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僕は奇跡を信じていない。だけど、もしかすると世の中のどこかには、奇跡と呼べるものがけっこうありふれているのかもしれない。
壮絶なカーチェイスが行われた結果として、奇跡と呼べる出来事が起きた。暴走運転をしていた2人の高校生は、2人とも軽傷で済んだ。一度は現場に駆けつけた救急車で警察病院に運び込まれたが、細かいかすり傷はあったものの、目立った外傷もなく、むち打ちなどの症状も認められない。
交差点で横合いから飛び出してきた白いワゴン車のドライバーは、40代女性で酒気帯び運転をしていたが、こちらもまた、特に目立った傷はなかった。特に、ワゴン車の方が頑丈だったと言うこともあり、ブレーキ音やクラッシュ音が大事故のものだったにもかかわらず、両車両含めて怪我人ゼロという、まさに奇跡としか言いようのない出来事だった。ちなみに、白いワゴン車の女性は、酒気帯び運転と交差点での確認不足の飛び出しにより交通課で取り調べを受けたということだが、特に事件性はなかったとのことだった。
高校生の女子2人組、祇園と天神は、盗難車を無免許運転し、逃走中、飛び出してきた車と事故を起こした。2人は、病院で治療と検査を受けた後、警察に逮捕された。警察の留置場に、別々に入れられ、警察官から事情聴取を受ける。しかし、なかなか有効な証言が引き出せないまま、聴取は遅々として進まず、挙げ句、
「弁護士呼んで」
と、口々に言い出す始末。しかし、バイトと言えばファストフードかコンビニくらいしかしたことがない普通の高校生が、お抱えの私選弁護士を持っているはずもなければ、手に入れたお金は全部使い切るのが前提で、貯金があったはずもない。そこで呼ばれたのが、この日、当番弁護して待機していた僕だった。
僕の名前は、神田。まだ、弁護士として活動し始めてから、年数も浅ければ、当然、実績も経験も乏しい、駆け出しの弁護士。だからこそ、刑事事件を一つでも多く担当して、キャリアアップしたいと思っている、国選弁護人だ。
当番弁護制度での初回の接見は無料と決まっている。僕は、2人ともに話を聞くことにした。もちろん、あくまでも最初の一回は無料で、もしその後、容疑者たちが僕に弁護を依頼したいと強く願ってくれれば、担当することになり、そうしたら、税金から報酬が支払われることになるだろう。僕としては、初回は特に重要だったというわけだ。
ただし、国選弁護人がつくには、被疑事実があまりにも軽いと、そもそも要求することができない。今回の2人の容疑は、車の窃盗、無免許運転、そして、殺人。その他諸々の余罪を全て無視しても、第一級の犯罪であり、国選弁護人がつくのは当然と言ってもいい事案だ。
殺人の被害者は、20代後半の男性。
彼女らが盗難した車の持ち主で、事件当夜、包丁でその身体を刺し貫かれて、死んでいたのが発見されている。すでに警察は殺害現場の実況見分を行い、この殺人に関係しているのが、祇園と天神であるというところまでは確定している。
ただし、捜査の結果、もうひとつ、はっきりしていることがある。
犯行を行ったのは、どちらか1人。現場の状況と死体の状態から、共犯ではなく単独犯。
これは、鑑識の報告からも一致しているという。犯行を行ったのは、どちらか1人。ただし、そのどちらが犯人なのか、科学捜査でもはっきりしないという。
警察の取り調べは、すでに20時間以上行われている。しかし、2人の容疑者は、どちらも、事件の核心については話さない。その挙げ句が、雇う財力も貯金もないのに、「弁護士を呼べ」だった。警察は困り果てたが、容疑者の権利を無視するわけにもいかない。のこのこ出かけていった僕を、警察官も刑事も、みんなにらんでいた。そして、初回の接見の結果、あくまでも「自分はやっていない」と主張する2人の、僕は弁護を引き受けることになった。
捕まっているのは、2人の高校生女子。
そのどちらもが容疑を否認しているが、事実は一つ。
そのどちらかが、人を殺した。
「気分はどうだい?」
僕は、祇園さんと2度目の接見をした。殺風景な警察の留置場にあって、彼女の顔はまぶしい笑顔で埋め尽くされた。
「マジ最悪」
にっこり笑顔で、本音を言う。
「刑事の人たちって、何であんなに、偉そうなの?」
「何か、嫌なことされた?」
「怒鳴ったり、机叩いたり、とにかくうるさい」
祇園さんは、そう言いながらも、まっすぐにこっちを見てくる。迷いのない眼で。
「取り調べとしてはありがちだね。でも、物理的には何もできないから、安心して。何か、しゃべった?」
「何にも。いいんだよね?」
「もちろん。あなたには黙秘する権利があります」
「それ、映画とかで見たことあるー」
祇園さんが、笑う。こうしてみると、普通の女子高生、というには、少し大人びてる気もする。
「でも、嫌な気分にばっかりなるから、もうやめたい」
「そうだろうね。でも、もう少ししたら快適になるよ」
「じゃあ、無罪放免!?」
面会室の僕と祇園産の間を仕切るアクリル板を、突き破らんばかりの勢いで、祇園さんが身を乗り出してきた。
「気が早いね。実際に無罪になるかは、きみの証言次第だよ」
「ここ、暗くて狭くて嫌い。早く太陽の光を浴びたいよ」
祇園さんは、全身の力を抜いて、パイプ椅子の背もたれに寄りかかった。
「もう少しの辛抱だよ。警察での留置期間は、あと24時間」
「ねぇ、弁護士さん。ここから出して。出してくれたら、いいことしてあげるから」
祇園さんが、椅子から身体を離し、顔を近づけてきて、小さな声で囁いてくる。
「ななななにをバカなことを言ってるんだ! 大人をからかうんじゃない!」
わかりやすく顔が上気して真っ赤になった。幼い頃から、あがり症で、赤面症の僕は、とても内心の動揺を隠すことができない。
「いいじゃない。見張りもいないし、2人きりなんだし……」
アクリル板の向こうにいる、まだ10代の、10代のはずの女の子が、女の顔をしてこちらを見つめてくる。目を離すことができない。
「今、話してることって、誰にも聞かれてないんでしょ?」
弁護士との接見には、秘密交通権という、後々の捜査や裁判で不利にならないように、被疑者と弁護士が会話するときには、立会人なしで接見できる権利がある。それについては、初回の接見の時に説明済みだった。
「そうだけど、刑事も検察も、決してクリーンな組織じゃない。いざとなったら盗聴でも何でもして、それを証拠扱いしてくる可能性だってあるんだから、不用意な発言には注意して!」
「はいはい。弁護士さんって、案外うぶなんだね。彼女とかいるの?」
「その質問には答えない。でも、信じてほしい。僕は君たちの味方だ。だから答えてほしい。きみが、殺したのか?」
祇園さんが、再び椅子の背もたれに寄りかかる。全ての物事に興味が失せたように、
「黙秘します」
かと思ったら、満面の笑顔になって、
「ねえ、天神は? 元気?」
と、訊いてきた。
「天神さん。調子はどうだい?」
祇園さんがまったく必要な情報を明かさなかったその後で、今度は入れ替わりに、天神さんがやってきた。祇園さんがしっかりしてる感じがするとすれば。天神さんは、どこかふんわりとした印象の女性だ。
「あ! 神田さん! お元気ですか?」
祇園さんとは、真逆のタイプに見えるけど、どうしてこの2人が友達なのか、ちょっと不思議だ。
「僕は大丈夫。元気そうだね」
「でも、ここのごはん、あんまり美味しくない……」
笑顔一転、ものすごく不満そうに顔をゆがめてしまった。
「グルメなんだね」
「というか、全然足りない。お腹が空いてしょうがない」
といいつつ、お腹が鳴っている。
「食事、ちゃんと食べさせてもらってる?」
「さっき食べたばっかり。これは、消化中の音」
お腹の音を聞かれて、多少恥ずかしがっているらしい。
「あと、味付けが薄い気がする。食べたことある?」
「あー、研修の時に、一回だけ。サバの煮付けと肉じゃがだった」
「さっき、肉じゃが食べた」
「美味しいよね。サバはどうだった?」
「魚介系、食べないから……」
「アレルギー? だとしたら、伝えておかないと」
「魚介系全般、やめてほしいです……」
魚介系はNGと、メモに書いておく。
「こんな文句言ってるの聞かれたら、怒られるかな?」
誰かに聞かれることを警戒してか、一応小声で話してくる。
「怒られるかどうかは気にしなくていいよ。僕から、料理担当者に伝えておくよ」
「あと、ごはんの量は増やしてほしい!」
「はいはい。大盛りでお願いしておきます」
「やったー!」
たったこれだけのことで、心底喜んでくれると、こっちの顔もほころぶ。
「神田さんは優しいですね。ねぇ、いつ頃出られます?」
「きみが、大事なことを思い出したらね。きみとお友達、どっちが彼を殺したのか?」
さっきの笑顔が何だったのか、本当に同一人物かと疑ってしまうほど、不満を顔の全面に表しながら、彼女は困り果てて言った。
「そんなこといったって、何も覚えてないから……どうしようもないです」
天神さんは、交通事故の影響で、記憶を失ってしまっていた。
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