいつも申し訳ない気持ちになる。

「お仕事中にすみません」

「いやいや、こちらこそ! 日々の癒しですから。触らせて貰っちゃってありがとうって言うかね! 無理な時は無理って言うから外岡さんは気にしないで」

 ちなみに外岡というのは私の名前だ。

「ゴルちゃん、そこには何にもないよ」

 ゴルが古人見さんのスカートに鼻先を突っ込んでいる。

「ちょ、ちょ、コラ!」

「いいの、いいの! 平気だよ」

 古人見さんがしゃがむと、ゴルはすぐに彼女の顔をべろべろと舐め始める。

去年の春、散歩中の私とゴルに古人見さんが声を掛けてくれた時からこの交流は続いている。事務所から大声で呼びかけられた時は驚いた。古人見さん自身も大型犬をずっと飼っていたが、数年前に死んだらしく、大型犬との触れ合いに飢えている、と言っていた。私が事務所の前を銀色の大きな犬を連れて何度も通るので気になっていたらしい。

 大型犬を飼い主以外の他人に撫でて貰うというのは、飼い主としては実はかなり神経質になってしまう行為だ。相手は大人しくしている犬の頭をただ撫でてみたいだけなのかもしれないが、普段は落ち着いた犬ですら、何かの拍子にはしゃいで飛びついてしまうかもしれない。犬に悪気はなくとも三十キロ以上の巨体で飛びつかれたら小柄な人は転んでしまう可能性もある。相手がどんな人間か分からない以上、最悪訴訟も覚悟しなければならない。

 だが、躾のことを考えると飼い主以外の人間に犬を慣れさせておくというのはとても大切なことだ。災害が起きれば避難所で飼い主以外の大勢の人間と接することになる。その時に怯えてストレスを感じるようでは犬にとって良くないからだ。万が一遁走した場合にも、飼い主以外の人間を怖がって遠ざかってしまうようでは困る。

 つまり安心して犬を触って貰える他人と言うのは本当にありがたい存在なのだ。

 というわけで、勤務時間中に申し訳ないとは思いつつも甘えさせて頂いている。というか、ジルもゴルも古人見さんに撫でて貰うのを楽しみにするようになってしまっており、飼い主を事務所の入り口までぐいぐい強引に引っ張って行き、ガラス扉を前足で押して古人見さんを呼ぶようになってしまった。迷惑だろうという自覚はあるので、定期的にお礼の菓子折りを持って行くなどしている。

「今日はもうすぐ由美さんも来るよ。さっきLINEが来たし」

「あ、そうなんですね」

 来てよかった。

 由美さんはここの事務所の職員ではないが、住設工事を請け負っている作業員で事務所によく出入りをしている女性だ。古人見さんが私に初めて声をかけてくれた時もちょうどこの事務所に仕事で来ており、古人見さんと共にこの事務所でジルとゴルを撫でてくれるのだ。由美さんのフルネームは佐藤由美さんというのだが、この事務所には「佐藤」という苗字の人が他に三人ほど出入りしているらしく皆に「由美さん」と呼ばれており、私もそれに倣っている。

 由美さんはちょっとびっくりするぐらい犬が好きだ。犬を飼っていたことはないらしいが、犬のことをよく調べてジルやゴルにオヤツやおもちゃをくれる。

「あ、噂をすれば来たね」

 軽トラが一台事務所の駐車場に入って来た。緑色の作業服を着た白髪の女性がいそいそと出て来て、ばっと両手を広げて仁王立ちになる。由美さんだ。

「ゴルちゃん! おいで!」

 ゴルはダッと駆け出して後ろ足で立ち上がると由美さんの両肩に前足を掛けた。由美さんはゴルとしばらくハグをしてからようやく、リードを握っている私に目を向ける。

「どうも! お疲れ様です」

「お疲れ様です」

 由美さんが事務所の玄関先の階段に腰掛けると、待っていましたと言わんばかりにゴルが由美さんの膝に尻をのせる。ゴルは人の膝に乗るのが好きだ。

 由美さんは無表情だが、とても嬉しそうだ。ゴルの尻や背中を撫でながら、ゴルに「お尻をのっけて満足? 満足か、そっかそっか」などと話しかけている。

 膝に尻を乗せているだけでもゴルは重い。女性の力ではとても抱き上げられないという話から、老犬介護の話、そして今朝のミドリちゃんの様子の話になった。

「そうだよね、ミドリちゃん、実は結構もうおばあちゃんなんだよね。階段は辛いか。あの階段は人間でも大変だもん」

 古人見さんが嘆息する。古人見さんは林さんとも顔見知りだ。住設工務店なので仕事で何度かお宅にも伺ったことがあるらしい。

「年齢には勝てないよ」

 うんうん、と由美さんと頷き合っている。

「私らなんかさ、いっつもお互いに『大丈夫? 大丈夫?』って言い合ってるよね」

「もう挨拶だよね、この歳になるとどっかしら調子悪いし、腰とか目とか」

 由美さんも古人見さんも還暦が近いらしい。話していると若々しいのでつい年齢のことは忘れてしまうが。

「しかし、外岡さんは、もう老犬介護のこと考えてるんだね」

「ぼんやりとは、あんまり具体的な事は考えられてませんけど」

「こないだテレビで老犬介護の特集やってたよ」

 由美さんがゴルに耳を舐められながら言う。

「あ、それ録画しました」

 私が老犬介護の事を気にしていると知った母が教えてくれたのだ。

「私も介護したことあるけど、ほんと犬によっていろいろだよね……無理のない範囲でやるしかないって感じ。あんまり気負わないでね」

 古人見さんが言う。

「ですよね」

「けど、大型犬は間違いなく大変」

 由美さんはきっぱりと言い切った。

 そうだよなあ。

 思わず俯いてしまう。私の様子に古人見さんの方がなぜか慌てて慰めるように続けた。

「まだ先だろうけど、介護のためとかで工事が必要なら言って下さい。住設屋なんてなんでも屋ですから。家のことならだいたい相談に乗れますよ。『こんなこと相談していいの? 迷惑じゃない?』なんて考えなくていいので気軽に。ゴルとジルのためなら頑張ります」

「何でも言って下さい」

 由美さんも真顔で言う。実に頼もしい。ありがたい話だ。


 帰宅し、自分の食事やら洗濯物の取り込みやら、なんやかやと細々した家事を済ませて、ソファーに座る。正確にはソファーではない。居間に置いているスチール製のパイプベッドだ。普通のソファーはジルとゴルにスポンジを食い荒らされてボロボロになってしまったので、代わりにこれを置いた。大型犬二匹と人一人が一緒に寝そべることが出来るので重宝している。

 ゴルとジルが私の股間や脇の下に鼻先を突っ込んでくる。散歩の後で着替えたが、やはり汗臭いのだろう。そういう場所を好んで嗅ぐのはやめて欲しい気もするが、お互い様だ。私もゴルとジルの耳の中をついつい嗅いでしまう。

「いい匂いだね、可愛いね、チューしちゃお。はー、可愛い」

 自宅で犬と触れ合う時はいつも、他人に聞かれたら死ぬしかない台詞ばかり言ってしまうが、きっと世の中の飼い主たちは皆そうだろう。そのはずだ。

 一通り飼い主を嗅いで満足したゴルは私の腹に尻を押し付けるようにして丸く寝そべる。ジルは耳を掻いて欲しいのか、私の手に頭を押し付けて来る。撫でてやると、ジルはうっとりする。そう犬はうっとりした顔をするのである。この世で犬のうっとりした顔以上に可愛いものはない。出来ればずっとこうしていたい。しかしもうすぐ仕事の関係で試験を受けなければならないので断腸の思いで起き上がり、PCの電源を入れて試験勉強を始めた。

 ゴルとジルはしばらく机に向かう私の足元をうろついていたが、やがて二匹で追いかけっこを始めた。おもちゃを渡すとさらにヒートアップして家の中を凄まじいスピードで駆け回っている。

 家の一階は玄関とパントリー、土間、ジルとゴルの部屋(庭に面した和室を改装)、キッチン、広いリビングダイニングで構成されている。居間の中央にテーブルとソファーを置き、壁沿いに私の仕事机を配置した。二階には私の寝室と浴室や洗濯スペースがある。

 庭に面した掃き出しサッシを開け放ってしまえば、ジルとゴルの部屋とリビング、庭は一続きになり、それなりに広いスペースになるが、寒い時期に窓を開けたままでいると、人間が風邪をひく。今の時期はもう厳しい。だが窓を閉めて犬だけを庭に出すのは、なんとなく心配だ。その気になればこの犬達は出入口の木戸などいとも簡単に破壊することが出来る。目を離した隙に庭に大きな穴を掘って、顔を土塗れにしていたこともある。

 つまり庭があるとは言っても現実的にはフル活用はなかなか難しいのである。そもそも、それなりに広い、とは言っても一般家庭の庭でしかないので、大型犬にとっては狭い。

 介護も大変だろうけど、若いうちにちゃんと運動させるのも大変なんだよなあ。適切な運動習慣が健康の維持に大切なのは人間も犬もさして変わらないだろうし。

 ああ、五億くらい欲しい。貸し切りドッグラン作りたい。宝くじに当たりたい。

 最近はこんなことばかり考えている気がする。溜息が出た。勉強に身が入らない。その時、アラーム音に気が付いた。洗濯機が運転終了したようだ。洗濯物を干すために勉強を中断して立ち上がり二階へ向かう。

 すると走り回っていたジルとゴルが、気が付いて駆けよって来た。追いかけっこ中の興奮と勢いに任せて私を押しのけて階段を駆け上って行く。

「うあ、コラ! 待ちなさい!」

 階段の手前にはドアがあり、二階には犬は入れない事にしているのだが、隙を突かれた。疲れているとたまにやられてしまう。ゴルとジルは二階の私のベッドの上に乗るのが好きなのだ。案の定二匹で私のベッドの上に陣取っている。ゴルとジルがまだ仔犬の頃、私のベッドの上で粗相をしたことがあり、マットレスを買い替えるはめになった。トイレ躾が出来た今も少し怖い。その時は毛布も破かれた。毛布だけならまだしも、だんだんと寒くなってきた今の時期に羽毛布団を破かれたら私は泣く。

「駄目駄目、駄目よ。降りて、はい」

 犬をベッドから降ろすためにベッドの上に膝立ちになって、ふと違和感を覚えた。

 二階は天井が低く、屋根の傾斜がそのまま天井の傾斜になっている。ベッドの上は特に低く簡単に天井に手が届く。ベッドの上の天井には天窓や扉の類はなかったはずだ。つい昨日までは。そのはずなのだが。

「なん……これ?」

 床下収納の扉を大きくしたようなものがベッドの真上の天井にある。人が通れるほどのサイズだ。天井と同じ白色の塗装がなされ、銀色の手掛けが付いている。

 勉強で疲れて見間違ったのかもしれないと思い、目頭、目尻を揉んでぎゅっと目を閉じてからもう一度目を開けた。それでもまだ扉は目の前にある。

「なに、え、なに?」

 背筋が寒くなった。

「いやいやいや、こわ! なんで? まじ、なに? はあ?」

 狼狽える私を見てただ事でないと悟ったのか、ジルとゴルはベッドから大人しく降りて私を見守っている。

 落ち着け、私。

 深呼吸をしてみる。

 この家に越して来てからすぐに二匹の犬を迎え入れた。仔犬のうちはゴルとジルは本当にやんちゃで、形あるものは全て壊された、と言っても過言ではない。犬部屋の窓の桟も扉もボロボロになった。さらにゴルとジルは下痢をしがちでもあり、私は家の掃除と修理、犬のトイレ躾に追われ、大変にハードな生活を送っていたのだ。正直言ってその頃の記憶は曖昧だ。大変過ぎて。普通なら住み始めてすぐに家の細かな部分を把握するのだと思うが、生活に使う部分以外は詳しく検分する余裕などなかった。

 ジルとゴルが大人になり、下痢も治り、ようやく人間らしい生活が出来るようになったのがここ最近である。心にゆとりが出来て、ある日突然今まで見過ごしていた天井の扉に気が付くこともあるだろう。

 私は元々あまり注意深い人間ではない。特に犬を飼い始めてからは体力的にギリギリの生活をしているので、髪の毛を洗ったのを忘れてもう一回洗ってしまったり、絹さやの筋ではなくて食べる部分を捨ててしまったりなど、しょっちゅうだ。だいぶぼんやりしているのだ。信用ならない。己の信用ならなさには自信がある。

「まあ、そういうこともあるよね。うん、あるある」

 毎日この天井を見ていたような気がするのだが、人間は見ているようで案外ものをよく見ていないものだ。つい夜寝る前にだらだらとスマートフォンを弄ってしまうし、疲れた目では見過ごすこともあるかもしれない。朝も起きたらすぐに散歩の準備を始めるので、ゆっくり天井を眺める暇はない。つまり今までしっかり見ていなかったのだ。きっとそうだ。

 そんな非現実的な事がそうそうあってたまるか。突然天井に扉が出現するなんてファンタジー小説じゃあるまいし。

 たぶんメンテナンスのために天井に出られるようになってるんだ。

 開けたら空が見えるのかな。屋根の上に上るのはちょっと怖いから無理だけど、今日は晴れているし星とか見えたら素敵だな。

 確認も兼ねて軽い気持ちで扉を開けた。

 これが良くなった。

「ぎゃ!? こ、こら!」

 扉を開けた瞬間に、脇で大人しくしていたはずのゴルとジルがベッドを蹴って私を押しのけ扉の外に飛び出していった。

 すごいジャンプ力、ワイマラナーは運動神経が良い……ってそうじゃない! ああ、またやっちゃった。疲れてる時はこれだから!

「うそうそ、やだ、どうしよ」

 その時、私の頭にあったのは開けた空間に興奮したジルとゴルが屋根から落ちて怪我をするのではないか、という事だけだった。無我夢中で扉から身を乗り出して外へ出た。

「だめ! ジル! ゴル! 戻っておいで! こっち……へ?」

 だが、眼前に広がる光景に思わず息を止めた。

 土と草の匂いがする。私が肘を突いているのは我が家の屋根瓦ではなかった。芝生の地面だ。ジルとゴルは少し離れたところから尻尾を振りながら私を見ている。呆気に取られてあたりを見回した。

 広い。

 散歩に使っている近所のグランドよりも広い。頭上には星空が広がっている。

 ここはうちの屋根の上のはずだ。言うまでもなく、こんなだだっぴろい空間があるはずがない。震えて竦む足でなんとか立ち上がると、遊んでくれるのだと勘違いしたジルとゴルが寄って来た。だが、途中で楽しくなってしまったのか二匹で競争するように私を通り過ぎて駆け出した。

「ちょ!?」

 いまだ状況は全くつかめない。何が何だか分からない。分からないが、この謎の空間で二匹が迷子になったら大変だ。ぼうっと突っ立っている暇はない。混乱したまま追いかけた。家の中でいつもクロックスを履いていて良かった。裸足だったら走るのは一苦労だったことだろう。必死な私を他所にジルとゴルは飼い主が追い駆けっこに参戦したのを喜んで、さらにスピードを上げた。物凄く楽しそうだ。目がキラキラと輝き、二匹とも満面の笑顔だ。

 くそっ! そうだった! 分かってた! そうよね、犬はそういう反応になるよね!

 逃げられたら追いかけたいし、追いかけられたら逃げたいのが犬だ。

 頭では理解しているのだが、咄嗟にどうしても走ってしまう。しかし、今はリードを持っていない。トリーツもない。いつもグランドでフリスビーをする時に付けているハーネスもない。二匹でじゃれ合っている時に首輪がジルの牙に引っかかって、ゴルの首が締まりそうになったことがあり、うちの犬達は基本的に普段は首輪をしていない。マイクロチップを入れているだけだ。つまり完全に裸の状態の犬を捕まえて連れ戻さなければならない。逃げられるのは分かっていても走るしかない。だが、体力も限界だ。

 どうしよう、どうしよう。

 ありえない事態に直面した動揺と、ジルとゴルへの心配とで心臓がバクバクする。涙が出てきた。扉なんか開けなきゃ良かった。せめてジルとゴルを一階に連れ戻してからゆっくり一人で開ければ良かった。

 私の馬鹿馬鹿馬鹿!

 絶望しかけた時に気が付いた。

「あれ、ここフェンスがあんの?」

 あまりにも広いので最初は気が付かなかったが、どうやらこの広場は私の背丈よりも高いフェンスで囲われているようだ。息を整えながらフェンスに触れた。よくある緑色のフェンスだ。しっかりしている。これならゴルとジルも容易には越えられないだろう。

 いや、隙間があったら、そこから逃げちゃうかも。

 まだ油断はできない。ジルとゴルがじゃれ合っているのを横目に、フェンスを確認しながら歩いた。その結果、どうやらこのフェンスに切れ目はなく、ここは完全に囲まれた場所のようだった。ひとまず安心だ。

「はあ、よ、よかった」

 思わずその場でしゃがみ込んだ。一番の懸念が解消されると次々と疑問が湧いて来る。ここは一体どこなのか。

 フェンスの外側は植物で覆われ向こう側は見えない。見回してみても近くに建物らしきものもない。空気は澄んでおり星空が美しい。月明かりのせいか暗いとは感じない。快適だが現実感がない。落ち着いてみて気が付いたが、気温は今の時期にしてはやや高いようだ。ひんやりとしてはいるが、部屋着の状態でも寒くはない。

 隅の方にはレンガが敷かれた一角があり、水場があった。蛇口をひねると水が出る。ゴルが目ざとく見つけ、駆け寄って来て蛇口から水を飲んだ。走り回って咽喉が乾いていたのだろう。

 なんなんだ、これ。

 まるでここはドッグランだ。貸し切りドッグランが欲しい欲しいと思い続けていたせいで、幻覚を見ているのだろうか。

 絶対におかしい。何か妙なことが起きている。論理的な説明がつく事態ではない。

そう言えば、異世界に入り込んでしまった時にその世界の物を口にすると帰れなくなったりするのではなかったか。

「!」

 青くなって慌てて蛇口を止めた。ゴルはきょとんとして口の周りについた水滴を舐めながら私を見ている。

 何回やらかせば気が済むんだ!

 頭を掻き毟りたくなったが、今さら悔やんでも仕方ない。

 そして悔やんでいるうちにゴルとジルはまた駆け回り始めた。相当に楽しいのか呼び戻しもきかない。完全に興奮してしまっている。

 とりあえず、ゴルとジルがどこかへ逃げて迷子になる事態は避けられそうだ。このままではどうにもならない。一度戻ってスリップリードとトリーツを持って来よう。一度ここから出たら戻れなくなるかもしれないだとか、そんな事を考えていても仕方ない。よく考えてみたら、たとえゴルとジルを捕まえられたとしても、抱き抱えて連れ戻すのは難しい。私の力では一瞬しか犬を抱き上げられないからだ。それもジルだけだ。ゴルは重くて抱き上げることすら出来ない。やるしかないのだ。

「ゴル、ジル、ちょっと待ってなさいね!」


 結論から言えば、ゴルもジルも私も問題なく家に帰ることが出来た。

 この空間はあまりにも広いので私の家の二階に通じる穴を探すのに手間取って焦ったが、落ち着いて探せばすぐに見つかった。私が家に戻っている間に扉が消え失せるという事もなかった。ジルとゴルは思う存分遊んで満足したのか、素直に戻って来た。

 ジルとゴルが寝ている部屋に二匹を連れて行くと自分からバリケンの中に入って、すぐに寝てしまった。たくさん走って疲れたのだろう。

 終わってみれば何も実害はなかった。ベッドの上が少し汚れてしまったが、それだけだ。

 片づけが終わった後、あまりにも安心したせいか、下半身からへなへなと力が抜け、居間の床に座り込んでしまった。

 時計を見るともう十時を回っている。明日も朝早く起きて散歩に行かなければいけない。その後は出勤だ。そう言えば、洗濯物を干すために二階へ行ったのが始まりだった。まだ干してもいない。洗濯物が臭くなってしまう。こうしてはいられない。早く洗濯物を干して、風呂に入って寝なければ。

 シャワーを浴びながら段々と冷静になる。

 ……いや、夢でしょ!

 普通に考えて、ない。ありえない。何を馬鹿な。白昼夢みたいなもんだわ。それしかない。

 風呂から上がった後、パジャマ姿で庭に出て上を見上げてみたが、当然ながら屋根の上には何もない。

 疲れてるせいだ。早く寝よう。

 そして二階に上がりベッドに入ろうとした私は崩れ落ちそうになった。

「うわあ……」

 扉がまだある! てか、開けっ放しじゃん!

 開いた扉から向こうの世界の芝生と夜空が見えている。

 犬達を連れ帰るのに必死で閉め忘れていた。おそるおそる近付いて慌てて扉を閉めたが、長めの雑草が扉に挟まってしまったので、指でちょいちょいと避けてからもう一度閉めなおした。あまり乱暴に開けたてすると土がベッドの上に落ちて来そうだ。そうなると、また掃除をしなければならない。それは勘弁して欲しい。

 閉めても、その謎の扉は消えたりはせずに相変わらず当たり前のようにそこにあった。何も言われなければ点検口か天井収納にしか見えない。

「……」

 なんと言えばいいのだろう、私が駄目過ぎるせいなのかなんなのか、いまいち締まらない。非常事態だというのに気が抜けてしまう。

 フィクションであればこういう場合、私が油断して扉を開けっぱなしにしている間に、向こうの世界の危険な生き物がこちらに迷い込んで来ているものだが、私はそういったお約束を思い出して心配するのに、もはや疲れ果てていた。あの状況で頑張って犬達を無事に連れ帰っただけでも褒めて欲しい、そのくらいの投げやりな気持ちだった。というか、その手の失敗はやらかし過ぎていて麻痺していた。

 せめて扉から遠い場所にベッドを移動させてから眠るべきかとも考えたが、その気力すら残っておらず、気絶するように就寝した。


 目が覚めて天井を見上げる。

 やっぱり夢じゃなかったんだ。

 残念ながら、昨夜と変わらず天井には例の扉がある。そして改めて、この扉は昨日突如として現れたものなのだと実感する。ベッドに寝そべった状態で見上げると、件の扉はかなり目立つのだ。これほどはっきりと違和感のあるものを見過ごすのは、いかにポンコツの私といえども、ありえない。

 昨日は眠気に抗えず、そのまま眠ってしまったが、やはりベッドがこのままの位置にあるのはまずい気がした。私が仕事で出掛けている間はジルとゴルは一階の部屋に閉じ込めているが、逃げ出す可能性がないわけではない。そして二階へ来て、何かの拍子に扉が開いてしまったら、そう考えるとベッドが真下にあるのは危険だ。ベッドを踏み台にして扉の向こうへ行く可能性がある。

 パジャマ姿のままベッドを引きずって移動させた。散歩の後は、いつもより念入りにジルとゴルの部屋の扉のロックと階段手前の扉のロックを確認してから家を出た。

 仕事中も例の扉の事が頭から離れない。しかし本格的に考え始めると仕事が手につかなくなるので、じっくりとは考えられない。結局、建設的な考えが何一つ思い浮かばないまま帰宅した。

 仕事から帰ってから、まずしたことは家の中の点検だ。ジルとゴルはいつも通りだった。私の帰宅にはしゃいで犬部屋壁をガリガリ引っ掻いている。念のため二階へ上がってみたが、特に異変はない。ベッドの位置も今朝、雑に引きずって移動させて、そのままだった。

 あの扉の存在以外は。

 その時ゴルがヒンヒン鳴いて一階から私を呼んだ。散歩はまだか、と言っている。悩んでいてもどうにもならない。私にも犬達にも生活があるのだ。とりあえず犬の散歩へ行くことにした。落ち着いてから考えよう。


 ゴルはいつものように古人見さんの居る事務所へ私を引っ張って行った。今日は早く帰ってあの扉の件について考えたり調べたりしなければならないのだが、抗う元気がない。我が家を突如襲った超常現象(と言うと大げさだが)のせいで心が弱っており、誰かと話したい気分でもあった。

 昨日に引き続き、今日も由美さんが事務所に来ていた。事務所のソファーでスマホを弄っている。私達に気が付くと由美さんも古人見さんもすぐに出て来てくれた。

「どうも、お疲れさまです」

「どうも……そうだ、外岡さんこれ知ってます?」

 由美さんが挨拶もそこそこにスマホ画面をぐいと突き出す。ワイマラナーがテレビCMに出演しているらしい。もちろん私のジルとゴルは世界一可愛いが、犬種としてのワイマラナーはどちらかと言えば犬の中では強面な部類であるので、珍しいことだ。

 このモデル犬はジルに似ている、目の色が同じだ、などと話していたが、ふと気が付くと古人見さんがじっと私を見ている。

「外岡さん、もしかしてちょっと調子悪いです? なんか元気ないみたい」

 古人見さんは察しが良い。そしていつも優しい。

「季節の変わり目ですからね。無理しないで休んで下さいね」

「ある程度年取ると回復するのも一苦労ですからね」

 由美さんも言う。視線は膝の上に乗せたゴルの尻に注がれたままだが。

「体調は大丈夫なんですけど……」

 つい口籠る。

 いやいや、言えないでしょ。どうやって話せばいいの。家の天井に突然、変な扉が現れて、とか。けど、古人見さん「家のことならなんでも」って言ってたな。もしかしてだけど、こういう変な事とか心霊現象とか、そういう話をお客さんから聞いたりする機会もあるのかな。絶対に住設工務店の管轄外だとは思うけど「家のこと」ではあるわけだし、どこに相談すればいいかとか教えてくれたりとかしないかな。

 藁にも縋る思いで打ち明けてみることにした。

「実は……」

 話を終えてから、じわじわと後悔の念が押し寄せて来た。どう考えても今の私はまともでない。嘘吐きでないならば、何か精神的に問題のある人だ。言わなければ良かった。せっかくジルにもゴルにも良くしてくれる人達なのに、距離を置かれてしまうかもしれない。

「あ、あの、変な事言ってるって分かってます。たぶん私ちょっと疲れてるっていうか、なんか今おかしいんだと思います」

「ああ、それは、たぶんだけど『想い地』ってやつですよ」

「精神科に受診しようかなって思ってて……ん? おも……いち?」

 由美さんと古人見さんがそろって頷く。

「この辺だとわりとあるんです」

「最近もあったよね」

「え、は?」

 予想外の反応に面食らう。驚いてない? てか、おもいち、って何だ?

「最近あったっけ?」

「あの水掛のマンションの、なんか揉めてたでしょ」

「あー、あれか。結局訴訟になったんだっけか?」

「いや、訴訟までにはならなかったって聞いたよ。さすがに法律じゃ扱えないし」

 全く話について行けずに、ぽかんとしている私に気が付いて、古人見さんが笑った。

「あ、ごめんなさいね、分からないですよね」

「い、いえ、いや、はい、あの、基本的な事で申し訳ないんですけど、おもいち、ってなんですか?」

 私が知らないだけで一般的な言葉なのだろうか。訴訟とはまた穏やかではない。起きている事柄の突拍子もなさと現実的な単語はあまりにもミスマッチだった。

「想い地はね、『想う』に『土地』で想い地なんだけど、外岡さん元々この辺の人じゃないもんね。そりゃ知らないか」

 古人見さん曰く、想い地とはその名の通り、人の想いが作り出した土地、という事らしい。

「要はここに土地があったらいいのになって人が考えると土地が出来ちゃうってことですか?」

「うん、まあそう、だいたいそう」

 由美さんが頷く。いや、絶対にかなりいろいろと雑に端折っているだろうが。

 もしかして、あの土地はもしかして私が「犬を走らせられるドッグランが欲しいな」と思ったから出来た、という事なのだろうか。

 私凄いじゃん。だいぶ気味悪いし、怖いけど。

 私の考えている事が分かったのか古人見さんが言った。

「でも、誰かが思えばそれでいいって単純なものではないみたいで、出来やすい条件みたいなのがあるんですよ。そうじゃなかったら、あっちもこっちも想い地だらけになっちゃう」

 月寝市は高低差の多い土地だ。そのせいで、平地として利用出来る土地は限られている。山間の土地は有り余っており、二束三文でたたき売りされているが、市街地に近い平地は稀にしか売りに出ない。出てもすぐに売れてしまう。

「例えば、えっと、そうだな……あそこの、月寝総合病院ってちょっと高い場所にあるじゃないですか」

 古人見さんは山を背景にして聳える大きな建物を指差した。「TSUKINE GENERAL HOSPITAL」クリーム色の壁を背景に紫色のネオンが光っている。

 病院は斜面に建てられており、駐車場からの出入り口は病院の三階部分にある。

「道路面して向かい側の高校も、病院と同じくらいの高さにあるのに道路は谷底って言うか、低い位置にあったりして」

 そういえばそうだ。擁壁の上に立っている体育館がここからもよく見える。高校に車で乗り入れるための通路は急な坂道だった。

 道路を渡るために歩道橋を使うと、歩道橋と同じ高さに病院の入り口があるのが見える。それなのに道路を渡るために一度歩道橋に上って降りて、病院へ行くためにはまた階段を上らなければいけない。車いす用のエレベーターはあるが。

「外岡さん、通勤の時に歩道橋に上った時に考えた事ありませんか? 『この歩道橋が長く伸びて病院の入り口まで歩いて行けたら楽なのに』って」

 そういや、あるかも。あるわ。

 疲れている時や、夏の暑い日などは特に。

「そういう場所は想い地が出来やすいんです。みんな同じようなことを考えるし。案外高校の生徒さんも空想してるかもしれないですね。授業中に窓を眺めて、同じ高さの地面が道路の向こう側まで続いてたらって」

「つまり、より多くの人が望むと出来やすい?」

「あとは、『その想い地と同じ高さの土地が実際に近くに存在する』ですかね。なんかイメージがしやすいんでしょうね。多くの人が考えれば思いの力が強くなるので確かに出来やすいですが、強い力を持った人が思えば、思う人がたった一人でも想い地が出現したりもしますね。というか、そっちの方がたぶん多いです」

 思いの力、て。強い力を持った人、て。

 ど直球のスピリチュアルな内容に顔が引き攣りそうになるが、なんとか堪えた。教えて貰っているのに失礼な態度は取れない。そして現実問題として私はすでに、その「想い地」なる場所に足を踏み入れているのだ。今さら野暮な突っ込みは無意味だ。

「ちなみに外岡さんは、お家の二階の屋根と同じ高さの土地を夢想したことは?」

「ないですね。ジルとゴル専用のドッグランが欲しいな、とは毎日思ってましたけど」

 それを聞いた由美さんが脇でぶはっと吹き出した。

「毎日て」

「なら、外岡さんちの想い地は外岡さん由来じゃないですね」

 別の誰かがあの土地を望んだ、ということだ。私の力が強いわけではなかったのか。

なあんだ。

「世の中そう上手くいかないもんで、望んだ人がアクセスしやすい場所に想い地の入口が出現するとは限らないんですよ。その辺はなんかの力場? 縄筋? そういうものが関係するんですかね。そのせいでトラブルも起きたりして」

 縄筋、なめらすじのことか、もはや完全にオカルト用語ではないか。

「ていうか、めちゃくちゃ詳しくないですか?」

 この二人は一体何者なのだ。

「うちは住設工務店なので」

 古人見さんが神妙な顔で答える。

 そうなのか? それで片付く問題か? 住設工務店ってすごいわね。

「ところで訴訟って……」

「ああ、不安にさせちゃいましたね」

 駅の近くのマンションの一室にうちと同じように想い地への入り口が出現したらしい。

「そこの住人が、テニス好きな人だったみたいで、仲間と一緒にテニスコートを作ろうとして」

「まさか、想い地にですか?」

 なんと豪胆な。というより、思った以上に地元住民の想い地に対する認知度は高いらしい。

「しかも結構本格的なやつです。そのテニスコートをお金取って人に貸すことも視野に入れてたらしいですよ。知り合いが工事の見積もり頼まれたって言ってました。やめといた方がいいって忠告したみたいなんですけどね」

 古人見さんが溜息を吐く。

「そしたら、やっぱり噂になったんでしょうね。想い地のことを聞きつけた同じマンションの住人が『その想い地は自分が作り出したものなので権利は自分にある』とか言い出しちゃって」

「凄い事言い出す人が居るんですね。そんなの分かるんですか?」

「普通は分かりませんね」

 部屋の住人はそれを無視して強引に工事を進めようとしたので、もめにもめ、あわや裁判沙汰、というところで突然その想い地は消えてしまったらしい。

「たぶん、その人が想い地を作ったっていうのは本当だったんじゃないかと」

 昔から、想い地の主が「これは自分の想いのせいで出来た土地なのだ」と認識した途端、想い地が消えてしまうことは良くあったらしい。

「『この土地は自分の夢で出来てるみたいなものなんだ』って分かると急に儚いものに感じられちゃいません? そうなるとイメージする力も弱まっちゃうみたいなんですよ」

 なんとなく分かる気がする。

「それでなくても、想い地はある日突然消えますけどね。想いの主がその土地を切望するのをやめたりとか、病気にかかったり亡くなったりして力が弱まったりとかで」

 突然消えることがあるのか。

「ちなみに想い地が消えた時に中に居た人ってどうなっちゃうんですか?」

 恐る恐る尋ねた。幽世に永久に閉じ込められるなんて事はあるまいな。

「心配しなくてもちゃんと外に弾き出されます。出入り口の場所によっては怪我することもあるみたいですけどね。想い地の主にとっては異物ですから。調子に乗って小屋なんか建てちゃうと大変ですよ。入り口の側に瓦礫の山が出来ちゃって」

 だから、テニスコートも「やめた方がいい」と言ったのか。

 テニスコートのネットだけならまだしも、鉄のポールや審判用の椅子がはじき出されたら危ないもんな。

 昨日はあの場所に何も置いてきてはいないと思うが、私が居ない間にジルとゴルが糞や尿をしていた場合、想い地が消える時には大惨事になるのではないか。

 ベッド移動して置いて良かった。

 昨日の夜中に想い地が消滅していたら、下手をすれば寝ている間に犬の糞尿を浴びる可能性もあったわけだ。

「想い地に危険な怪物が居たりとか、それが外に出て来たり、とかは?」

「ないと思いますよ。絶対ない、とは言い切れませんけど、少なくとも私は聞いたことないです。あ、でも想い地の主の望みがある程度反映されるらしいので、ないはずのもの、居ないはずの動物が居たりとかはよくあるみたいですね」

 二月に柘榴が生っていたり、コンゴウインコの大群が飛んでいたりする想い地もあったらしい。柘榴、と聞いてドキッとした。死者の国の食べ物、口にしたら戻れない、で有名ではないか。昨日、うちのゴルは想い地の水を飲んでいる。

「そ、そこのものを食べたら戻れなくなる、とかは?」

 恐る恐る聞いてみる。これには由美さんが答えた。

「ははは、ないです、ないない」

 ないのか。

 想い地はとことんファンタジー的な禁忌とは無縁らしい。

「そうそう話が逸れちゃいましたが、大事なことをお伝えしますね。家に想い地の入り口が出来たって、あんまり人に言わない方がいいですよ」

 古人見さんは口の前で人差し指を立てた。

「え!」

 禁忌きちゃった! ていうか、私、今言っちゃったが。

「あ、私達はいいんですよ。何の利害関係もないので。外岡さんちは持ち家だから心配ないけど借家の場合なんか大家さんが権利主張して来たりするし、想いの主の心当たりがある人の耳に入ったら、たぶん面白くないでしょうからね」

 あ、そういうことか、ファンタジー的な禁忌じゃなくて現実的な理由ね。

 それはそうかもしれない。なんせ「ここに土地があって欲しい」と思っているのに、実際に出来た想い地を自分では使うことが出来ないのだから気の毒なものだ。

「一般人ならまだしも、ヤクザなんかともめると大変ですよ」

 確かに、それは御免こうむりたい。反射的にちらりと林さんの顔が浮かんだ。

万が一、林さんともめたら、すっごく手強そうだな。

ついそう考えてから後ろめたくなった。林さんが暴力団関係者らしい素振りを私に見せたことはないし、そもそも林さんは変な言いがかりをつけてくるような人には思えない。

「まあ面食らうとは思いますが、想い地はあまり危険な代物じゃないのでラッキーと思って自然消滅するまでは、こっそりジルとゴルのドッグランとして使わせて貰えばいいんじゃないですか? ジルとゴル、楽しそうだったんでしょ?」

 由美さんが明るく言った。

 この人、本当に犬が好きなんだな。

 つい笑ってしまった。でも、そう言われると少し気が楽になる。

 その後ジルも同じように散歩させ、やはり同じように事務所に寄り、和やかに近所に新しく出来たケーキ屋の話などをし、解散になった。


 夕食の後、迷った末に私はジルとゴルを再び想い地へ連れて来た。今度はトリーツもリードもハーネスも準備してある。オモチャも持ってきた。糞をした時に備えて消臭袋も持っている。

 前回、出入り口が一瞬分からなくなった教訓を生かして、目印用に折り畳み式の椅子も持参した。走り回っている時に夢中になったジルとゴルが出入り口に落ちるのを防止する意味もある。

 私達が想い地に入っている間、ベッドの位置はどうしようか迷ったが、結局元の位置に戻した。出入り口の真下にあった方が出入りしやすいのもそうだが、想い地が突然消滅し弾き出された時に床に叩きつけられたらたまらない。少しでも怪我の可能性を減らすためでもある。そしてベッドが汚れないように、大きめのレジャーシートをベッドの上に敷いた。

 むしろ、眠る時にベッドを移動させた方が良いかもしれない。寝ている間に糞尿を浴びるのは嫌だ。

 大きな危険はないと聞いたとは言え、得体の知れない空間に飼い犬を連れて行くなんて無謀では? 何かあったらどうするのか、などと考えないでもなかったが、結局誘惑に負けた。

 だって、すっごい楽しそうだったんだもんな。

 他の犬の居ない完全に閉鎖された空間、快適な温度、水場まである。最高のドッグランだ。使わないのは勿体ない。

大興奮で芝生の上を走り回るゴルとジルを眺めた。満喫しているようだ。きっと今日の夜は良く寝てくれるだろう。遊んでいる二匹を横目に、しゃがんでスマホを弄る。

 あ、アンテナ立ってんじゃん。

 驚いたことに、うちのWi-Fiも繋がっていた。とことん快適に出来ている。きっと想い地の主がそのように望んだのだ。誰だか分からないが感謝したい。さっそく「想い地」でネットを検索してみるが、それらしいものは何もヒットしない。

「嘘お」

 古人見さんや由美さんの話では地元の人間にはそこそこ知られているという感じだったが、ネットに何も情報がないなどという事があるのだろうか。

 一瞬、由美さん、古人見さんが私を担いでいる可能性、それから全てが幻という可能性が頭をかすめた。しかし、現に私は想い地に居るのだし、今自分が夢を見ているとは到底思えない。そもそも話を振ったのは私の方だ。二人が私を騙すとしても理由がない。咄嗟に作った作り話にしては込み入っているし、二人の態度に不審な点はなかった。

 まあ「人間の想念が作り出す土地」などというトンデモ話が世間一般に堂々と事実として扱われていたら、それはそれで死ぬほど驚くだろうが。

 考えてみれば今まで三十年近く同じ県内に住んでいながら、そして四年ほどは市内に住んでいながら、ここ月寝市がそんな怪奇現象の起きる場所とは全く知らなかった、その事実がすでにかなり奇妙ではある。

 そういや、人に言わない方がいいって言ってたな。

 トラブルを避けるため無暗に人に話さないということが慣例化した結果、想い地に関わった当事者や昔からの住人以外には想い地の話題は耳に入らなくなったという事だろうか。

 にしたって限度があるでしょ。こんな、どう考えても不思議な話、私なら絶対ネットにすぐ書いちゃうね。

 そこまで考えてはたと気が付いた。

 いや、書かない、書きたくない、かも。

 己の心に問うてみたが、この話を誰かに打ち明けたいという欲求よりもトラブルを避けたいという気持ちの方がずっと大きい。上手くトラブルを避けて想い地の活用法でも考えた方が得だ、と考えてしまう。よほど必要に迫られない限りは、県外に住む両親にも妹にも友人にも言おうと思っていない。それが、今の私のごく素直な気持ちだった。

 ぞっとした。

 もしかしたら私もすでに取り込まれているのかもしれない。この土地の特殊な事情に。そう考えると怖くなる。今さら感はあるが。

 つか、ここで調べたり考えたりするっなって話だよね。

 解明すべき怪奇現象そのものの中でしゃがんで、ちょっとSNSなんかも見たりしながら。冷静に考えると、だいぶ間抜けな図だ。

 まあ、仕方ないか、時間ないし。

 夕飯を食べ終わって片付けると、もう八時過ぎであるし、明日もいつも通り五時に起きなければならない、入浴や洗濯や試験勉強やその他諸々と睡眠時間の確保を考慮すると今、ゆっくり調べる時間は今しかない。

 とは言え、ネットからは何の情報も得られなさそうだ。

 ため息を吐いて立ち上がり、スマホをエプロンのポケットに突っ込んで、持ってきたオモチャをゴルとジルに投げてやった。引っ張り合いが始まる。

 昨日はジルとゴルの安全確保に最低限必要な情報を得ただけで満足してしまい、この想い地なる謎空間をじっくり観察は出来ていなかった。フェンスに沿って歩き回ってみることにした。

 フェンス沿いに生い茂る木香薔薇と凌霄花が満開だ。現世ではありえない景色である。今は季節ではないというのもそうだが、この二種の花の開花時期が異なるからだ。

 なんか見覚えがあるような気がするんだよな。

 ああ、そうか林さんちの階段だ。

 そもそも私は植物にさほど詳しくないので、開花時期の異なる花が同時に咲いていたとしても即座に違和感を覚えるような目敏さは持ち合わせていない。それなのに気が付いたのは木香薔薇も凌霄花も毎日のように見ていたからだ。

 もちろん、どちらもごくありふれた庭木であるので、これだけで林さんと結びつけるのは早計だ。

 けど考えてみたら関さんちは高台にあるから、階段上がった先の敷地の高さとうちの二階の高さってほぼ同じなんじゃ? そういえばこのフェンスも林さんの家と一緒じゃない?

 古人見さんに聞いた想い地の出来やすい条件なるものを思い出す。そして階段の上から遠くを見ていた林さんを。あの階段はよく手入れされた庭木のおかげで素敵だが、暮らしていく上では平地続きの方が楽に決まっている。この高さの土地がずっと続いていたらいいのに……と思うこともあったろう。

「まじか……」

 先ほどとは別の意味で再びぞっとした。この事がもしも林さんに知れたらどう思われるのか。きっと表面上は「あらあ、そうなの? 私は良く分からないけど!」とはきはきした口調で言って笑うだけなのだろうが、内心までは分からない。自分が欲しかった土地を最近越してきたどこの馬の骨とも知れない女が使っているのだ。いい気分ではないだろう。しかも、その女の犬は玄関先で排尿までしていた。

「あ!」

 そんな事を考えていたら、目の前でジルが排尿を始めたではないか。

「あああ!」

 ジルにつられたのかゴルも排尿を始めた。しかもかなり大量に。走り回ってよく水を飲んでいるせいだ。健康的で素晴らしいことだ。だがしかし、しかし。

 まずい。

 思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。この想い地の主が林さんかもしれないと思い当たった今はいろいろな意味で恐ろしい。

 ジルとゴルは急にしゃがんだ飼い主を見て、きょとんとしている。

 そうだね、ごめんね。オシッコしちゃ駄目なんて分からないよね。

 散歩先のグランドの草むらで排尿するのは日常茶飯事であるし、もちろん普段は叱っていないので今下手に騒ぎ立てたら犬達を混乱させてしまうだろう。だが今、排尿をしたせいで、おそらくこれからこの想い地で二匹が排尿する確率は上がる。臭いが付くからだ。雨でも降れば多少は消えるが、ここに雨は降るのだろうか。気温すら現世とは違うようだが。

「うううう、バレたらほんとやばいじゃん、うわあ、ごめんなさい」

 この想い地が消える時が本当に心配になってきた。大型犬の排尿量はかなりのものだ。ブルーシートだけでは足りないのではないか。ブルーシートの上に吸水性のペットシーツを何枚か置いておかなければ。

「はああ」

 溜息を吐いていると、ジルとゴルは遊び疲れて排尿も済ませて満足したのか、私のところに戻って来た。そろそろお開きの時間だ。二匹を連れて家に戻った。

「で、でも、まだ林さんが主と決まったわけじゃないしね」

 何か決定的な事が起きるまでは考えないことにしよう。誰の想いによる土地なのか私は知らない、これで行こう。そういう事にしておいた方が良さそうな気がする。

林さんに菓子折り持って行こうと思ってたけど、とりあえず今はやめとこう。何かあった時に痛くもない腹を探られるもんな。


 しかし残念ながら、その決定的な事はわりとすぐに起きてしまった。

「ゴル、ジル! 二階で遊ぶよ!」

 あれから二週間、食後に三十分ほど想い地で犬達を遊ばせるのはもはや日課となった。ジルとゴルが大喜びで二階に掛け上がって行く。

 先に二匹を想い地へと入れてやって私も後から入った。

「あれ?」

 なんだかいつもよりも明るくないか?

 芝生の緑色が妙にあざやかだ。見上げて驚いた。

「なにあれ」

 夜空に月が三つある。目を擦っても消えない。ここは想い地だ。何が起きてもおかしくはないのだが、かなり奇妙な光景だ。ぼんやり見上げているとジルの吠え声が聞こえた。

 見るとジルが茶色い何かに向かって吠えている。慌てて駆け寄ってみると、なんとその茶色いものは犬だった。

「え!」

 こんな事は初めてだ。私達以外の生き物がこの想い地に居るなんて。思わず周りを見渡す。誰か他に人が居るのかと思ったからだ。だが、ジルの吠え声が唸り声に変わったので我に返った。まずい、ジルは他の犬と上手くコミュニケーションが取れないタイプの犬なのだ。喧嘩になってしまう。間に入るために、場合によってはジルを拘束するためにリードを持って近寄った。

「ジル! おいで!」

 しかし観察していると、ジルはその茶色い犬に少し近寄るものの、茶色い犬が身じろぎをしただけでダッと走って距離を取ってしまう。襲い掛かってはいかない。まるでジルの方が怯えているようだ。一方、茶色い犬は穏やかに尻尾を振っている。

そっか、ジルは今まではリードをした状態でしか他の犬とちゃんと接した事なかったもんな。広くていくらでも自分で距離を取れる場所なら、穏やかな犬相手ならすぐに喧嘩になるってわけでもないのか。

なるほど、と感心している場合でなかった。その茶色い犬には見覚えがある。

「もしかして、ミドリちゃん?」

 ミドリ、という言葉に反応したのか、茶色い犬が私の方を向いた。

「やっぱりミドリちゃんだ」

 私が近寄るとその茶色い犬は私の手の匂いを嗅いで舐めた。知っている人間だと分かったようだ。赤い首輪をしている。間違いない。林さんの家のミドリちゃんだ。つまりやはりここは林さんの作り出した土地という事なのだろう。

 という事は林さんも来ているのだろうか。どういう事なのか分からないが、ありえなくはない。そもそもこの想い地は理屈が通用する場所ではないのだ。なんらかのきっかけで林さんの家にも入り口が出来た可能性は十分にある。

 私は観念して目を閉じた。

 もうこうなったら仕方ない。全部正直に話して謝ろう。勝手にドッグランとして使っていました、ごめんなさい、これしかない。

「林さん! いらっしゃいますか?」

 呼びかけて辺りを見渡すが返事はない。林さんの姿も見えない。家の中に入ってしまったのだろうか。飼い犬を想い地に残して家に帰るのは、私からするとかなり勇気が要ることだが、なんせ林さんはここの主なのだ。そのくらいはするかもしれない。というか、実は私が知らなかっただけで、林さんはずっとここを使っていたのだろうか。

 もしかして今までは時間帯がずれていて会わなかっただけ? あ、そう言えば林さんがこの土地を認識してしまったら消えちゃうんだっけ? 急にはじき出されたら怖いかも。

 混乱してきた。想い地の主が想い地に足を踏み入れるというのは、はたして可能なのか。自分の作り出した土地だと認識しなければいいのか?

 そんな事を考えながら待っていたが、やはり林さんは現れない。

「林さーん! 外岡です! 近所に住んでる外岡です! 勝手に入ってすみません!」

 呼びかけながら歩きまわってみたが、もう一つの出入り口らしきものも、林さんも見つけられない。

 そうこうしているうちに、ゴルはミドリちゃんへの挨拶を済ませてすっかり打ち解けている。そして、なんとジルまでもがミドリちゃんへの態度を軟化させていた。おっかなびっくりミドリちゃんのお尻の臭いを嗅ぎ、ミドリちゃんにも嗅がせている。もう敵意は感じられない。

「わあ!」

 ちょっと感動してしまった。ジルが初めて雌犬とお友達になった。ミドリちゃんの穏やかさと、ここの広さが幸いしたのだろう。

「ミドリちゃん、ありがとうねえ」

 涙ぐみながらミドリちゃんにお礼を言った。

やがて三匹は連れだって走り回り始めた。ミドリちゃんは少し遅れがちだが、ジルとゴルはそのたびに引き返してミドリちゃんの側に戻る。新しい友達が出来て嬉しいらしい。

 犬達を見ていると、さっきまで林さんと想い地をめぐるトラブルになるのではないかと怯えていたのが馬鹿らしくなってくる。こんなに楽しそうなのだ。もうそれで十分ではないか。私が土下座でも何でもすればいい。もし万が一ヤクザが出て来たら速攻で弁護士を雇おう。そのくらいのお金はある。

 ただ、ミドリちゃんに怪我をさせるような事があってはいけないので、ジルとゴルにはハーネスを付けた。何かあったらすぐに割って入れるように、傍についていることにした。つまり私も犬達を追いかけて走ったということだ。死ぬほど疲れた。

スマホを見ると、もうそろそろ時間だ。帰らねば。

 あ、ミドリちゃんどうしよ。林さん、の電話番号は知らないや。

 えっと、まずはジルとゴルと犬部屋に連れ帰るでしょ。そんでミドリちゃんの首輪にリード付けて、林さんちに行くか。

 夜分にいきなり訪ねる事になるが、仕方ない。

 ん? ミドリちゃんがここに居るってことは、林さん家から居なくなってこと? だとしたら林さんはもしかして今必死に探してたりして。

「ミドリちゃん! すぐ帰ろ……ってあれ? ミドリちゃんは?」

 考え事をしていて少し意識が逸れた数秒の間にミドリちゃんは姿を消していた。

「げえ、マジか! み、ミドリちゃん!? ミドリちゃーん! おーい」

 真っ青になってそこら中を探し回った。ゴルとジルを連れ戻して、念のために家の中も探し回ったが、ミドリちゃんは見つからない。

 どこ行っちゃったの? 嘘でしょ、こんなのヤバ過ぎるじゃん。ミドリちゃんが行方不明に。

 ミドリちゃんを見つけたらすぐに林さんに連絡すべきだったのかもしれない。ジルとお友達になってくれて嬉しい、などと涙ぐんでいる場合ではなかった。

 いやでも、ミドリちゃんが現れてから二十分も経ってないし、そもそも何が起きてんだか分かんなかったし。

 心の中で言い訳してみるが、罪悪感が消えない。

 今からでも林さんに連絡すべきだろうか。

 そういえば、結局林さんは想い地に現れなかった。どういう理屈か分からないが、なぜかミドリちゃんだけが想い地に迷い込んできた、そう考えるのが妥当だろう。どうやって迷い込んで来たのかも良く分からないのだ。やはり良く分からない方法で出て行く事もありえるだろう。

 ミドリちゃんが想い地に現れた以上、この想い地は林さんが作り出したものと考えて良さそうだ。おそらくこの想い地には林さんの心が強く反映されているはず。林さんが万が一にもミドリちゃんを害するような場所を作るだろうか。階段を上るミドリちゃんを眺めていた林さんの眼差しを思い出す。それだけは絶対にない。

 そもそも、あれが本物のミドリちゃんかどうかも怪しいものだ。想い地は理屈が通用する場所ではない。古人見さん達の話では、ありえないはずのものがあったりするのが想い地だそうではないか。林さんの夢の中のミドリちゃん、林さんの思い描いたミドリちゃんのイメージが現れただけかもしれない。要はあのミドリちゃんは凌霄花や木香薔薇と同じ、あの想い地の一部だった、という可能性もある。

 現実問題として、林さんに連絡するにしても何をどうやって説明するのか。林さんは想い地のことはたぶん知らない。近所に住む女が夜に家に直接訪ねて来て「ミドリちゃんはご無事ですか?」などと聞いてきたらどう思うだろう。

 もしもここに今、ミドリちゃんが居て林さんにお返しする事が出来るなら、林さんの家を訪ねる意味もあろうが、もうミドリちゃんは消えてしまった。ミドリちゃんを林さんのもとへ連れて行く事は出来ないわけだ。

 ミドリちゃんが現世でも行方不明になっていたとしても、私が何か有効な手掛かりを提供出来るとは思えない。もしもこの想い地でミドリちゃんが迷子だと仮定すると、最悪、想い地を消せばミドリちゃんはうちの二階にはじき出されることになる。林さんに想い地の存在を知らせれば想い地は消えるだろう。それで解決する。

 頭の中で算盤を弾く。

 林さんに連絡するのは、やめとくか。水場もあるし、気温もちょうどいい場所だし、一晩くらいなら平気でしょ。

 一人で頷き、ジルとゴルを家に連れ戻し、就寝した。ミドリちゃんの姿は消えたままだが、ミドリちゃんがここに置き去りにされている可能性を考えて、水場に水を入れた犬用の皿を置いて来た。

 しかし、私は小心者なので「明日の朝、本当にミドリちゃん行方不明になってたらどうしよう。そしたら正直に全部言うしかないよね……そしたら絶対、私責められるんじゃない? なんで連絡しなかったのって!」などとベッドの中で悶々とする羽目になるのだが、想い地を犬達と一緒に走り回っていたためか、すぐに眠ってしまった。


 次の日は寝坊した。悶々としていたせいで目覚まし時計をかけ忘れた。大急ぎでジルとゴルの散歩に出掛けたが、こういう日に限ってなかなかゴルが排尿してくれない。もう駄目だ。朝ご飯は食べずに仕事に行くしかない。

 寝癖も直せないまま家を出た。

「あら、今日はお寝坊さんね!」

「!」

 林さんに声を掛けられて心臓が口から飛び出しそうになった。水やりをしていたのだろう。ホースを持っている。

 顔が青くなる。そうだった。寝坊したせいですっかり忘れていた。ミドリちゃんは無事か。

「お、おはようございます」

「ふふ、急がないと遅刻するんじゃない?」

 林さんの態度はいつも通りだが、思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。

「あの、ミドリちゃんは」

「ああ、ミドリ? そこに居るわよ、それがどうしたの?」

 ミドリちゃんは階段に座ってゆっくりと尻尾を振っている。心なしか機嫌が良さそうだ。心の底からほっとした。

 その時私の横をスポーツカーが通り過ぎた。同僚の車だ。同僚も遅刻ギリギリらしい。はっと我に返った。私もこのままでは遅刻する。林さんは怪訝な顔をしていたが、出来た人なので遅刻しそうな私を引き留めたりすることはしなかった。

「あ、はい、ミドリちゃん今日も可愛いですね! それでは、いってきます!」

「いってらっしゃい! 気を付けて」


 それからもミドリちゃんは定期的に想い地に現れた。月が三つの時もあれば、そうでない時もあった。毎回、ゴルとジルはミドリちゃんの登場に大喜びして、一緒に楽しく遊ぶ。そしてミドリちゃんはいつの間にか居なくなっている。そして相変わらず、現実のミドリちゃんが行方不明になったという話は聞かない。

 本物のミドリちゃんが遊びに来ているのか、林さんの心の中のミドリちゃんが想い地に顕現しているだけなのかは未だに分からないが、日を追うごとにミドリちゃんの身体能力がだんだんと上がってきているのは確かだ。始めのうちはゴルとジルについて行けず時々歩いていたのだが、今ではほとんど遅れることなく走っている。うちの犬達もミドリちゃんに合わせて手加減をしているのだろうが、明らかに動きが良くなった。

 とりあえず、ミドリちゃんに悪い事は起きないと分かったので、私の心にも平穏が訪れた。林さんに必定以上にびくつくこともなくなった。犬達は楽しそうで、毎日よく眠るし、いい事しかない。

 想い地最高! ずっとここにあり続けて欲しいな。林さん、いつまでも健康でいて! 想い地を維持して下さい、お願いします!

 などと図々しく祈るほどになっていた。


 だが、そう上手い話はないものである。それから一か月もしないうちに想い地は消えてしまった。

 いつものように想い地で犬を遊ばせようと、夕食後にゴルとジルを連れて二階へ上がった。ベッドの位置を移動させようとして気が付いた。扉がなくなっている。まるで最初からそこには何もなかったかのように、あまりにも静かに消え去っていた。

 今朝は確かにあった。私が仕事をしている間か、散歩に行っている間に消えたのだろう。いつかこんな日が来るとは思っていた。中に入っている時でなくて良かった。

 扉のあった天井の下の床に敷かれているブルーシートと吸水シーツだけが想い地の名残だ。ゴルとジルは何度も想い地で排尿をしていたのだが、幸い吸水シーツもブルーシートも濡れずに綺麗なままだった。ふと横を見ると、金属製の犬用皿が落ちている。ゴルとジルの水分補給のために持ち込んだものだが、ミドリちゃんが現れるようになってからはミドリちゃんのために水場に置いたままにしていたのだ。

 犬の尿は弾き出さずに皿だけはちゃんと返してくれるとは。いろいろな意味で快適な想い地であったが、最後までなんと親切なのだろう。

「なくなっちゃったね」

 ゴルとジルを見て言った。私の態度から何が起きたのか、だいたい察したのだろう。二匹ともしょんぼりしている。さっきまでぶんぶん尻尾を振っていたのだが、今は静かだ。私も、とても寂しいが仕方ない。もともと棚ぼただったのだ。むしろ、こんなに長い間、最高のドッグランを無料で使えていたなんて、とんでもなく幸運だった。

「しょうがないね。下でヨーグルト食べようか」

 ヨーグルトと聞いて二匹の耳がぴくっと動いた。

 階段を降りる私にまとわりつくようにして二匹が付いて来る。しばらくはあの想い地とミドリちゃんを恋しがって二階へ上がりたがるだろうが、こればっかりは仕方ない。一か月もすれば諦めるだろう。

 しかし、なぜ今になって急に想い地が消えたのだろうか。まさか林さんの身に何かあったのではあるまいか。体調を崩していたりしないだろうか。急に心配になって来た。最高のドッグランが消えた、なんて呑気な事を言っている場合ではないかもしれない。


 その疑問は翌朝、明らかになった。

 少し早起きして散歩に出掛けた。ゴルの散歩が済んで、ジルの散歩を始めた時、ミドリちゃんと林さんがちょうど散歩から帰って来たところだった。林さんもミドリちゃんも元気そうで安心した。

「おはようございます!」

「あら、おはよう! ジルちゃんね」

 林さんはそう言ってミドリちゃんのリードを短く持った。ジルが他の犬と接する時に興奮し過ぎる犬だと知っているからだ。私もジルのリードを強く握った。しかし、ジルは以前のようにリードを引っ張ることはなかった。当たり前のようにミドリちゃんの尻を嗅ぎに行く。ミドリちゃんも受け入れている。そしてジルもミドリちゃんに尻を嗅がせている。

「あら、あらあら」

 林さんは目を丸くしている。私も驚いていた。そう言えば想い地が出現してからはジルとミドリちゃんの散歩時間が重なった事はなかった(ゴルとはあった)。想い地のミドリちゃんだけでなく現実のミドリちゃんとも、こんな風に穏やかに接する事が出来るようになっていたとは。

「よかったあ、ジル成長したじゃん!」

「良かったねえ、ミドリ」

 林さんも嬉しそうだ。ミドリちゃんはぶんぶん尻尾を振っている。

「最近、ミドリは夕飯の後、夜八時くらい? 変な時間に寝ちゃう事が多くて『齢かしらね』なんて心配してたの」

 夜八時と聞いてぎくりとする。ちょうど想い地でのフィーバータイムではないか。

「でも健康だし、元気だし様子を見てたら昨日は普通に起きててね、なんだったのかしらね」

 にこにこしながら話す林さんは、いつもより心なしか口数が多い。私もつられて笑顔になった。するとはしゃいだミドリちゃんが林さんを引っ張って階段を駆け上がり始めた。

「あはは、ちょっと! ミドリ! 待って待って危ない……もう、最近元気過ぎて困っちゃうわね! ごめんなさいね! 引き留めて、それじゃ」

「はい、それじゃ!」

 笑顔のまま家に帰り、玄関先でジルの足を洗いながら、はたと気付いた。

 ミドリちゃん、めっちゃ階段駆け上ってたな。

 確か以前、ミドリちゃんと林さんに会った時は、しんどそうに階段を上るミドリちゃんを林さんは上の段で見守りながら待っていた気がするのだが。

 あ……そうか。

 その時、唐突に何もかもが繋がった。

 長い階段を上った先にある林さんのお宅、階段が辛そうだったミドリちゃん、階段の上で少し遠い目をしていた林さん、想い地に現れたミドリちゃん、元気になったミドリちゃん、そして消えた想い地。

 そうだよ、なんで気が付かなったんだ。それしかないじゃないか。

 林さんは年老いて階段を上るのに苦労している愛犬の事を想っていたのだ。家の敷地、庭先と同じ高さの平地がどこまでも続いていたら、ミドリちゃんはこんなに苦労しなくても済むのに、と。

 林さん自身は結局一度も想い地に現れる事はなかったが、ミドリちゃんは夢の中で何度も想い地を訪れていた。そして、理屈は良く分からないが、ジルやゴルと走り回って元気になり、ミドリちゃんは階段を駆け上れる体力を取り戻した。だからもう林さんは家の敷地と同じ高さの土地を夢想する必要がなくなったのだ。

 全部、ミドリちゃんのためだったんだ。

 あの想い地は犬への優しさだけで出来た土地だった。

 そういえば、うちの犬達のオシッコは弾き出されなかったっけ。

 ふいに林さんが以前言っていたことを思い出す。「犬はオシッコするもんよ」あれは社交辞令ではなかった。

 林さんは本当の本当に、私や私の犬達を許してくれていたのだ。いつだって。

「……っ」

 涙が出て来た。私は林さんのことを何も分かっていなかった。

 ジルが怪訝な顔をしている。ジルは気性の激しい犬だが、飼い主には優しい。心配させないように笑って足洗いを済ませる。

 とは言え、ミドリちゃんはもう高齢だ。一時的に元気になったとしても、ずっと今のままではいられない。ミドリちゃんだけではない。ジルもゴルもやがて年を取る。そして私も、林さんもみんな少しずつ老いていく。だがそれで良いのだ。

 今度こそ、林さんにお菓子を持って行こう。でもミドリちゃんが必要とする時に想い地が出現しなくなってしまったら、林さんの本意ではないだろうから、想い地については言わないでおこう。


 それから今度またうちの屋根裏に想い地への扉が出現したら、ミドリちゃんと、ジルとゴルとで、なるべくたくさん一緒に遊ばせてあげよう。

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