第一章

一、

 ピンポーン、と空気を切り裂くような音が鳴り、僕ははっとして目を開けた。いつの間にかうたた寝をしていたようだ。


 むくっと起き上がり、ぼーっとしている頭を起こす。すると、またインターホンの音が静かな部屋の中に鳴り響いた。誰だよ、とため息をつきながら何度も吠えるインターホンに向かう。


「石川さん。いるんやろ?」


 インターホンの画面にでかでかと写っていたのはしかめっ面をした大家さんだった。カメラ越しに睨みつけるその眼光に押され、僕は仕方なく通話ボタンを押す。


「……います」

「よかった。前みたいに倒れとるかと思った」


 機械を通した野太い声にほっとした気持ちが染み込んでいる。大家さんは関西弁訛りが残った声で続けた。


「入れてください。どうせこんな寒いのにエアコンも点けてへんのでしょう」


 大家さんに言い当てられてギクリとした。とはいえ、部屋に入れるというのも抵抗がある。


 僕が渋ると、大家さんはうっすらヒゲの生えた顔をカメラに近づけ、眉をしかめた。重い威圧を感じ、僕は渋々玄関に向かう。


「やっぱり……」


 大家さんは入るや否や呟いて、エアコンのスイッチを入れた。ゴゴゴゴと少し心配な音が鳴った後にゴオー……とぬるい風が出てくる。それと共に目に見える程の埃が放出された。二人で咳き込み、同時にエアコンを睨みつける。


「……すみません……」


 僕が謝ると、大家さんは黙って僕を一瞥し、パーカーのポケットからマスクを取り出した。まるでこうなることを予測していたかのようだ。そしてまた黙ったまま黙々と部屋の片付けを始める。


「あ、あの……?」


 僕が戸惑って大家さんの背中に問いかけると、大家さんは僅かにこちらに視線を向け、マスクの下で口を動かした。


「貴方は散歩でもしてきてください。どうせずっと外に出てへんのでしょう。ずっと引き籠もってたら世界に置いてかれますよ」


 また見抜かれてしまった。

 どうして大家さんはこんなに分かってしまうんだろう。


「……ここに居られても邪魔やし、早く出て行ってください」


 溜息の混ざった声で言われ、僕は大人しくクローゼットからコートを引っ張り出し、寒い外に出た。


 久しぶりに外の新鮮な空気を吸い、少しばかり心のモヤが晴れる。はぁーっと息を吐くと、白い息が冬晴れの空に消えていった。

 

 靴の履き心地に違和感を感じながら周辺をぶらぶらする。大家さんの言う通り、ここら辺の様子も僕の知らない間に変化してしまっていた。


 辺りを見渡しながら、頭で何年か前の記憶を手繰り寄せる。小さな畑や八百屋など、小さな場所ばかりが失われ、代わりに新しい今風の建物が地面に影を落としていた。


 記憶の中を探りながらいくつもの角を曲がり、僕はある場所で歩みを止める。


 ブランコが二つあるだけの、小さな公園──。


 ここは僕がよく来ていた思い入れのある場所でもある。何故かここだけ一際明るい場所に見えた。


 ふう、と白い息を吐き、ふらりと園内に入る。


 ブランコも、ひとつだけぽつんとある茶色いベンチも、全てが記憶のままだった──……とは言えなかった。


 よく見ると雑草は生え放題で、ブランコの柱部分の塗料も剥がれ落ちてしまい、記憶の中そのものとは言い難い状態だったのだ。


 僕は公園内の、これまた廃れてしまった自販機に歩み寄り、温かいココアのボタンを押す。


 公園の中には誰一人おらず、しーんと静まり返っていた。自販機から目を上げると、不意に白い看板が目に留まる。


 『建設工事に伴う公園閉鎖のお知らせ』


 大きな太字で書かれた下に、閉鎖を始める日時が示されている。それによると、閉鎖が始まるのは今日から一週間後らしい。


 僕は熱いココアの缶を右手に握りしめながらひとり呆然とその看板を見つめていた。


 どんどん周りのものが変化して、自分がいた時の姿は面影もなく変わってゆく。


 世界はどんどん僕を置いていく。


 どんどん世界は未来に進んで、自分だけが過去に取り残されていく。


 僕は突然、莫大な孤独感に襲われた。


 ……──にゃあ。


 どこからか声が聞こえて、僕ははっとして目尻を親指の腹で拭った。


 ──にゃあ。


 透き通った声が耳に響く。

 その声の持ち主を探すと、ベンチの上にちょこんと座った灰色の猫がいた。


 にゃあ。


 僕と目が合うと、その猫は僅かに微笑む。それはまるで僕がまだ引き籠もる前の、爽やかな朝日のようだった。

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