五、

 ──たっくんっ!


 懐かしい声に振り向くと、そこには眩しい笑顔があった。

 僕は嬉しくて口を開くが、声は出ない。


 ──元気にしてた?


 聞かれて、僕の顔は自然と沈んだ。とても話せるような生活をしていない。


 僕が何も答えられずにいると、彼女は少し怒ったような表情になった。


 ──また暗い顔してる。


 彼女の言葉に思わずうなだれた。今の僕は、彼女の好きな僕じゃない。あの頃の僕はもういないのだ。


 ──ほら、もっと顔見せて?


 頬に冷たい物を感じ、すぐにそれが彼女の滑らかな手であることを理解する。彼女は僕の顔を覗き込み、そのきらきらと揺れる瞳で僕を見つめた。


 ──たっくんには笑顔が似合うよ?


 そう言われても、と口を動かすが、相変わらず声は出ない。


 ──ねえ……


 彼女の瞳が大きく揺れる。


 ──笑って?


 目尻がかっと熱くなる。


 彼女の笑顔は、その眩しさのせいなのか、それとも僕の頬を伝うこの光のせいなのか、真っ白な世界に溶けて消えていってしまった。




 バリバリ──ッ!


 辺りに響く轟音にはっと目を覚ます。


 青く淡い光の中で、雨が窓に打ち付けられる音が聞こえる。それ以外の音がすっかり遮断された世界で、眩い光が世界を包み込んだ。続いて、夜空を切り裂く音が辺りに響き渡る。


 僕はいきなり起こされたことに苛つきを覚えながら、布団を頭まで被った。


 寒い。


 そのことにはっとして見上げると、エアコンのランプが消え、暖かい空気は何処かへ消えてしまっていた。乱暴にリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。しかし、エアコンの反応はない。

 停電、という言葉が頭の中をよぎり、どきどきと心臓が身体を震わせた。今度は電気を点けようと試してみるが、電気は点くこともないまま、しーんと黙り込んでいる。突然感じた不安と恐怖に駆られ、僕は布団の中に縮こまった。布団を通し、雨の音と雷の音が大きく響く。


 早く止んでくれ──……!


 僕はたまらなくなって耳を両手で塞いだ。この音は嫌いだ。二度と聞きたくない音だ。耳を塞いでても聞こえる騒音で、脳裏にあの光景がちらつく。


 いらない。この記憶は。早く消えてしまえ。


僕はぎゅっと目を閉じた。


 うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。


 豪雨の音は、いつしか窓の外ではなく頭の中に響くようになっていた。


 傘に打ちつける雨の音。

 泥と化した地面を歩く音。

 鉄が震えて振動する音。

 荒くなった息遣い。

 ガスの匂い。

 雨の中で揺れる炎。

 血液──……


 僕は首をぶんぶんと振った。


 違う。


 これは全部僕の妄想だ。現実に起きたわけじゃない。


 そうだ。この頭の中を流れる映像も、この大粒の涙も、現実なんかじゃない。


 夢だ。全部夢だ。全部、全部、全部、全部、夢となって消えてしまえ。

 

 窓の外では絶えず雨が打ちつけられている。

 ゴロゴロという遠雷は未だ鳴り続けている。

 その他の音は聞こえない。

 僕の部屋は、誰もいないこの空間は、頭が痛くなるほどにしーんと静まり返っている。


 「……ごめんなさい……」


 呟いた声は、音にならずに雨に溶けていった。

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