十、

 腕を広げると、テンはこちらに嬉しそうに駆け寄ってくる。明るい笑顔がそこにある。


 大家さんが出ていったあとの部屋は、しーんと静まり返っていた。いつもの静寂とは違う、なにも口にしてはいけないような、壊してはいけないような静寂だ。


 生き物の重みを膝に感じながら、僕はぼうっとテンの頭を撫でる。


 大家さんの話は僕の心に深く残っていた。今まで誰のどんな言葉も響かなかったのに不思議だ。


 『生きていれば幸せにできる』──


 今僕は幸せじゃないけど、いつかは幸せになれるのだろうか。


 “いつか”──……


 この言葉はもう聞き飽きた。


 僕はずっといつかを望んでいた。


 だけど、そのいつかはいつになっても遠いまま、僕の手には届かない。


 いつかの幸せは僕の手の指の間からこぼれ落ちたまま、見つからなくなってしまった。


「なあ、テン──」


無意識に口を開く。テンは小首を傾げて僕を見上げた。


「──幸せって、何処にあるんだろうね?」


 この問にきっと答えはない。


 そんなこと分かっている。


 それでも知りたかった。

 見つかるものなら見つけたかった。

 僕が落とした幸せを、誰かが拾って届けてほしかった。


 にゃー。


 テンは一言鳴いて微笑む。透き通ったエメラルドの瞳に、黒い自分の影が写っていた。


 ──幸せとは自分で掴むもの。


 誰が言い始めたのか、そんな言葉はあちこちに転がっている。他人任せにせず、自分で取りに行けと言っている。


 だけど、今の僕にはそれが綺麗事にしか聞こえなかった。


 形のない“幸せ”をどうやって掴んだらいいのだ。

 姿形も何処にあるのかも分からないのに、そんな不確実なものをどうやって手に入れろというのだ。


 にゃーあ。


 テンは僕に笑顔を向ける。幸せなど考えずに笑っている。


「お腹空いたか? キャットフードも買わなきゃな……」


 僕に撫でられて目を細めるテンを抱きかかえ、ぎゅっと抱きしめた。僕の突然の行動にテンは身体をびくつかせる。それでも構わずに抱える腕に力を込めた。揺れる体温と鼓動が重なって、テンの存在がはっきりと伝わってくる。


「きみは、ずっと僕の側にいてくれるよな?」


 顔を埋めるようにして呟く。力が抜けて、吐息が震えてしまう。


 テンはするりと僕の腕から逃げ出してしまった。


 にゃー。


 僕から少し離れた場所でこちらを見つめ、むっとしたようにつんとそっぽを向く。

 テンはハグが好きではないらしい。そのことさえも美咲と重なってしまった。




 ──やだ、恥ずかしい……


 付き合い始めてまだ浅い頃、美咲はそう言って頬を赤らめ、うつむいた。いつも元気で負けず嫌いな美咲からは伺えないような表情に、僕は悪戯心をくすぐられてしまう。


 ──男の人とこんな密着すること、ないじゃん?


 言い訳をするように呟く美咲に手を伸ばす。

 ぴくっと震えた美咲の肩に触れる。


 『愛してる。いつまでも』──




 ──にゃー。

 突然の猫の鳴き声に、はっと我にかえる。見ると、テンが撫でろと言わんばかりに首を伸ばして見上げていた。


 僕はゆっくりと立ち上がり、立ちくらみに身を任せるようにしてしゃがむ。それでもテンは僕の膝辺りまでにも満たないくらい小さく、本当に小さな生き物であることをひしひしと感じた。


「テン」


 優しく、ゆっくりと、壊さないように撫でる。


 生命いのちは僕らが思っているより何倍も何十倍も何千倍も儚く脆い。


 僕はそれがどうしようもなく怖かった。


 もし、この小さな生命を壊してしまったら……?


 今になってやっと実感した。

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