第2話 動物園
彼女とは約束通り、翌日に待ち合わせをした。
動物園だった。
獣臭が苦手な私は普段なら遠慮願いたいところだったけれど、彼女が「死ぬ前に一度……」とか細く申し出たため、やむなく動物園に来た。
私たちは顔を見合わせ、お互いが約束通りに集まったことに揃って驚いた顔をして、無言で園内を歩き出した。
彼女は今日は、藍色に小さな花弁の散ったシャツを着ていた。
彼女が動物を見るともなく見ながら、ぽつりぽつりと言葉を落とした。
「昨日は、私、目一杯自分へご褒美をあげようとしたのです。これまで頑張って生きた、ご褒美」
「どんな、ご褒美だったのです」
私の問いは、行儀を繕う合いの手ではなかった。本気で彼女をもっと知りたかった。
「一つ一つ挙げていったらキリがありませんし、きっとつまらないわ」
「私は構いません。どのみち一周するのに一、二時間はかかるでしょう」
彼女は出会ってからにこりともしないが、この時は少々目元を緩めた。
「……まずは、憧れのカフェに一人で入ること。カフェで新刊の本を読んで、ミルク珈琲と評判のチーズケーキを頼むのです。それはもう叶いました」
彼女の声は平坦だった。
「それから、服も。あのフリルがついた白いワンピースは憧れだったのです。余程勇気がなければ着れませんもの」
「それは、何故でしょう」
「それは、だって、美人でなければ似合わない格好ですから。こんなおばあちゃんが着たりして、きっとお笑い種だったことでしょうね……。でもいいのです、今日で死ぬもの」
そんなことはありませんよ、と言うのはむしろ酷な気がして私は黙っていた。
そこに彼女は死の理由を見出しているのに、それを今日昨日会ったばかりの私が踏み込んで良いものか、いや否だ。
「それに、髪の毛」
彼女のご褒美の話は続いた。
「私、昨日は髪の毛を下ろしていたでしょう」
「ええ、今日は結んでいますね」
「そうなのです。昔から髪はひっつめにしてばかりなのです。母はみっともないからとよく言いました。学校でも結んでいなくてはなりませんでしたし……。
髪を解いて出歩くことが怖いのです、何か異常に、背徳感を覚えてしまって。お分かりになりますか」
「いいえ、何とも……」
「そうでしょうね」
彼女はそこで会話を打ち切った。だが、怒っているのとも違う気がした。
ぐるりと動物園を一周し、私も彼女もそれなりに楽しんだ。
出口のゲートに差しかかる前に、一度歩みがとまった。
彼女が悔しそうに俯いた。
「あなたのお話もきちんとお聞きしたかったものですわ」
「私のこれまでなんてつまらなくて、とてもとても……。良いのです。これが、良い幕引きです」
穏やかにそう諭すと彼女は自身に言い聞かせるように頷いた。
そして、再び歩き出そうとした時、彼女は敷き詰められた
「あ、」
私は咄嗟に彼女を支えようとして、半ば共に転んでしまった。
何とか互いの手を掴んでふらふら立ち上がる。
若いカップルが横を通り過ぎていく時、私たちに小声で吐き捨てた。
「老害が」
胸が引き千切られる寸前まで、軋んだ。
きっと彼女も同じ思いだった。
私たちは年老いて皴だらけになった互いのその手を意識したわけでもなく、強く握り合った。
老害、とは
そして、その若者らが壮年、中年と月日を経れば自分の両親が老いていく。
そんな両親までもを鞭打つ言葉を――多くの常識ある人は――決して不適切には使わなくなっていくことも人生経験上知っていた。
私が掴んでいる反対の手を彼女が動かした時、「痛い……」と呟いた。
こけた時、おかしな方向に手首を曲げて地面に手をついてしまったらしい。骨折していてもおかしくない。
私はすぐさま彼女に「病院に行きましょう。心中はいつでもできます」と断固として告げた。
彼女は迷った。
「……どのみちこのまま、この世から、消えてしまえば良いのではないかしら……」
私はその絶望し切った呟きには、揺るがなかった。
「あなたの最期を、怪我をした辛い思いや痛い思いで終わらせたくはありません。私も付き添いますから」
彼女は申し訳なさそうに目を伏せたまま、痛むほうとは逆の手でしっかり私の手を握り返してくれた。
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