三、

 気分のすっきりしないまま、重い玄関を開ける。


 テンは僕の腕の中でそっと身じろぎ、そのまま僕の胸を蹴って床に飛び降りた。体温の感覚が手元から離れる。


 にゃあ。


 テンはひとことだけ鳴いて、のんびりと毛繕いを始めた。


 僕はふう、と息をつき、冷たい床に足を下ろす。玄関の明かりだけの空間で、部屋の家具がぼんやりと浮かび上がっていた。瞼の裏に映る明るい灯りはそこにない。


 あれから五年も経った今でも、君の笑顔を期待してしまう。帰ればそこに座っているんじゃないか、僕を「おかえり」と言って出迎えてくれるんじゃないかと、未だに未練がましく君を想ってしまう。


 さよならのひとつもなかった。


 君が奪われていくのは本当に一瞬だった。


 僕は寒さによる鼻水をズズッと啜る。


 きっともう前に進むべきなんだろう。どんなに苦しいことがあろうと、僕は前を向かなくてはいけないのだ。


 にゃー。


 テンが何かに誘発されたかのように立ち上がる。そして僕が目を向ける間もないまま、ぱっと駆け出した。


「テン──」


どうしたの、と問いかけてテンの行先に身体を強張らせる。


 一層と暗闇の広がる、小さな部屋。


 テンは半開きのドアの目の前に座ってこちらをじっと見つめている。何か言いたげなそのエメラルドに、僕はごくりと唾を飲み込む。


 一歩ずつ、その部屋に近づいた。あそこは、僕がずっと無視し続けてきていた部屋だ。


 入る度に苦しくなるから──


 いや、君という存在を過去にするのが怖かったからだ。


 過去にしてしまえば、君を忘れてしまう。


 君がここに居たという爪痕が消えてしまうのがとてつもなく辛かった。


 ドアを開ける。君の香りが漂う。

 久しぶりに嗅いだ君の甘い香りが僕の鼓動を揺らした。


 電気を点けると、テンは待っていましたと言わんばかりに僕の足元を通り抜けて部屋に入っていった。そしてリラックスしたように伸びをする。それから慣れたようにその場を歩き回り、時折ふさふさの身体を家具に擦り付けた。


 まるで、前までここに住んでいたような──


 僕はいやいや、と首を振る。

 

 全く、どこぞのファンタジー小説だ。テンはテン、美咲は美咲だ。今日は色々思い出しすぎてそう見えるだけだろう。


 ため息を吐き、踵を返して部屋を出る。今日は疲れた。もう寝よう。


 そう思ってふと振り返ると、テンが懐かしい瞳でこちらに笑いかけていた。

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