四、

 外は思っていたよりも冷え込んでいた。それなのに、降っているのは雪ではなく雨。強い横殴りの雨で、大きめの傘も役に立たない。 

 急いで履いた運動靴は、水分を含んだ汚い雪でびしょ濡れになってしまった。


 いきなり吹いた強風に不意をつかれる。ぐん、と引っ張られる感覚とともに、僕の傘は無様にも裏返ってしまった。

 僕は舌打ちして傘から手を離す。ポイ捨てという言葉は頭から切り離した。


 こんなに全力で走っているのに、夢の中みたいに全然前に進めない。


 傘を捨てたことで、コートは絞れるくらいに濡れてしまった。髪の毛が顔に張り付き、そこからも水が滴り落ちる。


 もっと運動しておけばよかったと後悔するのに時間はかからなかった。


 二つの角を曲がったところで息が最大にまで上がり、太ももとふくらはぎは痙攣けいれんしている。身体の表面は冷たいのに、体内は沸騰するかのように熱かった。


「うわぁっ!」


 足を滑らせて転んでしまった。

 身体のあちこちに泥がつく。そのそばを、傘をしならせながら走る男性が見向きもせずに通り過ぎていった。


 まるで僕も泥みたいだな──。


 苦笑いしながら立ち上がる。


 いつだって僕は泥のような存在だった。


 ただ自分の身を守っているだけなのに、みんなそれがクズのすることだと言う。僕のような人間は自分を守ることだけで手一杯なのに。


 それに、僕が元気になることはどうせ相手も望んでいないのだ。それなら、なにもせずにひっそり生きていた方がいい。


 だけど──……


 僕は空を見上げた。

 黒色の空が目に飛び込んでくる。大粒の水滴が次々と目に入り、染みる。


 走る。

 泥だらけのこの身体で、強い向かい風を切って走る。


 大切なものを守るために。

 一度掴んだ幸運を離さないように。


 がむしゃらに走っていると、いつの間にか目的地に着いていた。

 うっすら積もっていた雪も、いつの間にか完全に溶けていた。


「テン……!」


強い雨に溺れて声が出ない。


「テン……!」


 君の存在は僕のそらそのものだ。天に昇るその輝くような太陽が、僕を照らしてくれたんだ。


「……美咲──!」


 ごめんな。


 僕は君を守るべきだった。


 僕は君を殺してしまった。


 僕が君を殺したんだ。


 最後に見たあの顔は、むっとしていたのでも怒っていたのでもなく、僕に向けた憎悪だったのかもしれない。


 ごめんな。ごめん。ごめんなさい──……


 ──にゃーあ……。


 はっとして顔を上げる。


 ──たっくん。


 目の前を横切る雨で視界が霞む。


 ──顔を上げて?


 ──笑って?


 美咲はそこで笑っていた。ガラスのような瞳を揺らして、こちらを見つめていた。


 ──にゃあ。


 僕は君をぎゅっと抱きしめる。

 もう一生離さないと心の中で誓う。 

 もう一生離さないから、固く誓うから、僕のそばから離れないでくれ。


 まだ、もっと、ずっと、一緒にいてくれ。


 辺りの轟音が僕の耳を塞ぐ。


 急に立ち止まったからか、脚ががくがくと震えている。


 暗闇が全てをさらっていく。



 何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。

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