第三章
一、
『頼む……僕を、助けてくれないか……?』
父が今にも泣き出しそうな声で言う。
『でもだからって、なんで僕が……!』
『いや違う! 全部お前にやらせようってんじゃないんだ。ちょっとだけ──ガス管を緩めておくだけでいいんだ』
父は正しいことを言っているような口調で、とんでもないことを口にする。僕は粘ついた唾液を飲み込んだ。
『……そうしたら、あとは僕が全部やっておく。お前が犯人になることは絶対ないんだ』
僕はぐっと下唇を噛み締める。僕が犯人にならないとしても、これは絶対間違っている。
『やっぱりだめだよ、父さん……!』
最初から自分で築いたものは、最後まで大切にすべきだ。
『……辰治、お前はわかってない。自分で崩したものは、責任を持って最後まで片付けなきゃいけないんだ。中途半端に終わらせられない。仲間には本当に申し訳ないが……』
僕ははっと息を飲んだ。父は何よりも大切にしてきた仲間の人生さえも終わらせようとしているのか。狂っている。父は僕らと離れて一体何があったというのだ。
伝わらないもどかしさで電話を持つ手に力が入る。
『僕はやらないからな。何があろうと、絶対に』
僕が吐き捨てるように言うと、父は電話の向こうでため息をつき、かさつく声で続けた。
『明後日の夕方、工場で待ってる』
『おい! 僕はやらないって──』
電話はプツリと切れてしまう。
ツー、ツーと淡白な音だけが僕の耳元に残り、どくどくと波打つ心臓の音が身体中を駆け巡っていた。
翌朝、僕が目を覚ますと、美咲はもう朝食の片付けをしていた。
『……美咲。今日は早いね』
大きな欠伸を噛み殺してシンクの前に立つ背中に声をかける。
『うん。今日は取材があって』
美咲はお皿を洗いながら嬉しそうに笑う。美咲は取材が大好きだ。
『そういえばたっくん。たっくんのお父さんって、如月製鉄工場の社長さんだよね?』
美咲の口にした単語がタイムリーすぎてぎくりとする。僕はベッドに座り直し、慎重に頷いた。
『そうだよ。なんで?』
心臓が早鐘を打つ。嫌な予感がお腹の辺りで渦巻いた。
『今日の取材場所がね、そこなの』
僕はごくりと唾を飲み込み、息を整える。
『そうなん、だ……』
あまりの不幸な偶然に声がかさついた。
『なに、嫌だった?』
鋭い美咲が僕を振り返る。僕はぶんぶんと首を振った。
『べ、別に嫌がってなんかないよ! ただ──』
『ただ?』
僕は喉元に出かけた言葉を一瞬にして飲み込み、瞬時に頭を回転させた。今ここで父がしようとしていることを言ってはいけない気がする。
僕は震える唇に力を込め、決意して口を開いた。
『今日は、行かないでもらえない……?』
『え?』
美咲は怪訝そうに眉をひそめる。それも当然だ。僕は立ち上がり、頼み込むように続ける。
『嫌な予感がするんだ。今日は何か不幸なことが起きるかもしれない』
父が実行するのは明日だ。でも、この嫌な予感は気のせいではない気がする。もしかしたら、今日──
『気のせいだよ、気のせい。たっくん心配しすぎ』
美咲は笑って僕の言葉を払い除ける。僕は更に強くなる予感を胸に抱いたまま、美咲の支度をただ見ていることしかできなかった。
『や、やっぱり、行かないでくれないか……?』
美咲が靴を履いたところで、もう一度手を合わせて頼む。
『まだ言ってるの? 大丈夫だって。今日は悪いことなんて起きないよ。むしろ、いいことが起きるかもねー』
美咲は呑気ににこりと笑う。僕は不安で押しつぶされそうになりながら、僕は最後に美咲の腕を掴んだ。
『頼む……』
僕が半ば泣き出しそうになりながら言うが、美咲は深いため息をついて僕の手を振り解く。
『いい加減にしてよ。たっくんのその“予感“とやらで私の仕事を奪わないで』
美咲は鋭い眼光で僕を睨みつける。そしてそのまま玄関を勢いよく開けて出て行ってしまった。
僕は呆然としてそこに立ちすくむ。
僕らはいつも言っている「行ってらっしゃい」も言い合えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます