サマーモラトリアム   作:淵瀬 このや

 がさがさという物音で、目が覚めた。

 昼間ですら暗い北向きの一室、カーテンを閉めている今は足の先すらおぼつかないほどだ。その中を、とととっ、と軽快に駆ける足音があった。

 「おっはよー!」

 シャーっとカーテンの引かれる音。さして眩しくもならなかった視界。その真ん中で、幼稚園からの幼馴染が笑っていた。

 「ねぇ、海に行こうよ! 今から!」


 「他人の耳元で大声出したらだめだよって、前も言ったよね?」

 麦わら帽子や制汗スプレーを小さなリュックサックに放り込みながら、彼女は「君は他人じゃないもん」と舌を出した。

 「まったく……。あと、帽子はリュックに入れたら意味ないと思うな、七海」

 「んー、でも今まだ朝の四時だからさ、行くときは被らなくてもいいかなって」

 彼女はついと肩をすくめた。両隣の部屋も寝ているからか気配がなく、部屋全体の空気は夏だというのにどこか寒々としていた。鞄のチャックを閉める音は、冷えた空気に吸い込まれた。

 「こんな時間から何で……。というか、今日は大学ある日じゃないの?」

 「自主的休校!」彼女はにまりと音が出そうなほど口角を上げた。「大丈夫だよ、一回くらい休んだって。もし課題提示されたら後で教えてって友達に連絡入れておくし。一緒に参加しろってうるさかったサークルの合宿、行くことにすればチャラにしてくれるだろうし」

 「……そうまでして、今日、海に行きたいんだね」

 僕ができるだけ落ち着いた声で言葉をかければ、彼女はすっと黙った。

 「何か、嫌なことでもあったかな。それで少し、逃げてしまいたくなったのかな」

 「何も嫌なことなんてないよ。でも、うん、逃げたいな。何からかはわからないけど、逃げて逃げて、私だけの世界に行ってしまいたい」

 いつも笑っていて、僕からしてみればたいていのことでは動じない彼女が、今日はひどく小さく見えた。僕は彼女だけしかいない世界を想像してみた。寒々しい、灰色の世界。その中で、彼女だけが色彩をほしいままにしていた。癖も傷みもない、一度も染めたこともない背の中ほどまでの黒髪も、母方の遺伝で時々青の混ざる瞳も、中高の部活動でほんの僅かに焼けた肌も、珊瑚色の爪先も、灰色に溶け込まず、溶け込めずに輝いている。世界の中で、彼女だけは確かな存在でいる。

 それでも、彼女はきっと不安そうで傷つきやすい少女の顔で、そこに立っている。

 「海に『行こう』って言ったってことは、その世界に、僕は連れて行ってくれるっていうことだよね?」

 「……来てくれる?」

 瞬く瞳に、僕はいつも通りに微笑みかけた。

 「もちろん。君が連れて行ってくれるなら、僕は何処へでも行けるから」


 まっすぐで平坦な道を、自転車で風を切って走る。彼女曰く、ほとんどは大学に行くまでの道のりと同じで、途中で曲がって坂を越えてまっすぐ漕げば、海に着くらしい。昨日雨が降ったからか、朝の早い時間帯だからか、水を含んだ空気はひどく冷たくて、手の先の感覚はすぐに消えた。

 「夏なのに、寒いねえ」

 後ろからの彼女の声は、そんなに大きいわけではないのにやけに道路に響いた。通学の時間帯は混み合うだろう道路は、今はバイクはおろか車すらもほとんど通らない。散歩やジョギングをしている人もいない。朝は、僕らだけのためにここにあった。

 大きな道路を、コンビニの前で右に曲がる。あおあおと朝露に濡れた田の間の道を突っ切る。土手にのぼる。刈ったばかりの草の匂いが、僅かに鼻を掠めて消える。坂をこえる。この素晴らしい夏の朝に存在している音は、彼女の少しばかりの息遣い。

 「ねぇ、きっと今さ、世界には私たちしかいないや」

 見なくても、彼女がキラキラした目を僕に向けているとわかった。さっきまでのどこか不安そうな様子はなく、梅雨明けの風鈴みたいな、凛と爽やかに光る声だった。

 「海の匂いがする」

 彼女は続けて言った。鼻をひくつかせてみたけれど、よくわからなかった。そういえば、僕はあまり海の匂いを知らない。最後に海の近くまで行ったのは、彼女と出会った港の夏祭りだった。小学校のそばを、彼女は徐行して通り過ぎた。飛び出してくる子供なんて、この時間帯はいないだろうに。

 「たぶん、そこの民家のあいだを抜けたら行けそう」

 「そうなんだ、よくわかるね」

 「私、鼻が利くから。ほら、防風林だよ、これ。きっと」

 彼女が照れくさそうに笑って、目の前にはクロマツの林が立ちあらわれた。吸い込まれそうな黒だった。構わず、彼女は自転車を降り、それを押して林に入っていく。上の方で、鳥の羽ばたく音が聞こえた。烏が一つ、鋭く鳴いた。まるで警告しているみたいに。ざ、ざ、と、途中から足音が変わったことに気づいて、彼女は足元を見下ろす。アスファルトが、いつの間にか灰色がかった白い砂に変わっていた。ふいに視界が開けた。ざざ……ん、ざざ……ん、と、僕の耳にも、海の音色がようやく届いた。白浜と、海だった。日が、水平線の上にかかった雲の、少し上に出ていた。

 「……今、五時だよ」

 彼女が囁いた。

 「誰もいない、とても綺麗な青の海だ」

 僕は彼女が言ったのとまったく同じ言葉を返した。

 「何でだろう、帰ってきたって、感じがする」

 彼女の右目から涙が零れた。沖合の波よりずっと静かな涙だった。



 「何か、海に来てやりたいことはあったの?」

 自転車を砂浜の斜面の一番上、防風林の近くに停めた彼女に僕は尋ねた。カシャン、とスタンドが立つ。タイヤが、砂に少し呑まれる。

 「正直ね、考えてないの。ただ来たいなあって。ここに来たら、何か変われそうで。君は、何かしたいことはある?」

 「したいこと、と言われると難しいし、君が考えつく以上のものは、きっと僕には思いつかないと思うな」

 「そうだねえ」と、彼女は顎に片手をあてて考え込んでしまった。やりたいことなんて、そうすぐに思いつけるものではないから仕方がない。僕は辺りを見渡した。海開き前の砂浜は本当に誰もいなかった。彼女を一人で行かせないでよかったと、背筋がうすら寒くなる。有り得ないことだけれど、僕がもし一人でここに来たらどうだろうか。きっと、空気の重さだけで押しつぶされてしまう!

 「よし、わかった!」

 唐突に彼女が叫んで、静寂に呑まれかけていた僕はそっと息をついた。一人というのは、なかなかどうして心細い。それでも、彼女は心細さをはねのけるように僕に向かっていたずらっ子のように笑いかけた。

 「海で一般的にやること、全部挙げてよ」

 「全部か、それは結構な無茶ぶりだね。スイカ割りしたり、泳いだり、あとは波打ち際で遊んだり、砂の城を作ったりとかじゃないかい」

 「なるほど。スイカは持ってきていないし、私も君も泳げない。何より君は濡れるのは困るよね?」

 彼女の問いかけに、僕は一つ頷いた。水はあまり得意ではなかった。彼女はにへらと笑ってリュックサックを開け、麦わら帽子を取り出して被った。

 「じゃあ、やることは一つなわけだ」


 砂をかき集めて、彼女は立方体をつくった。そしてそれを城だと言い張った。満足そうな顔をしていたから、君って実際あまり器用な方じゃないよね、とは口に出さなかった。代わりに僕は彼女の城を褒めちぎった。胡散臭いと怒られた。

 「それにしても、城がこの大きさなら、きっと国もそんなに人はいないね。こじんまりした可愛らしい国だ」

 「国は小さいほうがいいって、昔々のお偉い哲学者の人がみんな口揃えて言ってるでしょう。それにさ、私と君、それだけいれば十分だと思わない?」

 「そっか、それならここは、僕ら二人だけの王国だね」

 「権力とか面倒だから、君が王様でいいよ。私は城の庭の整備する人でいいや」

 「そこは分担しようよ、せっかく二人でいるんだから」

 「まったく、わがままなんだから」

 くすくすと笑いあった。ここにあるのは、絶対的な幸せだった。


 遊び疲れたと彼女が言って、僕らは砂浜に座って休憩することにした。彼女は防風林の中にあった自販機でスイカ味のアイスを自分に、サイダーを僕に買ってきた。しゃくしゃくとそれを食べる彼女の隣で、僕はサイダーの缶を横において海を眺めていた。日はのぼりきって、空はつまらない青だった。今年の海は、誰もいない。

 「初めて会ったのも、夏だったよね」

 ぽつりと言った彼女の言葉に、僕は少しだけ驚いた。初めて会った時の話を彼女とすることは、これまであまりなかったから。

 「うん、夏祭りだった。君はお母さんに連れられてて」

 「君は射的屋のおじさんと一緒にいた」

 「せっかく浴衣でおめかししてたのに、君はひどい泣き面してたよね。ヨーヨー釣りに失敗したんだったっけ?」

 揶揄えば、彼女はあの日みたいに顔を真っ赤にして「何で知ってるの」と小声で僕をなじった。

 「君のお母さんから聞かされたんだよ。何してもずっと大泣きで大変だったって。でも僕を見た途端ピタって泣き止んだんだって言ってたね」

 「びっくりしたんだよ。君、すごく可愛かったんだから。……そんな昔のこと、恥ずかしいから忘れてよ」

 小恥ずかしくて気まずい沈黙が僕らの間に流れた。話題を変えたくて、僕は冗談めかして言った。

 「ねぇ、どうだろう。僕らはうまく逃げられているかな?」

 「……あのね、」

 そんな僕の思いを、きっとあえて無視して。食べあげたアイスの棒を見つめながら、彼女はそっと口を開いた。

「本当は、本当はね、君とお別れしようと思ってたの。ここで」

 思いもかけない言葉に、息が一瞬できなくなった。

 「……そっ、か。捨てられちゃうんだね、僕」

 「違う、違うよ、聞いて」

 上ずった声に、さらに彼女のオクターブあがった声が重なる。

 「あのね。君と一緒に海に来たら、何かが、未来が、始まってくれるんじゃないかって思ったんだ。私も大人にならなきゃなって、思ってて」

 ひゅっと息を吸うたびに、顎が上がる。声がひび割れる。彼女は手を伸ばして、僕の頬を包んで、苦しげに笑った。

 「でも、だめだった。君はどんどん理想になっていくのに、隣の私は何も変わらないままでっ。本当に私、……このままでいいのかな」

 波の音だけが、沈黙を埋めていた。泣きそうな彼女を前に、必要な言葉はなかなか出てきてくれなかった。昔はところ構わず僕を抱きしめて離さなかった君が、今ではこんな表情をするようになっているのだから、僕から見てみれば君は十分成長しているなんて考えても詮無いことを思った。

 「……僕は、君が望む通りのままでいるよ、いつまでも。それでも、君を置いて、僕が変わっていってるように感じてるんだ。そしてそれが、怖いんだ」

 確認するために、僕は尋ねた。彼女はただ一度、首を縦に振った。

 馬鹿だな、と僕は呟いた。彼女の肩がピクと一つはねた。彼女が完全な大人になったとき、いらないと置いて行かれるのは、必ず僕の方だ。猶予期間を与えられているのは、僕の方だ。それをわかっていながら、捨てられる側の顔をして泣く彼女は、残酷で綺麗だった。

 「……ねぇ、自転車のところにちょっと戻らない?」

 彼女は不思議そうな顔をしたけれど、僕を連れて斜面を上がった。スタンドがしっかり砂に突き立っていること、自転車全体がぐらつかないことを確認して、彼女をサドルに横向きに座らせる。

 「ねぇ、自転車の荷台にさ、ほかの人乗せて漕いだらダメなのは知ってるよね?」

 「流石に知ってるよ。あんまり馬鹿にしないで欲しいなあ」

 「ごめんって。まあ、馬鹿にするつもりはなくてさ」

 僕はその荷台に腰掛けた。それから少し大袈裟ににやりと笑って、彼女の顔を覗き込んだ。

 「こうしたらさ、僕らは何処にも行けないねぇ」

 笑わせたかったのに、彼女の目には涙があふれた。彼女は、いつも僕が思うのとはちぐはぐな行動をする。笑わせたいと励ますほどに、苦しげで孤独な顔をする。僕ではない人が励ましたら、もしかしたら素直に笑えるのだろうか。そんな人が、早く彼女を迎えに来てくれたらいいのに。

 「まだ、まだいいのかな。ここにいて、何処にも行けない私のままで、いいのかな」

 僕の足の爪先に、涙がぽたぽたと落ちて色を変えていく。

 「言ったでしょう、『君が連れて行ってくれるなら、僕は何処へでも行ける』って。君が何処にも行かないのなら、僕だって何処にも行かないよ。だから、ここにいるのは『何処にも行けない君』じゃなくて『何処にも行けない僕ら』だ」

 茶目っ気を出してウィンクしようとして、できなくて、代わりに僕はいつも通りに微笑んだ。「それって、とても詩的じゃないか!」

 その言葉で、彼女はようやく、ぎこちないけれど、笑ってくれた。

 「……ありがとう」

 彼女がそれに言葉を続けようとしたとき、松林を抜けてひと際激しく風が吹いた。

 彼女の麦わら帽子が、ふわりと連れ去られて海に舞った。

 「っ、僕、取ってくるね」

 「……行かなくていいよ!」

 彼女の帽子は浅瀬をふわふわと漂っている。色が色なら、きっと海月だった。彼女の声が、またひび割れていた。

 「置いて行かないって言ったじゃん!」

 「すぐに戻ってくるよ、何をそんなに心配するんだい。水は確かに苦手だけど、それでも僕だって君の役に立ちたいんだよ」

 僕を追いかけようとした彼女は、砂に足を取られて転んだ。顔に砂をつけたまま、僕に向かって叫ぶ。「待って、取りに行かなくていいってば!」

 「何で? 君、あの帽子気に入ってたじゃないか」

 「何でって、それは、君が危ないからだよ!」

 視線があった一瞬、彼女はまた、泣きそうな顔をした。

 「だって、君はぬいぐるみだもの」



 波打ち際、少女は、くまのぬいぐるみを引き寄せた。ずっと片手で掴んでいたせいで、その身体は変形し、手の形に毛並みが乱れていた。その毛に絡まる砂を手で丁寧に払い、同様に自分の服や顔に付いた砂を拭った。

 「……私、いつまでこんなことするんだろう」

 低い声と高い声とを長時間使い分けた喉は潰れかけで、掠れた息に血の匂いが混じった。矛盾がないように考えながら、それでも理想の友人を表現しようと酷使し続けた頭が、もう働きたくないと痛んだ。

 リュックサックに無造作にぬいぐるみを放り入れる。飲まれることなく、ぬるくなってしまったサイダーも。そして魔法を解いた少女は、自転車を押して防風林を抜ける。

麦わら帽子の海月は、誰にも拾われず揺蕩っていた。

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