十四、

 テンを腕に抱え、懐かしい坂道を登る。小さい頃は長く感じた坂道も、今では充分に思い出に浸れないくらい短い。


 登りきったところで、僕は荒い息を整えるために深く息を吐いた。辺りには何もない。あるのは、原型のないただの残骸と、海風に音を立てる規制線だけだ。


 父はよく僕を仕事場に連れて行ってくれた。そのときの父は本当に楽しそうで、異常なくらいにきらきらと輝いていたのを今でも覚えている。


 しっかりと規制線が張ってあるにも関わらず、中には簡単に入ることができた。警備員らしき人も見当たらず、ここは完全に見捨てられた場所となっている。


 それもそうだろう、ここは五年も前の場所なのだ。


 にゃあ。


 テンは静かに鳴く。少し離れた場所から聞こえる海の音に今にでもかき消されてしまいそうだった。


 僕はふう、と息を吐く。期待した白い気体はうっすらとしていてよく見えなかった。


 しばらく歩くと、かろうじて残っている建物を見つけた。そこも僕の記憶の中に鮮明に残っている。全体が見渡せるんだ、と父が自慢気に話していたところだ。


 カツン、カツン、と足音を立てながら鉄の階段を登り、社長室に入る。中は埃っぽく荒れていて、時の経過をひしひしと感じた。物音ひとつなく全てが静止していて、生き物の気配が全くない。


 外に出た。

 社長室を出た先にはさらに遠くまで見渡せる場所がある。僕は硬く冷たい手すりに腕を乗せ、遠くに目を細める。


 五年前、ここで僕の幸せが一瞬にして失われた。


 燃え盛る炎、息が詰まる熱風、人々の悲痛な叫び声──。


 今でも鮮明に蘇らせることのできるこの記憶は、一生僕の中を食い荒らしていく。


 もとの僕に戻ることはもうできないのだ。


 五年前のこの場所で、僕の幸せも、君も、全て奪われてしまった。


 僕は鼻からため息を吐く。腕から温もりが消えていると思ったら、テンは足元でのんびりと毛繕いをしていた。ゆっくりと床に叩きつけられる灰色の尻尾に、こちらの気持ちも落ち着いてくる。


 君は──美咲は、有名雑誌の記者だった。あの日は朝からジメジメしていて、生臭い匂いが空から漂っていた。


 君がたまたまいつもよりも早く起きたこと。

 君が出かける前にたまたま電話が鳴らなかったこと。

 君とたまたま喧嘩してしまったこと。

 君が取材に行く日が、たまたま“アレ“の実行日だったこと……


 あの日は不幸にも全ての“偶然“が重なってしまった。その積み重なった偶然が、無情にも僕をこの世のどん底に突き落としてしまった。


 熱い何かが目尻からあふれる。頬を伝うそれは冬の空気によって冷たく乾く。


 にゃー。


 気がつくと、テンが僕の横にちょこんと座っていた。


 僕は鼻をズズッと啜り、テンのエメラルドを見つめる。そこに映る景色に思わず振り向いた。


 地平線に熱い太陽が沈んでいく。

 空と海の茜色に息が詰まる。

 冷たく塩辛い風が僕の肺の中を満たす。


 ……この景色も、すぐに消えてしまうものなのに。

 生き物なんて、すぐに死んでしまうものなのに。


 どうしてこんなにも大事に思えてしまうのだろう。


 その大切を、あの事件はたくさんの人から奪ってしまった。失ったのは僕だけじゃない。ここで働いていた作業員のほとんどの人が亡くなった。その家族や恋人はその大切な宝物を失ってしまったのだ。


 ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。やりきれない後悔が手のひらに爪痕を残す。


 僕がその数々の宝物を奪ってしまった。



 ──この事件の犯人は僕だ。

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