六、
『なあ、辰治』
僕に似た声が聞こえる。しかし、その声は僕よりもずっと年をとっていて、がらがらとたんの絡む音が混じっていた。
『助けてくれよ……』
男の声が情けない声に変わる。
僕は口を開いた。
電話が切れる。静寂が耳鳴りを連れてくる。
カーン、カーン、と感情のない音が遠くで響いている。
「石川さんの生命力半端ないですね」
坂田先生は吐息を漏らしながら笑った。僕もつられて笑いをこぼす。
先生は病院の外まで見送ってくれた。僕は清々しい気持ちで先生にお礼を伝える。僕は三日入院生活を送っただけで済んだ。
「そういえば、ご家族に電話しましたよ。すごく心配していました」
驚いて口が開く。家族に電話したことよりも、僕のことを心配していたということにびっくりした。
心配していたなんて信じられない。もう見捨てられたと思っていた。もう僕のことなんてどうでもいいんだろうと思っていた。
「母の様子はどうでしたか? 妹はなんて?」
僕が質問を重ねると、坂田先生はくすりと笑った。
「そんなに気になるなら、ご自分で電話してみてはどうですか?」
先生はそう言って軽く会釈して行ってしまった。僕はそれを頭をぽかんとされた気持ちで見つめる。
自分から電話を掛ける勇気はなかった。心配しているのは坂田先生に対する建て前で、本当はどうでもいいのかもしれない。
でも、それよりも、僕のせいで家族に悪いことが起きていないか心配だった。
心配しているのは家族じゃなくて僕の方だ。
僕は携帯の電源を入れた。連絡先を消してしまっても、番号は指が覚えている。
耳元で呼び出し音が波打つ。それに合わせて、心臓が喉元まで鳴り響いた。
永遠と思えるほど長い呼び出し音のあと、プツリと突然音が途切れる。
「……もしもし」
機械を通した、懐かしい声が聞こえる。
「もしもし?」
何を言うべきか口をぱくぱくさせていると、少し苛ついた声が返ってきた。慌てて喉に力を入れる。
「……辰治です……」
勢い余って弱々しく裏返った声になってしまった。電話の向こうで息を吸う音がする。妹の目を見開く顔が頭に浮かぶ。
「たっちゃんっ!」
あまりの大声に、ぐわんと耳の奥が揺れた。それすらも懐かしくて、思わず口角が上がってしまう。
「お母さん! たっちゃんから電話が!」
どこかに叫ぶ声がどすどすと階段を駆け下りる音に混じる。
「辰治なの……?」
どこか疑わしげな声がスマホから聞こえる。母は相変わらず優しい声をしていた。
「そうだよ」
想像以上に驚かれ、身体の奥がくすぐったい。
「辰治! 身体は大丈夫なの? 退院したの? 病院に運ばれたって聞いて、ほんとに心配したのよ?」
母は僕と分かるとまくし立てるように声を上げた。その横から妹のなだめる声が聞こえる。
「大丈夫、退院したよ。心配かけてごめん」
事故のことも、生活のことも。
全てにおいて心配かけてしまった。
「そういえばたっちゃん、あれからどうなったの?」
妹の声が僕に聞いた。僕は曖昧に答えかけ、途中でそれをやめた。
「毎日健康に過ごしてるよ。就職もしたんだ。事故に遭ったのも会社からの帰りで」
これ以上、心配をかけたくない。
家族には、僕が幸せに生きていると思っていてほしい。
「就職? それなら電話ぐらいしてくれればよかったのに」
母は呆れたように言った。
「いやあそれがさ、スマホが一回壊れちゃって。新しく買ったら連絡先が消えちゃってさ。電話番号も覚えてないし、電話しようにもできなかったんだよ。ほら僕、昔っから数字列を覚えるの苦手だったろ」
ははっと明るく笑う。気を抜くと泣きついてしまいそうだった。
「それなら、うちに帰ってくることもできたでしょ?」
妹がむっとしたように言う。僕はぎくりとしながら急いで頭を回転させた。
「就職したら忙しくてさ。引っ越しちゃったし。そっちに帰れるほどの連休はないんだ」
バリバリ働いているように聞こえるよう、はきはきと喋る。
「そう……」
母は息を吐くように言った。信じてもらえたのだろうか。
「母さんたちは? 最近どう?」
これ以上詳しく聞かれないよう、話題を変える。
「毎日元気に過ごしてるよ。ね、お母さん」
妹が明るい声で言った。母もうん、と同意する。
安心した。息子のことを心配しすぎて病気になったというエピソードは、よくドラマなどで見かける。さすがに誇張していると思うが。
「よかった」
呟くように言うと、二人は笑いをこぼした。
「意外だよ。私達のことなんか気にしてないと思ってたのに」
母が寂しさと嬉しさの混じった声色で言う。なんだよそれ、と僕も一緒になって笑った。
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