路草 - 全 -

くまべっち

路草

 白樺青空 様


 前略


 また日野寺は雨でした。あなたとお会いした日も、同じように雨がしとしとと降り続いておりました。あなたは、大きな一眼レフのカメラを抱え、雨にぬれそぼる境内のあちらこちらを、丁寧に愛でるように撮影されていらっしゃいました。あの日お会いした、此花作也です。覚えていらっしゃいますでしょうか?

 思えば、私が手に持っていた『トニオ・クレエゲル』を見て、あなたが私の存在を認め、話しかけてくれたのでした。それがまさか、私の祖父の教え子の方だとは思いもよらず。大変に驚いたのを、今でも思い出します。祖父が亡くなって、もう、半年になります。その間、家はバタバタでした。遺品の整理だけでも重労働で、ただでさえ広い屋敷が、より一層広く感じられました。まるで、空間と時間がねじ曲がったかのような錯覚に陥りました。物言いが大げさですか?

 それには理由があります。遺品を整理していたところ、祖父の手記を見つけました。膨大な量の手記です。元々、祖父は達筆なので、読みにくいことはなかったのですが、なにぶん、半世紀以上前のものから取ってあり、保存状態も決してよかったわけではないので、半分ほどは読むのを諦めることとなってしまいました。ですが、残された手記によって、祖父にとって日野寺がどういう場所だったのか、そして、あなたが祖父とどのような関係だったのか、多少なりともうかがい知ることが出来ました。

 これから述べるのは、私の嫌いな祖父についてです。読める範囲のものは、可能な限り転記して、ここに綴りました。あなたがこれをどのように受け取るかは、私には分かりません。ですが、もし一粒でも祖父の運命に対して流す涙があるとするならば、それは、私には理解できないが、あなたには理解できることなのかも知れません。血縁でもないあなたになら、もしかすると、正しく祖父のことを理解していただけるのかも知れないと思い、この手紙を送ります。

 もしあなたも、わたし同様に、祖父の心のありかを探しているのならば。


 196○年4月8日

 念願の大学に入ることが出来る。心底からの喜びを感じざるを得ない。家や家人の思惑に縛られて生きることの、なんと退屈なことか。いや、人間というものは、病や戦争で死ぬのではない。肉体的な死など、充実した人生の終焉としては立派と云えるではないか。ただ退屈だけが、本当に心を穏やかにさせ、つまらなくも本当の意味で死んでいくのだ。学問の世界には、如何程の退屈凌ぎがあるのか、今から楽しみではないか。


 4月20日

 なんたる無礼千万な奴か。憤りで筆を持つ手が震えている。確かに此方は浅学非才の身。であるからこそ学びに来ていると云うに、何を事欠いて、馬鹿だの阿呆だのと言いたい放題。確かに、小生は文学を読んだ数とてさほど多くない。家が厳しく、小説だのロマンなどと言うものは、文学といえど手を出すことを禁じられていた。実学をこそやれと。而して、あんな奴輩が我が同輩とは。文学も地に落ちたものだ。大体、それを一緒になって笑うあの講師、名はなんと言ったか、そうだ、柿沼だ。柿沼三郎太。どこぞ没落した家柄の三男坊。彼奴も彼奴だ。確かに、インテリではあるのだろう。数年間、独逸に留学もしていたと聞く。しかし、糞尿のごとき奴輩と同じレベルで笑うなど、いけ好かぬ。あのような軟弱な男は好かぬ。大事なことだから、何度でも書く。好かぬ!


 5月8日

 講義というものは、講師が学生にその知識を開陳し、学生はもれなく吸収し、以て互いの研鑽に励むことを意味するはずだ。あの柿沼三郎太なる三流講師は、小生の独逸語の発音がまずいと笑いおった。グウテンタァク。何がおかしい。あのような失礼な講師に、学ぶことなどあるものか。そう思い教室を出て、学長室へ向かった。辞めさせてやる。たかが講師の一人や二人、何ほどのものか。そう決意を固めていたのに、あの柿沼彼奴は、あろうことか追いかけてきおった。大いに笑いながら、謝ってくる。「済まなかった。いやあ、傷つけて済まない」「決して君の発音を笑ったのではないんだ。あまりにも真剣で、君が緊張している姿が」言葉を一度切り、その後、「面白かったものだから」またもや吹き出した。勘弁ならん。しかし、やんわりと笑顔で誤魔化され、まあまあと諭されてしまった。なんとなく、此奴には真面目に対抗するのが馬鹿馬鹿しくなり、まるで責めている此方が悪いことをしているような気になってしまう。本当に、馬鹿馬鹿しい。


 5月15日

 先週の恨みは、一週間で晴らした。馬鹿にされたのが、小生の態度の問題であるならば、徹底的に予習して何度も練習することで、緊張しないように対策を講じたのだ。どんなものだ。学級の連中の驚く顔、顔、顔。しかし何より、柿沼三郎太を驚かせたのは、最大の収穫であった。どんなものだ。ところが此奴め、何を思ったか、ぬっとその腕を此方に伸ばし、なんとも予想外のことをしてきた。小生の頭に手を置き、ぽんぽんと二回叩いたかと思ったら、手を軽く丸めて、髪の毛をくしゃっと握り、「よく頑張りました」とのたまいおった。学級の連中から、また大いに笑われた。小生はその辺の餓鬼ではない。


 6月1日

 講義の終了後、帰る際に、雨がしとしとと降り出していた。朝には降っていなかったので、油断していた。傘の持ち合わせがない。次々に構内を出て家路に就くやら、カフエに入り浸るやら、小生以外の学生たちがいなくなる。しかし、かくいう小生は動くこともままならぬ。そこに、誰あろう柿沼彼奴が、傘を差しだしてきた。受け取ろうとすると、引っ込められた。「違う違う。二人で一緒に使うんだ」だと。一言で断った。ところが此奴、強引に傘に招き入れてきた。大の大人が二人して一本の傘をさしていた。柄を持つ手が触れた。路行きが違う。日野墓地を回った。家とは真逆である。「たまには路草を食もうではないか」大学から家とは真逆の方向に進み、日野墓地を抜け、日野寺へ。路端に生えている草など食べぬと答えると、またもや笑われた。此奴は、何かとあれば人を笑う。その辺りに生えている草など食うわけがないとむきになり白い花を咲かせた草を指さすと、「それは、そばの花だよ」と言われた。そばと言われたらあのそばしかないが、そばが、そんな草花だとは思っていなかった。この辺りでは、そばが有名らしい。そんなことを言うものだからそばを食べたくなったが、そば屋は既に店じまいしていた。「また今度、そばを食べに来よう」そう約束させられてしまった。


 6月28日

 梅雨の長雨に、心がざわつく。柿沼とは、日野寺に行って以来、しばらく会っていなかった。講義を休んだのではない。講義が休みになっていた。気にするのもおかしいと思いながら、何故か気になっていた。そして、今日。彼奴は久方ぶりに大学に姿を現した。「しばらく、病で伏せっていてね」聞いてもいないのに、勝手に言い訳をしてくる。腐った女子のような奴だ。口先ばかりで。講義が終わった後、学生のいなくなった教室で、二人きりになった。雨が降り続いていて、ジメジメしている。また傘を忘れたのかと聞かれた。傘ならある。気になることは此方にもある。熱はないのか。柿沼の額に触れてみた。梅雨の湿気にさらされているのにも関わらず、さらさらなその前髪をかき分けた。白い。透き通るような肌に触れた。熱があった。誰の。顔が紅くなった。何も言わずに、その場を後にした。何をしているのだ、自分は。


 7月1日

 雨が久々に止んだ。かと思えば、途端に暑くなった。図に乗って路草を食んだ。すると、怪しげな雲が広がり、あれよという間に、大雨が降り出した。慌てて、境内を横切り、お堂の軒下へ雨宿りした。既に夕刻を過ぎて、人気はない。僕たち二人以外は。二人とも、びしょ濡れだった。柿沼が、僕を見つめる。その顔が憎い。「僕に会えなかった間、どうしていた?」何故そんなことを聞く。「僕は、君のことを考えていたよ?」何故そんなことを云う。「僕は、貴男が嫌いだ」そう言い張ってやると、柿沼は笑った。笑いながら、僕の手を取った。「僕たちは、互いに好いてはいない。路を外れているからね」何を言っているのだ?「なんだろうね。それが分かったら、文学ももっと読み解けるのかも知れない」雷が鳴った。


 7月5日

 どれだけ考えても、答えが出ない。夏だからだ。頭がぼうっとしている。僕は貴男に会いに来た。文学について語り合うために。「違う。君は僕のことが忘れられないんだ」何を言うか。「君は、僕のことしか考えていない」卑怯だ。そう仕向けたのは、他ならぬ貴男ではないか。「ああ、瑞樹。瑞樹。美しい青年よ。君のその男の顔が、今はとにかく愛おしい」此奴は何を言っている。何かを言っている。それは、言葉だ。言葉とは何だ。こうして言葉を考える私とは何だ。言葉とは、私とは、僕とは、小生とは、誰だ。


 7月16日

「時よ止まれ、お前は美しいから」ギョエテは、その大作『フアウスト』の中で、悪魔メフィストフェレスとの賭けに敗れた博士にそう言わせた。「時よ止まれ」と。今その瞬間こそ、最高の瞬間であり、その瞬間が、永遠に続くように。時を止める。なぜならば美しいからだ。時などがなまじうつろうから、人は愚かにもなり腐りもする。だが、「時が止まれば。止まった時の世界で、私は何を思うのだろうね?」そんな問いに対する答えを、僕はまだ持っていない。


 7月21日

 たった二人の文学講義は、日野寺の境内で何度も行われた。思えば、初めて日野寺に訪れた時、何故、この男は、私を傘に入れたのか。たかが学究の徒とも言いがたい、ただの学生である私に、何を思ったのだ。はたと気づいた。「嵌めたな?」私の呪詛のごとき言葉も、「たまには路を外れて食う草も、いいものだろう」この男には、まるで逆に意味に聞こえているようだった。そして、僕の身体にも。悪魔に魅入られたが如く言うことを聞かない私の身体が、ヴィヴィッドに反応する。「路草だよ」メフィストフェレスの声が耳の奥まで響く。ぼんやりとする視界の端っこに、そばの花が白い。


【検死報告書】

 氏名:此花瑞樹

 性別:男

 生年月日:昭和○年9月9日

 死亡したとき:令和△年6月□日 午前10時31分

 死亡したところ:東京都C市日野寺元町五丁目十五番地一

 施設の名称:日野寺

 死亡の原因:溺死、日野寺境内の池の中に横たわるように水没死

 解剖:有

 所見:争った形跡もなく、不審な点は見受けられず。他殺の可能性なし

 死因の種類:外因死、自殺


 8月3日

 裏切り者め。何が、体調を崩していただ。ひととき、講義に来ていなかったのは、実家に呼び出されていたからではないか。なんてことを。この糞野郎。僕の心を弄んだ。聞いてないぞ。大学を辞めて、家を継ぐなどと。三男だから気ままに生きているんだなど嘘ではないか。兄が二人とも列車の事故で亡くなったせいで、家に帰らなければならなくなったなど。既に、結納も済ませ、結婚の日取りも決まっているという。そんなに家が大事か。この嘘吐きめ。お前をつなぎ止める女性はどんな女性だ。反吐が出る。この、嘘吐きの悪魔め。


 8月4日

 もう何もやる気が起きぬ。


 8月10日

 手続きのために大学に来た貴男を、捕まえた。何度も何度も逃げられたが、もう逃がさない。とっぷりと日が落ちている。夏の夕暮れだ。紅かった空が、すぐにも暗くなった。暗闇の日野寺で、詰問した。何度も何度も、此処で逢った。あの雨の日から、何度も。文学について教えを受けた。独逸文学を教えてくれたのは貴男だ。貴男から以外誰から学べと言うのだ。しかし、僕はそれ以上は詰め寄れなかった。嗚呼、ここで貴男は僕にすがるべきだったのだ。何故、何故、共に生きようと言わない。言ってくれない。言ってくれさえすれば。しかし貴男の口からは謝罪しか出てこない。僕の口からは罵りの言葉しか出てこない。嗚呼、なんてことだ。反吐も出ぬ。


 8月15日

 盆の時期だ。親戚が家の中をバタバタとしている。喧噪は嫌いだ。一人で過ごした。


 8月31日

 夏の盛り。大学の休みも、そろそろ明ける。空が青い。雲がもくもくと立ち上り、空に向かって屹立している。西の空に、怪しげな雲が広がっていた。そのうち黒々とした世界が広がり、かと思うと、一気に水滴が地表を打ち付けるように激しく降り注ぎ、世界は濡れそぼった。日野寺に来る時は、いつも雨だった。僕たちは、いつもぐっしょりと濡れていた。今日のこの日も、ずっと雨だった。ただただ、僕は一人で濡れていた。忘れはしない。


 時よ、止まれ。


 9月9日

 大学を辞めた。独逸文学を学ぶのは楽しかった。多くを身につけて、知識の泉と文学と哲学の世界に浸ることは、私のライフワァクになると思った。大学を辞めたのは、ひとえに、家の都合だった。盆の時期に妙に親戚連中が家に来ると思ったら、一大事が起きていたらしい。我が此花家なんぞでは、まったく釣り合わない名家の旦那様とやらが、なぜだか私を見初め、ぜひ娘を嫁がせて欲しいと言ってきていたらしい。そのことを、当の本人である私に相談もなく、勝手に親戚一同で決めていたと云うから呆れる。三流の家柄でしかない此花家としては、長男の見た目などという何の価値もない要素のおかげで、労せずして名家と縁戚を結ぶことができるのだ。二つ返事で了承したらしい。何度も云うが、本人に相談もなくだ。そのおかげで、9月に入ってからは、ずっと家人とケンカの毎日であった。こんなことで、学問を辞めたくはない。しかし、家の安定と繁栄を願うのは長男の責任だと、一族郎党から責められた。さすがに、親戚一同を相手取っては、此方も分が悪い。条件を付けた。婚姻は結んでやる。しかし、大事なのは家同士が縁戚を結ぶことと、跡取りが欲しいだけのはずだ。だから、跡取りを授かったら、大学に戻ることを条件にした。至極あっさり了承されたのは、私自身には特に価値がないせいだが、三流の家柄などこんなものだ。反吐が出る。この反吐は、詰まることがない。


 10月30日

 女が来た。結納などで何度も逢いはしたが一度としてこの女を好いと思ったことはない。欠片も。なんとなれば、嫌いだ。初対面の時から、もじもじとしていて、何処かで会ったことが有るような素振りだったから聞いてみたら、日野寺で1人たたずんでいた私を見ていたらしい。馬鹿にしている。思い出を汚すな。あの地は、お前のような愚かな女が踏み入れていいところじゃない。 終生、日野寺には近寄らないように言いつけた。


 半年後

 夜の作業は、淡々とこなしていた。女が声を出したから、口を塞いだ。耳障りだった。女というものは、口を閉じることが出来ない生き物なのか?


 1年後

 死産だった。母体は元気だったが、子は死んだ。


 2年後

 女児が生まれた。まだ、続くのか。


 5年後

 3人目で、ようやく男が生まれた。女、女、男。しかし、身体が小さく、弱々しかった。不安だ。


 7年後

 5人目で、次男が生まれた。長男も順調に育っている。


 10年後

 読み書きが出来る年齢までは面倒を見た。後は、愚妻と家の者に任せることができると判断した。学問に復帰することにした。遅れを取り戻さなくてはならない。もう二度と、大学を離れない。久しぶりに大学へ足を踏み入れたとき、講義の後、路草を食んだ。日野寺。独逸文学の時は止まったままだった。今日の傘を持つ手は、私1人の手だった。その手に触れるものは、ない。


【柿沼三郎太から、此花瑞樹へ】

「愛しい君よ。君の姿を、初めて教室で見かけたとき、そこに、ウエルテルがいるような、いや、トーニオ・クレエゲルがいるような、いやいや、ともかく、文学の世界から飛び出してきたおどおどとしたナイーヴな少年がいると思い、ドキリとした。早鐘がなるとはこういうことだったかと。文学を理解したのは、真にこの時であったに違いない。路ならぬ想いだというのは承知している。でも、僕は君に恋をした。これは、誠の心だ。誠心誠意の心だ。許されぬことだと分かっている。路ならぬことだと分かっている。だが、だからこそ、その路を選びたいのだ。時として、路端に生える草を食むのだ。そう君に何度も言った。君は路傍の草などではない。だが、そうでも言わねば、気が狂ってしまう。君をつなぎ止めるには、言い訳が必要だった。愛している。ラヴだ。この想いは、終生変わることがない。『時よ止まれ、お前は美しいから』今なら、分かる。フアウスト博士がメフィストフェレスと賭けをした意味が。この時を永遠のものにしたい。嗚呼、もう私の人生は、ここで止まるのだ。愛してくれ。愛すから」


 大学に問い合わせてみました。祖父・此花瑞樹は、大学に入り直してから、柿沼三郎太さんと同じ講師の職を目指しました。柿沼さんと同じ大学、同じ職業。ところが、柿沼三郎太さんは、当時、大学を辞めてからの消息が分かっていません。手記にあったとおりに、兄二人が死に、代わりに家を継ぐ予定のはずでしたが、家は継がず、どこかへ消えてしまった。文字通り、消えてしまったのです。その後も、祖父は、何度も何度も、日野寺へ行っています。何十年もの間。数年前に、あなたと出会ってからも。この数年の祖父は、生き生きとしていました。私たち家族には決して見せない、生気に満ちた姿。祖父は、家を忌み嫌っていました。自分を縛り付ける腐った鎖のようなものだと感じ、家に寄りつかず、大学に復帰してからは、日が昇ると大学に行き、日が落ちても大学に詰め、学問を修め、講師になり、教授になり、教授退官後も、日野寺のそばの大学で、講師として院の教鞭を執り続けた祖父。あなたに出逢ったことで、祖父は、かつての青春を思い出したのです。あなたに恋をすることで。気づいていましたよ。祖父と、恋人だったのでしょう? まさか私も、74歳の祖父が、50歳も年下の大学院生に恋をするとは思いも寄りませんでした。ですが、あなたと会ったあの日、納得しました。あなたは、祖父にとって、その生涯を懸けるに値する、マリーエンバートの恋人だったのでしょう。だから、祖父は、時を止めたのです。二度目です。かつて、恋人だった人の裏切りを許せないと、その人の時を止めました。そうなのでしょう? あなたにはきっと語って聞かせたことでしょう。なぜ、自分の妻を日野寺に近づけまいとしたか。なぜ、何度も何度も雨の日に日野寺に行ったか。かつての恋人が、その土の下から現れてきはしまいかと、気が気ではなかったからです。そしてそれを何故あなたに話したか? そうでなければ、美しい思いのままに時を止めるため、水源豊かな日野寺の池の中に身を横たえたところで、そう簡単に命を絶つことなどできはしません。あなたが、祖父を、池の中から這い上がることのないように、沈めたのですね。大丈夫です。祖父の死は、自殺で検死が済んでいます。祖父の願いの通りに。祖父は、新しい恋人との美しい時間を切り取るべく、自らの時を止めたのです。私は、祖父が嫌いです。自分勝手で、家を顧みなかった祖父などには、愛情の欠片も感じたことはありません。祖母は、子どもには恵まれたとは言え、一度も祖父から優しい言葉も、愛もかけてもらったことがない。生涯、せめて母想い祖母想いの子どもたちに囲まれたことだけが、彼女の救いです。しかし、そんな祖父も、孫のために一度くらい役に立ってもらいたいと思うのです。祖父の遺髪を同封しました。先日お会いしたとは言え、住所も何も伺っていないあなたに手紙を届けるのは難しいと思います。ですが、この手紙を遺髪と一緒に、置いておきます。柿沼三郎太の死体が埋められている場所に。あなたは、祖父から聴いていますよね? きっと、そのうち気になって埋めた場所を確認しに来るはずです。そうして、この手紙を見つけたら、日野寺で私を待っていてください。


 若かりし頃の祖父は、美しかった。そして、あなたも。私には憎き祖父の血が流れているのです。路ならぬ路は、まだ続いているとは思いませんか?


 共に路草を食もうではありませんか。雨の日野寺で。


 草々

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