十二、

『全て、終わりにしようと思うんだ』


父はやつれた声で言った。電話を通しているからか、声に雑音が混じる。


『何言ってるんだよ、父さんの頑張って作ってきた会社だろ?』


僕は心底呆れて言った。


 きっと、いつものように誰も気にしないような小さなことに思い悩んで、そんな素っ頓狂な結論に至ったのだろう。


『僕は本気だ』


僕の考えを見抜いたのだろう、父は怒ったように言った。


『で? 具体的にどうするつもりだよ』


苛々しながらため息を混じらせて聞く。



 父の言葉に僕は思わず目を見開いた。




 その人は確かに僕の父親だった。


 しかし、そこに僕の記憶の中の姿はなく、ただただ痩せ細った不健康な男が横たわっているだけだった。


「父さん」


呼びかけても返事はない。昨晩、あまりにもうなされていたので、睡眠薬を投与してもらったのだという。


「どうしてこんな状態に……」


 僕が最後に見たときはあんなに元気だったのに。


「不健康な生活を送っていたんだとか。あと、ストレスもかなりたまっていたようです」


 『助けてくれよ……』


 ふと、脳裏に父の言葉が浮かぶ。


 父はこのときにも苦しんでいたのだろうか。

 きちんと話を取り合わなかったことに後悔の念が浮かぶ。


「なにがあったのか、教えてくれませんか?」


坂田先生は僕の目を覗き込んで言った。僕は苦い唾液をごくりと飲み込む。


「……知りません」


喉から絞り出すようにして声を出す。それを誤魔化すようにふう、と息を吐き、そのまま続けた。


「父とは疎遠だったんです」


 僕の言葉に、何かを察した先生は困ったように顔を強張らせた。この話をすると、みんなこんな顔をする。いつもならこっちも申し訳ない気持ちになるが、今はこれ以上詮索されないために丁度いい。


「……だから、別れたあとのことは、なにも」


父に目線を戻す。父は相変わらずやつれた顔で眠っていた。


「そうですか……」


坂田先生がそれ以上聞いてくることはなかった。僕らの間にしばらく沈黙の時間が流れる。


 父の声を最後に聞いたあの時から、何年経ったのだろう。


 しばらく会っていないのに、こうして実際に姿を見ると、案外最近のように感じる。嫌悪や恨みはいつしか消えていた。


 僕はそっとベッドの側の丸椅子に腰掛ける。坂田先生はいつの間にかいなくなっていた。


「なにやってんだよ、父さん……」


 僕の声は父に届かない。


 言葉も何もない空間に、ただ点滴の音だけが静かに響いている。この状況がどうしてもあの記憶と結びついてしまう。


 僕はふう、と締め付けられる胸と共に息を吐き出し、そして息をすう、と吸った。


「生きろよ……」


 揺れる視界と病室の匂いで、世界が錯乱する。


「生きていてくれ……」


 喉の奥がぐっと熱くなる。それを吐き出して鼻を啜る。


「生きていれば、幸せにできるんだろ……?」


 二人の姿が重なる。


 生きていてほしい。

 僕の側にいてほしい。

 だから、だから──……


「──……」


 潰れた声で君の名前を呼ぶ。


「──!」


「──っ!」


 何度も何度も、届くことのない声で君の名前を呼び続ける。


 自分の涙で、父が息絶えたことにも気が付かなかった。

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