二、

 玄関を開けると、すぐにいつもと様子が違うことに気がついた。


 暖かい空気、清潔な空気、そして何よりも──。


「いい匂い……」


考えるより先に言葉が口をついて出る。


 温かな料理の匂いが部屋中に広がっていた。その匂いに誘われて部屋に上がると、驚くことにあの料理とは無縁そうな大家さんがエプロンを着てフライパンを見つめている。


「お、大家さん……料理……できるんですね」


 突っ込んでいいのかわからなくて悩んだが、たまらなくなって聞いてしまう。大家さんは僕の質問には答えずに、さっさとコンロの火を止め、フライパンの中身を平皿によそった。


「焼きそばです。冷めないうちに食べてください。駄目やで、ちゃんと食べないと」


 大家さんはそう言ってごみがなくなって綺麗になったテーブルに焼きそばを置く。そして僕が口を開く間もなくさっさと身の回りの片付けを終え、軽く会釈をして出ていってしまった。


 僕は呆気に取られたまま、部屋の中にぽつんと独り残される。辺りにはソースの甘辛い匂いが漂っており、食欲が一気に湧き上がってきた。思わずゴクリと唾液を飲み込む。


「……いただきます」


 あぐらをかいて座り、手を合わせる。料理に対する久しぶりのわくわく感が口の中を埋め尽くした。


 湯気が立っている麺を箸ではさみ、口に運ぶ。口の中でソースの甘味が広がり、自然と頬が緩んだ。こんなに美味しい料理を食べるのは本当に久しぶりで、次々と箸が進む。


 いつしか僕はがっつくように食べ、だったの五分で食べ終えてしまっていた。


 久々に感じるお腹の満たされる感覚が心地よい。僕はほう、と息をひとつ吐き、綺麗になった部屋を改めて見渡した。


 散歩に行っていたたったの三十分でこんなに綺麗になるなんて。大家さんのあの顔からここまでの家事力は全く想像できない。


 からになったお皿に手を合わせ、立ち上がる。ちゃんとご飯を食べたおかげで少しだけ元気が湧いてきた。このあとはいつもと違うことをしようとさえ思えてくる。


 ……まあ、そう思ったのも一瞬で、きっとすぐに気が変わってしまうのだろうけど。


 お皿を流しに運ぼうとして自然と立ち止まった。


 僕の右手側に暗闇が広がる。六畳くらいの小さな和室の部屋で、ずっと使われていない。いつもここを通らないせいで存在すら忘れていた。忘れたい部屋でもあった。


 ここも掃除したんだろうか。


 モヤっとした感情が胸の中で渦巻き、それを打ち消すように首を振る。大家さんは部屋を綺麗にし、ご飯まで作ってくれたのだ。僕がとやかく言う権利はない。


 それにしても、今日は本当に久しぶりに外出した。今日のように外に出たのは何年ぶりだろうか。


 今まで食料や生活必需品などは全て宅配サービスで頼んでいた。だから、出るとしてもうちの玄関先、つまり部屋を出た先からおよそ三十センチだけだ。そのためか、身体は随分と痩せ細り、肌も不健康な青白い色になってしまった。


 エアコンの音だけの静寂に、水を流す音が邪魔をするように割り込む。僕は勢いよく落ちる水の冷たさに手を引っ込め、ぎゅっと握りしめた。自然と悪態が喉から漏れる。しかし、何故か僕の心はスッキリとしていた。

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