四、
翌朝、大家さんは昨日と同じ時間にやって来た。渋ってもどうせ入ってくることは分かりきっているので、すんなりと玄関を開ける。
「毎日来るつもりですか?」
靴を脱ぐ大家さんの脳天に問いかける。すると、大家さんはこれみよがしにため息をついた。
「俺が来なければあなたはずっとだらしない生活を送るんやろ。それに──」
大家さんは立ち上がって僕を見下ろした。大家さんの身長は僕よりも十センチほど高い。
「──俺のアパートを
大家さんのその目には少しばかりの殺意が浮かんでいた。心の中でひいいっと叫び、僕は口をつぐむ。
「あ、そうだ」
大家さんはそう言って目線を右手側に向けた。つられて僕も目を向けると、台所の横の小さな部屋が目に飛び込んでくる。ぎくりとする。
「あそこの部屋、雰囲気的に掃除せなんだんですけど、大丈夫ですか?」
何を言われるのかとドキマギしていた心をそっと落ち着かせ、僕は力強くうなずいた。
「……全然、大丈夫です。あそこには入らないでください」
言ってから後悔する。逆に気にならせてしまったかもしれない。
しかし、大家さんは顔色一つ変えず、あっそう、というような冷えた表情でうなずいた。
「とりあえず後はやっときますんで」
そう言って大家さんは背中を向けた。その広い背中が僕に早く去れと語っている。僕は黙ってコートを手に取り、玄関を開けた。
外に出ることに抵抗はなくなっていた。昨日外を歩いてみて、本当に心地よかった。
はぁーっと白い息を吐き出し、冷えた指先を温める。鼻がツンと痛み、冬の匂いをかき消す。
迷わず昨日と同じように公園へと足を運んだ。特に意味はないが、自然と足が向いた。
公園に着くと、すぐに自販機でココアを買う。今日は昨日よりもかなり冷え込んで、どんよりとした雲からは雪が降ってきそうだった。
缶を開け、甘いココアを口に含む。冷えた口の中にいきなり熱いものが流れ込み、喉を通り、じわじわと広がってゆく。ほっと息をつくと、さっきよりも濃い息が空の色に混じっていった。
ベンチに座ってしばらくココアを飲んでいると、足元で灰色の影が動いた。驚いてベンチの下を覗き込む。
にゃあ。
昨日の灰色猫だった。その猫は僕と目が合うと嬉しそうに口角を上げる。
にゃーあ。
くぐもったような声で鳴くと、そのまま軽やかにジャンプして僕の隣に座る。僕は無視してココアを飲み干した。
昨日、この猫は僕の前に姿を現したあと、嬉しそうに近づいてきた。人懐っこい笑顔が暗い僕の顔を照らし、僕は耐え切れず目を逸らす。それでも猫は僕から離れようとしなかった。この感覚を僕は知っている。
膝に僅かな振動を感じ、無意識に目を下ろした。灰色猫が揺らめく瞳でこちらを見上げている。僕は囚われたように目を逸らせなくなる。
昨日は気づかなかったが、エメラルドグリーンのその瞳は、すぐに割れてしまうガラスのようだった。
僕はそっと手を上げ、その柔らかい毛並みをそっと撫でる。猫は心地よさそうに目を細めた。その笑顔にどこか懐かしさを感じる。
ゴロゴロと鳴る喉をくすぐったところで、僕ははっと我に返った。
こんな野良猫に構ってなどいられない。
僕はばっと立ち上がった。それにびっくりして灰色猫がベンチから飛び降りる。そして何をするのかときょとんとした顔で首を傾げた。僕はそれを見なかったことにして歩き出す。
──行かないで。
寂しそうな声が僕の後ろの遠くの方で聞こえた。
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