三、

 近くでピーヨ、ピーヨという鳥の鳴き声がする。


 ベランダに留まっているのだろうか。


 僕はそっと、カーテンの閉まった窓の方に目をやった。黒い小さな影が光の中で揺らめいている。


 今日も平和な、そしていつもと何ら変わらない憂鬱な午後だ。


 ゲームオーバーを告げる電子音が膝の上から聞こえ、僕は手元にあるノートパソコンに目を戻した。


 主人公の倒れた様子を描いたイラストがゲームオーバーという字とともに表示されている。僕は短く舌打ちをし、ゲームソフトを落とした。ゲーム画面がプツリと切れ、真っ青なホーム画面が姿を現す。


 ずっと画面を見つめていたからか、頭が重く眼球の奥がずきずきと痛む。


 僕はのっそりと立ち上がり、玄関口に放置しっぱなしの五百ミリリットルペットボトルの水を持ち上げた。水の揺れと重みが腕の筋肉を僅かに震わす。それをキッチンにあるグラスに注ぎ、一気にがぶ飲みした。エアコンのぬるい風で乾いた喉に潤いがもたらされる。


 ピーヨ、とまた声が聞こえて、僕はグラスを持ちながら窓を振り向いた。


 なんていう鳥なんだろう。


 ふとした疑問が頭の中をよぎる。ここら辺でよく聞く声だ。しかし、カーテンを開けてまでその正体を知ろうという気にはならなかった。


 僕は窓から視線を戻し、ペットボトルの蓋を締め、またいつもの定位置に座る。


 部屋が暖かいせいか、すぐに頭がぼうっとしてしまう。慣れない快適さに僕の身体は追いついていなかった。だが、だからといってエアコンを消すことはしない。面倒くさい。


 ベッドにもたれ掛かり、白く淡い光の中の静寂に耳を澄ます。窓を開けている訳でもないのに、外から聞こえる鳥の声、風の音、人の声が聞こえる。


 ……人の声?


 聞こえる音を疑問に変えるのに少し時間がかかった。


 この時間帯はほとんどの人が仕事や学校で誰もいないはずだ。それなのに、なぜ声が聞こえるのだろう。それに、この声は怒鳴りつけるような──。


「てめえがぶつかってきたんだろうがあ!」


 男性の野太い声が辺りに反響し、そのあとに微かにか細い女性の声が聞こえる。


 なんだ、ただのイチャモンつけの戯言か。


 僕は興味を失ってまたベッドにより掛かる。


 最近世の中は治安が悪い。なにか気に入らないことがあればすぐに文句、文句、文句。


 ネット上でもそうだ。

 誰かが反対の声を上げればすぐに誰かが乗っかる。

 批判する。

 裏切る。

 いじめる。

 その人の命は奪われる。


 人は単純な生き物だ。正しいものなんてこの世に存在しないのに、あれが正しい、あれは間違ってる、すぐにどちらかに決めたがる。そして周りのみんなというある種の宗教に囚われ、すぐに手のひらを返す。馬鹿だ。阿呆だ。愚かだ──


「どうしたんですか?」


 突然、外の喧騒が止む。聞き覚えのある声に、僕はまた耳をそばだてた。


「おい聞いてくれよ。こいつがよお、俺にぶつかってきたんだぜ。そのせいで俺のコーヒーが俺の服にさあ」


 男性が周りの住民に聞こえるように言った。そのあとに続く女性の声は、きっと謝っているのだろう、小さくか弱く聞こえた。


「そうだったんですね。うちの妹がご迷惑をおかけ致しました」


 妹……? 

 

「僕が代わって謝罪させていただきます」


 野太い声にはっと気がつく。この声は、大家さんの声だ。


「妹ォ?」


 男性が粘っこく聞き返す。


「はい、ここに越してきたばっかりなもんで。見逃してやってくださいませんか?」

「そうかあ」


 男性はだんだん面倒くさくなってしまったのか、返事が適当になってきていた。人がひとり増えたということもあるかもしれない。


「まあ、いいよ。この服、別に高いもんじゃないし」


 ついに男性は諦めたようだった。辺りは急に静寂に包まれる。この静けさが懐かしくも感じる。


 大家さん、妹いるんだな──。


 目を閉じ考えていると、瞼の裏に妹の姿が映る。


 元気なのか、何をしているのか、そもそも生きているのかすらも知らない。


 当然だ。自分から縁を切ったのだ。今の今まで忘れていたのに。考えないようにしてきたのに。


 くそ。今日は余計なことばっかり思い出してしまう。こんなこと今までなかったのに。


 僕はぎゅっと目を閉じる。明かりが瞼の隙間から入ってこないように。家族との連絡を絶ったことを後悔しないように。

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