五、

 世界が暗い。


 僕は死んだのか?


「石川さん!」


 誰かの声が聞こえる。


 うるさいな。僕は死んでいるんだから、もう起こさなくてもいいじゃないか。


「石川さん!」


 でも、なんだか心地がいいな。誰かに呼んでもらえるなんて。誰かに心配されるなんて。


 近くで単調な電子音が規則的に響いている。液体の滴る音が聞こえる。

 僕は今どこにいるんだろう。死んでもなお地上にいるってことは、僕は幽霊になったのか?


「大丈夫です。脳に異常はありませんでしたから、じきに目覚めるはずですよ」


 やけに説得力のある声が聞こえる。それが医者であることを直感した。


 ああ、そうか。僕は病院にいるんだな。いやでもまて、なんでだ……?


 次々と浮かぶ疑問が、すっきりしないまま頭の中をかき混ぜる。


 というか、なんで僕はこんなにも#饒舌__じょうぜつ__#に考え事してるんだ? 

 死後も思考は停止しないのだろうか。


 ぐるぐると考えながら、すうっと、何かを感じた気がして息を詰めた。重力を感じる。


 僕は柔らかい何かの上で寝ている。息をしている。頭が潰されたように痛い。


「そうですか……」


どこか腑に落ちないような声が聞こえた。ああ、そうか。これは大家さんの声だったんだな。


 僕は死んでない。

 僕は生きている。


 扉が滑る音が聞こえ、静寂が訪れた。目を開けるなら今かと瞼をうっすら開ける。

 最初に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。


 ぎしぎしときしむ首を回し、光源に目を向ける。水分を含んだ光がレースカーテンの隙間から見え隠れしている。


 ふぅーっと息を吐く。プラスチック製の何かに自分の息がこもる。


 首をもとに戻すと、頭がずきんと痛んだ。どうしてこんなに頭が痛いのだろう。


「石川さん!」


 声がして目だけを向けると、大家さんが心配そうに、でもほっとしたような顔でこちらを見つめている。


「大家さん……」


呟いた声はかすれて音にならなかった。大家さんは急いで僕のもとに駆け寄る。


「よかった……。死んどらんくて……」


大家さんのここまでほっとした顔は初めてだ。


 僕は起き上がろうと身体に力を入れるが、すぐにそれが無理であることが分かった。


「何があったんですか?」


喉を唾液で存分に潤し、大家さんを見上げた。僕の質問に、大家さんは顔をしかめる。


「覚えてないんですか? 工事現場の足場が石川さんの頭に……」


 だからか、と納得する一方で、また新たな疑問が浮かぶ。


「工事現場って……どこのことですか……?」


 工事なんてどこでもやっていなかった気がする。大家さんはもっと眉間にしわを寄せた。


「アパートから少し行った先に、小さい公園があったじゃないですか。そこ、一ヶ月前くらいから建設工事してるんですよ」


 公園という言葉に、僕が毎日 かよっていた公園が浮かぶ。でもそこは工事なんて──


 いつもの公園を思い浮かべたとき、はっとした。


「テンは……?」


思わず声に出す。


「テンは無事でしたか⁉︎」


相手が理解していないのも気にせずに続けた。


 テンがもし僕も直撃したという足場に当たっていたら……。


 考えるだけで息が詰まる。


「てん……?」


大家さんが怪訝そうに聞き返した。


「灰色の猫です! 昨夜、公園にいませんでしたか⁉︎」


 居てもたってもいられなくなって勢いよく上体を起こす。痛みが脳内を支配する。


「うっ……」


 大家さんは僕を静かに寝かせ、そして真剣な面持ちで僕を見下ろした。


「その猫があなたにとって大切なものであることは分かりました。でも、その心配よりもあなたの心配をしてください」


 大家さんの言葉に、僕は唇をぎゅっと噛んだ。

 反論はできない。

 この身体では歩くこともできないのだ。あまりのもどかしさに身体がむずむずする。


「そうしてください、石川さん」


 聞き慣れない声がして顔を上げると、四角いメガネを掛け、短い髭を生やした男が立っていた。その顔に白衣がよく似合っている。


 医者に言われてしまってはどうしようもない。


 僕は止まない胸のざわつきを抱え、息を深く吐いた。

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