ニ、
じっとりとした空気が家の中にも漂っている。美咲は傘を持って行ったのだろうか。そのことさえも不吉な予感がしてしまう。
震える手でネクタイを締めたちょうどその時、電話がけたたましく鳴り出した。僕は重い足取りでがなる受話器を手に取る。
『……もしもし』
僕の暗い声とは裏腹に、向こうの声は陽気だ。
『辰治、やっぱり今日実行しようと思うんだ。今日の七時、工場に来い』
『は? だから僕はやらないって』
苛立ちを父にぶつける。
『待ってるからな』
そう言って父は電話を切ってしまった。
『だめだ! 今日は──』
僕の必死の声も、機械的な音にかき消されてしまう。僕は背中に冷たい何かが伝うのを感じた。
なんとしてでも美咲の出勤を止めなくてはならない。
──いや、そもそもの父を止める方が手っ取り早いのか? それなら警察に電話をして……。
僕は首をふるふると振り、心臓に合わせて揺れる身体を深呼吸で沈めた。警察に言っても証拠がなければ信じてもらえないだろう。とりあえず一旦冷静になって、どうすべきか考えなくては。
そうは思っても、僕の焦りを止めることはできなかった。
会社を定時よりも早く出て、僕は急いで工場に向かった。
まだ時刻は六時、まだ時間はある。その間に父を説得しよう。
工場の最寄りの駅に着いたところで、僕のスマホが震えた。急いで画面を確認すると、そこに美咲という文字が浮かび上がる。
『美咲! 大丈夫か?』
朝から続く焦りから、いきなり声を大きくしてしまう。そんな僕を、電話の向こうの美咲はくすりと笑った。
『大丈夫だって。まだ心配してたの?』
僕は早歩きで改札を通り、工場へと急ぐ。ここから徒歩で二十分ほどかかる。
『今から帰り? 今どこにいる?』
『まだ工場にいる。でも、取材はもう終わったから帰るとこだよ』
赤信号で立ち止まる。雨が降る直前の冷たい空気が辺りに漂っている。
『あのね、たっくん……』
電話の向こうで美咲の声が小さくなった。僕は息を小さくして耳を澄ます。
『……子供が、できたの』
嫌な予感がする。
『私とたっくんの赤ちゃんだよ。今日、検査して──』
信号が青に変わった途端、僕は走り出した。
守らなければならないものがもうひとつ増えた。絶対に父を止めなくては。
僕は走りながら電話の美咲に話しかける。
『ほんとかっ! じゃあ、今日はお祝いだな。早く帰ってこいよ!』
『うん! たっく──』
美咲の元気な声が大きな騒音にかき消される。
世界が揺れた。熱い風を感じた。
『美咲!?』
冷や汗が額から噴き出す。息が更に上がる。
遠くにオレンジ色の、見たくない光景がちらりと見えた。
『美咲‼』
声が枯れる。絶望で崩れ落ちてしまいそうだ。
『……たっくん……』
ブツブツと電話が途切れている。
『……助け……て……』
通話はそこで切れてしまった。僕はスマホをコートに突っ込み、全速力で走る。頭が真っ白になり、何も考えられなかった。
ザーッと大粒の雨が視界を霞ませる。
僕は傘もささずに走り続けた。辺りの群衆も、さっきの騒音やこの大雨で僕と逆方向に走ってゆく。僕は歯を食いしばった。
雷鳴が轟く。眩い光に意識を持っていかれそうになる。コートも何もかもびしょびしょだ。
なのに向こうに見える炎は一向に消えないまま、勢いがますます増していくようで、そこだけ雨が降っていないようだった。
『美咲ー‼』
自分の声もまともに聞こえない。
肺は軋み、脚も力が吸い取られ、身体がもう限界だと訴えかけている。それでも僕は立ち止まれない。
坂道まできたところで、目の前の光景に目を見開いた。焦げ臭い匂いとガスの匂いが辺りに充満している。
工場の姿はもうなかった。そこに広がっているのは、ただの炎の海だった。
『みさき‼』
もうなにもわからなかった。
僕はがむしゃらに炎の中に飛び込んでいった。
息が詰まってすぐにむせこんだ。
僕はその場にへなへなと座り込み、ぼうっと揺れる残酷な炎を見つめていた。
身体に炎が移っても、消防隊員に呼ばれても、僕はその場から動くことはできなかった。
僕は殺人犯を止めることができなかった。
僕がみんなを殺した。
僕が、みんなの幸せを奪ってしまった。
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