第3話 愚痴を聞く

 幼い頃から、母の愚痴を聞くことが私の大事な責務でした。


 母は周囲の人の苦悩を抱え込みがちで、またそれを抱え込めるくらいには強い人でした。皆が母を頼ります。


 ですから、母の不満の捨て場所は私でした。




 高校生になってから一層、母の愚痴は節度がなくなりました。


 我が家系には代々伝わる浪費癖があります。それで親族一同あっちこっちで借金をこさえたことがありました。

 母はその借金の相談に乗り、時に肩代わりして、目に見えて疲弊していきました。


 そんな母を支えるのが私の役目だと分かっていましたが、正直言えばまだ社会に出たこともない私なんかに答えを求めないでくれと泣き叫びたいほどでした。


 学校、試験勉強、部活動、公民館の手伝いをそつなくこなす振りをして、その傍らで母の愚痴を聞きました。




 遠方の短大に入学するのをきっかけに一人暮らしを始めました。


 それでも毎晩毎晩母から愚痴の電話があり、三時間は必ずそれに付き合いました。時には夜明けまで。


 毎回似たような話です。前回の続きと装って何の進展もない愚痴なわけです。

 私以外に宛てた罵倒の言葉も、愚鈍な私は愚直に真摯に聴きました。


 そうしながら大学のレポートと資格勉強と実習とアルバイトと履歴書のためのボランティアを休みなくローテーションしていました。


 この頃から自分が人に相談されやすい質だと気付き始めました。


 大学に行けば後輩から進路の相談をされ、大学の先生から旦那への不満を聞き、アルバイト先では職場の悪口、ボランティアでは同期の恋の悩み、実習先で親しくなった人から受ける誰かへの愚痴。


 だんだん彼らの言葉の攻撃性が、もしかして私に向けられているものではないかとすら思えてくるほど声高々に悪感情を吐くのです。


 一度だけ「もう愚痴は聞きたくない」と友人に吐露しました。


「どうせ、これまでも真剣に聞いてくれてなかったんでしょう!」


 凄まじい勢いで糾弾されました。私は彼女の繊細な心を足蹴にしたのです。

 一方的に絶縁を告げられ、友人とはそれっきりでした。




 そんな中に身を置いて思ったことは、私は絶対誰かに愚痴など言うまい、ということでした。


 だって不毛なんです。生産性は欠片もないでしょう。

 自分に解決できないことが赤の他人に解決できるわけもありませんから。


 その問題が自分の勇気一つで変わるなら愚痴など言う必要もないし、勇気一つも振り絞れない人間がアドバイスを素直に受けて行動に移せるためしはないのですから。


 それに、愚痴を言っている人間の顔の醜いこと。

 一度「人から相談を受けるのが辛い」という相談を長すぎる長電話で受け続けた時にはおかしくなって笑ってしまうかと思いました。


 そんな風にしゃに構えた気になって、表面上は笑顔で親しみやすい人を演じて、私は擦り切れていきました。




 眠れないのです。昨日と今日がずっと地続きです。もう味も分からなくなるほど飲んだ珈琲をまた自分を責めながら淹れて飲んでしまいます。珈琲を入れている間だけが無心で落ち着けます。それ以外はずっと落ち着かないのです。きっと今にも窓から不審者がやってきて私の浅ましさを炙り出して責め立てながら殴られるのです。引き摺られて何処かに誘拐されるでしょう。姿を一瞬でも見せれば一巻の終わりだと分かります。カーテンを開けられません。窓を開けて換気をすることもできません。外に出ることも怖ろしいのです。買い物に行けません。今日は珈琲しか口にしていないけれどお腹が空きません。吐いたら口から茶色い液体が便器に零れるばかりで喉が焼けそうに痛みます。痛みがあって眠れません。眠らないまま昨日と今日が区切れないなら一体どこで着替えたらいいのでしょう。着替えるタイミングを逃して今日も洗濯しないままのパジャマです。体から異臭がします。ゴミ出しに行けていないので部屋の隅の生ゴミの袋に小さなブトがたくさん貼り付いています。アリもアブもゴキブリも私と住んでいるようです。それに何も思いません。肌が荒れて両腕の皮膚が泡立って見えます。フケが首筋に落ちてきます。虫なんかよりそっちのほうがよっぽど気色悪いんです。自分が気色悪いんです。鏡が見れません。きっと頭のおかしな人間が映っているからです。そして姿を映せば、奴らに見つかるでしょう。不審者はどこからでも見ています。私は奴らに見つかって連れていかれて殺されるんです――。




 ――その後、私はどうにか精神科の病院に行くことが叶い、この極端な精神状態からは回復しました。





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