意欲する 作:奴
私の毛髪は父親譲りである。目を引く癖毛ではないが、伸びれば伸びるほど渦巻く髪をしている。
冬だった。外出を渋っていると髪は自然と伸びつづけ、言ったとおりの渦巻き髪になりだした。あまりにみすぼらしい気がした。冷気に用心して散髪へ出た。
いくらか日が暖かったが、風が強かった。顔にぶつかり道を過ぎ去っていく風はたしかに塊だった。その塊が私の髪を巻き上げた。散髪屋に着くまでにずいぶん気が滅入っていた。
その日は土曜日の夕だったが、客はなく、暇な店員は隅で立ち話をしていた。大衆理容の清潔なかおりがした。
店員が私の髪へ鋏を入れると、私はもう自分の髪が冷たい金属質の鋏で切られる感覚のほかは何も考えなかった。前に通っていたところは探るようにわずかずつ切っていたのだが、今度通っている店の者はたいがい大ぶりに切ってから細かく整える。思いきりがよいやり方だから頭が軽くなっていくのがわかるが、要求以上に切られたらと思うとひやひやする。しかし店員は私の注文のとおりにやってくれるからありがたい。こう切ってくれと言われたら彼らはそのとおり切ってくれる。
命じられたことを命じられたとおりにやりおおせるのは技量である。注文された以上のものを提供するのはたぐい稀なる能力だが、ひとつ間違えれば勝手な行いになる。客を満足させられるのがもっともよい。技量は仕事になる。現に散髪屋は人の髪を切って生計を立てている。こう切れという頼みを聞いてそう切る。頼まれれば洗髪し、ひげを剃り、整髪料などを塗りつけて見映えよくする。人間の社会的姿態を構成する使命を彼らは担っている。たいへんな使命のように思う。
シャンプーに差しかかるころ、そう考えはじめた。私はだれかに注文されたとおりのものを与えられるだろうか。私から差しだせるものはないように思う。労働は何にせよ基礎的な技能が必要だろうが、私にはそれがない。けれども生きるにははたらかねばならない。それが小説ならいっとうよい。私は小説を書く。小説を書いて満足する。私は私のために小説を目下書いている。それが仕事になるなら身を粉にできるかもしれない。だが責任を持てるのか。ものごとが仕事になるのは、責任を持つかわりに金をもらうからだ。金を取るかわりに責任を負うからだ。金をとるからにはいいできのものを与えなければ、仕事のかたちを取っていられない。私の小説は金と責任を抱く力のあるものだろうか。いや、もし、小説を職業にするのは止して、別なことをしながら余暇に小説を書くとしよう。金をもらわずただ趣味として物語をつくるためには仕事で金を得て生活する必要がある。つまり小説のために労働することになる。それはきっと幸福だ。自己を満足させるために仕事をするのだから、すくなくとも意義ある労働だ。労働が嫌になっても、小説を書いているときは幸いだから生きていける。労働のために小説を書いていると言っても無理ではない。だから、結局、私は小説のためにはたらき、はたらくために小説を書くのだろう。ほんとうはその労働が執筆であればいいのだ。小説のために執筆し、執筆のために小説があれば、無上の喜びである。小説を書く息抜きに小説を書きたいのだ。公の小説とそれを支える私的な小説という関係があればあとは何を求めよう。しかし世に出す公的小説はもはや自己満足だけではその要件を満たしえない。公的であるからには公に承認されなければならぬ。人に読まれる小説を書いてはじめて作家たりうる。自分がおもしろい小説は結局のところつまらない小説だ。お前は何のために小説を書いてきたのだ。自己満足のためだ。ではお前はつまらない小説を書きつづけてきたのか。だんじて違う。何のために小説を書くのだ、なぜ小説で生きたいのだ。自分のいちばんの幸せのためだ。それが価値を持って、我が生命のよすがになってくれるならいいのだ。
店員は短くなった私の髪を白いタオルで吹きあげ、ドライヤーで乾かした。注文どおりの頭髪ができた。これが労働なのだ、と思った。
外で偶然女に会い、頭髪のことを聞かれる。髪を切っただけなのに褒められる。ふだんの私があまりに自己の生命に無頓着だからだ。ふつう人が造作もなくやれることを私はいつまでも先送りにして、ひどいありさまで生きている。女は情けないといつも笑う。
労働のことを言えば、女は、労働できるのにしたがらない人間をことごとく許さない。いわゆるニートを女は徹底的に批判する。女自身は食品会社の営業部で、若くして業績を上げている。人のためになるものをつくる会社の商品を売って、人を満足させているのだから、女のやっていることは仕事だ。女はその仕事を好いている。だからこそ仕事しない人を容認しない。
小説を職業にしたいことは、女に打ち明けていない。それどころか、女は私が小説を書いていることすら、知らないはずだ。芸術文化に興味のない女はきっと、書くという行為自体、理解できないだろう。小説をひとつ書き上げるには多くの時間がかかり、また真に幸福を感じるのは書き終えたそのときである。女は非効率だと笑うにちがいない。だから私は一度も小説の話を女にしたことがない。女は私が大学を出たらまっとうにはたらくものだと思っている。いや、どれほど怠惰な人間でも最後にははたらいて家庭を持つものと女は信じている。それはひとつの理想像かもしれない。
大学にいるうちはよく研究し、社会に出たらよくはたらけ、と女は去りぎわ、セリフのように言った。そのころはもう冷たい夜だった。冷えた夜の底を狭い歩幅で歩いた。髪を切ったせいか前よりも頭から冷える気がした。風は真正面からぶつかってきた。
許してくれと思いながら歩いた。はたらける能力も気力もない私を、だれかに許してほしかった。研究にしてもそうできるとは思えなかった。すると私には何もなかった。昼過ぎに目覚めて遅い昼食をとり、部屋にこもって本を読み、そのうち夜が更けても眠れずにぼんやりしている私を、だれか尊大な者に許してほしかった。私は女のことを考えた。もう十年のつきあいになり、女のことはずいぶん把握している。どうしていまだに友人としての関係が残っているのかわからない。女はいつまでも私に愛想を尽かすことなく、むしろいたぶるために私との仲を保っているようだった。女はどこまでも社会的に真っ当な人間である。日々、勤労して生きている。朝六時に起き、シャワーを浴びたあとで食事し、夜まではたらいて外食のあと九時前には帰宅し、時間をかけて入浴して零時前には眠りにつく。休日でも変わらぬ時間に置き、近所の大きな公園でランニングをしたあとで遅い朝食を食べ、平日にできなかった洗濯・掃除をやり、プールで泳ぎジムでトレーニングをしたあと、映画か買いものをして過ごし、すこし豪勢な食事を楽しんでから、夜は早めに寝る。隙のない有意義な生活にみえた。女に勝てる部分は私には一つもなかった。高身長で美しく、有名大学の経営学科卒で、労働と余暇の両方をうまくやりくりしている女に、私が打ち勝つ方法はない。私は女に許してほしいのかもしれなかった。あらゆる点で優れているこの女に、何ごとをも成せない私の大愚を容赦してほしいのだろう。
赤信号で止まった。
女の姿がありありと浮かぶ。大きな目が、私に情けないと笑いかけて細くなる。その目に射殺されたきり私は女を信仰していた。その神のごとき女に、仮に助けを求めたとしても、生やさしい救いなど施さず、自業自得や自己責任ということばで私の首を絞め、わざと皮肉っぽい口ぶりで慰めてくるにちがいなかった。その間断なき緩やかな絞殺に等しい慰藉でも、今の私にはきっと救済になる。むしろ殺してくれてよかった。その長くしなやかな指の伸びる大きな手で、ぐずぐずしているこの私を、利益にならない行為ばかりしてむやみに過ごしている罰で握りつぶしてはくれないか。迷妄な人間に、罰という救いを、血のバプティズムを、もたらしてはくれないだろうか?
夜の帰路は恐ろしく長く、いつまでも宅が見えなかった。冬はもうしばらく続く。皮膚の表面は空間とともに凍てついている。時間は、いや時間と生命だけは、氷の張った川の底を流れる水のように、凍てついた世界の底で緩やかに確実に流動している。
青。渡った。鼻息まで白かった。
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