九、

 僕はテンを世話することになった。大家さんと話し合った結果だ。ただ、僕が一人で世話をするのでなく、大家さんも手を貸してくれることも決まった。


「どうして、いつも僕を助けてくれるんですか?」


 いつかの質問を口にする。

 またはぐらかされると思ってたのに、意外にも大家さんはその理由を教えてくれた。


「俺、石川さんと同じように引き篭もりやったんですよ」


 新しい事実に驚く一方で、その言葉が大家さんにもぴったり当てはまるように感じた。


 大家さんはさっき仲良くなったばかりのテンを撫でながら、そのまま続ける。


「だから、放っておけないっちゅうか。しんどい思いもそれ以上の苦しみも分かってしまうから」


 僕はそっと話を聞いていた。何か口を挟んでしまったら、もう話してくれなくなる気がした。


「仕事がうまくいかんかったんです。作業も、人間関係も。だから、仕事も行かんと家でずっと引き篭もっていました」


懐かしむようなその目つきに、つられて僕も引き篭もる大家さんを思い浮かべる。


「そんな俺を救ってくれたのがその会社の社長やった。社長は急に俺を仕事場に呼び出してきたんです」




『君の後輩から聞いたよ。先輩から作業を押し付けられていたんだって?』


 俺はむっつりと黙って社長を睨みつける。


 こいつも信用ならない。ここで肯定したら先輩たちの反感を買う可能性もある。


『君は体格がいいから、余計に頼られてしまうのかもなあ』


 社長は呑気にソファに腰掛けた。俺は苛ついて小さく舌打ちを漏らす。


『結局俺が一番悪いってことですか』


 俺の言葉に、社長はふっと笑いを浮かべた。


『やっぱり、押し付けられてたんだ?』

引っかかった、言わんばかりの社長の笑みに、俺の苛立ちはさらに募っていく。


『せやからなんですか? 社長には関係のないことです』

『関係あるよ。僕の大切な仲間のことなんだから』


社長の顔が一瞬にして真剣になった。仲間、という綺麗事を語るための言葉にも腹が立つ。


『あないなやつら、仲間やないです』


吐き捨てるように言うと、社長はゆったりと立ち上がった。


『君にとっては、ね』


何を言っているのかと聞き返そうとするが、社長に先を越されてしまう。


『僕にとっては君も君に意地悪をする先輩たちも、僕の大切な仲間なんだ。ひとりもいなくなっちゃいけない』


社員と言えばいいのに、なぜこの人は仲間と言うのだろう。俺にはわからなかった。


『俺がこの世からいなくなったって、誰も気に留めませんよ。社長やって、俺がいなくなったらまた新しく社員を募集すればええだけやないですか』


積もった苛々から、少し早口になってしまう。


『まだそんなこと言ってるのか?』


社長は俺を見ずに言った。


『言っておくが、この世からいなくなった人に対して何も思わない人なんていない。自分の仲間ならなおさらだ』


 そんなの綺麗事だ。

 俺はむっとして社長の顔を見た。俺の方が背が高いので、自然と俺が見下ろす形になる。


『ええやないですか。死ぬのも生きるのも、その人の勝手ですよね?』


 俺が押し付けるように言うと、社長はしばらく考え込んでいた。


『確かにそうだ。君にもその権利はある。他人がとやかく言う必要はない』


社長が諦めたように言う。

 じゃあ、と言いかけて、これもまた社長に遮られてしまう。


『でも──』


社長は俺を見上げた。その瞳に強い気持ちが込められている。


『死なないでくれと頼むことはしてもいいだろう?』

『は?』


 思わず間抜けな声が出てしまう。


『生きるか死ぬか、最後に決めるのは君だ。でも、その決断をする前に、僕は君に何度も説得してやろう。君が他人によって死にたいと思ったのなら、今度は他人の僕が生きたいと思わせてやる』


 心臓が飛び跳ねた。社長の瞳には一切の曇りがなく、俺は喉元に上る熱いものをぐっとこらえる。


『なんでなんか……俺はもう……』


 潤む声を必死に隠す。

 社長は優しく微笑んだ。


『君は、僕にとって大切な存在だからだよ』


 視界が歪む。瞬きをしたら溢れ落ちてしまいそうだった。


『他の誰でもない、君しか駄目なんだ』


そう言って俺の肩に両手を置く。


『なにもしなくていい。ただ生きているだけでいい。生きていれば、それだけで幸せにできる。だから──』


 ぐっと、肩に力の重みがついた。

 社長のこの小さな身体から強い生命を感じる。

 そのパワーが俺に移っていく。


『──生きていてくれ』




 大家さんは半ば涙ぐみながら口をつぐんだ。


 ──“生きていてくれ”


 今まで綺麗事にしか聞こえなかった言葉が、なぜか今はすんなりと心に浸透していた。


 それは大家さんの話した“社長”が、あの人とどこか重なって聞こえたからなのかもしれない。

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