第7話 薄紅の花の下。そして朱い花の中

「はぁはぁはぁああああああああ」

「えっ!大丈夫ですか、ナイシン君。そんなにダンス激しかったですか」

 白い闇の中はとんでもなく長かった。

いつまで走ればいいかわからず、ガムシャラに何時間……いや何日?も走り続けていた。

 なんで疲労まで持ってきてるんだよ。ゴールだと思ったら、疲労で倒れそうになるなんて。必死に駆けていた時は全くのに、世界にログインした途端に襲ってくるのは予想していなかった。

 でも、ちゃんと勇者の世界には着いているようだ。死の痛みもないから、無事にたどり着けたのだろう。記憶もしっかりと持ち込めているようだ。

「倒れるまでズッコんバッコん魔物を押し倒す馬鹿が、ダンスで疲れるなんてありえないでしょう」

 ワフの言葉を聞き流し、呼吸を整える。

「……ああ、大丈夫だ。ちょっと、魔王を倒すまでの疲労を魔法で蓄積してたんだ。それが溢れ出したんだ。心配かけた」

 世界に合わせた上手い嘘をつけたな、と自画自賛していいだろうか。

 彼女に大丈夫だとわかるように、平然を装う。

「そ、そうなんですね。良かったです、全人類の癌のような魔王が死んだ後も生産性もない呪いをかけてきたのかと考えちゃいました」

 たまにえげつない毒を吐くんだよなホヤケ。

「ええと、わたし。ナ、ナイシンさんに言いたいことがあるんです」

 ホヤケは顔を髪のように真っ赤に染め、所々噛みながらも言い切った。

 何度も体験してきたから、何を言うかはわかっている。けれど、止めるという無粋な真似はしない。

「わかった。聞かせてほしい」

 勇気を振り絞り出した告白を二度と無下にはしたくはない。

 だから、『初めて聞く』つもりだ。

「け──」

 彼女の勇気を殺すように弾けるような爆音が声を掻き消した。耳に届くべきだった言葉は、一文字しか入ってこなかった。

 城内が大パニックになる前にワフが大声で叫ぶ。

「お姫様の遊び道具が偶然偶々、引火しました。その場に居合わせたヒバが沈下したと連絡がありました」

 それを聞き混乱は収まる。

 彼女は事故が起きて数分も経過せずに収めてみた。

「──っ!」

 ホヤケは俯きドレスを両手で鷲掴みしている。

 だが事態は収まっても、振り絞って出した勇気は帰ってこない。それどころか、自分の管理不足で起きた不祥事なのだから目も当てられないのだろう。

告白もされてなければ選択肢もない。

 うまく言いくるめれば殺されないで済みそうな気がする。だが、ここで背を背けるのは、自分を許せなくなる。きっと一生後悔し続けるだろう。

「言葉は聴こえなかったけど、思いは伝わった」

「……えっ」

「ホヤケのことは好きだけれど、それが異性として好きなのかはわからないんだ。だから、お付き合いからお願いします」

 彼女の前で深く深く頭を下げる。

 これが俺の嘘偽りのない本心だ。彼女もお互いのことを全く知らないはずだ。だから、過程を飛ばさずに『しっかりと過程を踏みしめてから判断したい』という心からの思いだ。

 数秒経過し死の痛みが走らないことを自覚すると同時に、ホヤケの足元にぽとっぽとっと水滴が滴れ落ちた。

「……」

 何も聞こえないので、ゆっくりと顔を上げる。 

 彼女の表情は硬直しており、瞳という泉から川となって涙が流れていく。大丈夫かと声を掛けようと、視線を交えた時だった。

 俺に勢い良く抱き着いてきたのだ。予想していない衝撃に転倒しそうになるが、何とか彼女を抱き止める。

「もちろんです!ナイシン君から告白してくれるなんて、嬉しくて嬉しくてはちきれそうです。だから、絶対にわたしから離れないようにしてあげます」

 ホヤケは自信たっぷりに宣言して見せた。

 宣言と抱擁の強さから、絶対に好きにさせるという強い意思が伝わってくる。

 だが、その強い意志によって何かが目を覚ましたのを感じた。


 

「あああぁぁ。疲れたぁ」

 だらしなく全身の力を抜くように、ソファに背を預ける。

 『客間で待ってほしいです』と、ホヤケに言われたので指示通りにしている。

 殺されないかという気持ちを張り詰めていた。さらに、それをホヤケにバレないようにていたので疲労が凄かった。

「ヘタレね。あそこで誓いのキスをすれば、拍手と歓声の嵐だったでしょうね」

「お前なぁ」

 その後に続く言葉を理解しているように、闇のような漆黒の髪を持つ少女は嗤う。

 嗤い顔は『それでいい』とも語っているようで、しばらくは殺されることはないんだろうと、勝手に安心していた。

「なぁ、ワフ。もし答えられるなら俺を──」

「ソウルメイト、遅れてしまった。民衆に飲まれ、中々抜け出すに難い状況でな。申し訳ない、そしておめでとう」

「ん、ありがとうな。嬉しいけども、ここからが始まりだ」

 殺す理由を問いたかったが、タイミングが良いのか悪いのかヒバが邪魔に入ってきた。 

 魔法使いの格好が良く似合っているなぁ。あのヒバとは違うのだろうけど、雰囲気は一切変わっていないと思う。

 あまり考え過ぎずにいつも通りに接するとしよう。

 ヒバから水のペットボトルを受け取り喉に通す。 

「あれ、一番遅いのはホヤケなのね。てっきり、一番だと」

 カランセンまで現れた。ワフに聞くことを完全に諦めた方が良さそうだ。

「緩みっまくった顔を友人の前に出せるのかしら?何処かの誰かより無神経なじゃないわ。アヘ顔にも近い緩んだ顔を調節しているのでしょうね」

「誰が無神経だって、変態女」

「あら、私にとって変態は褒め言葉よ」

「場も弁えられないビッチって言い直した方がいい?」

「面白いことを言うわね。Gってジャンルの底に落としてあげるわ」

「やるの?オレはあんたの数倍強いわよ」

「貴方の動きなんて予想するに容易いわ」

 いつもの一触即発という事態だ。というか、喧嘩が始まった。日常茶飯事なので誰も止めない。

 ワフは隙があれば喧嘩を売るし、カランセンは煽り耐性が脆弱だ。これでも俺たちが知り合う前から友人関係を築いていたそうだ。

 喧嘩とは無縁だった俺らとは違い、彼女達は喧嘩すればするほど強く結ばれた関係らしい。

「みっともないからお祝いの時に喧嘩はやめてよ。どうしてもやるなら、一緒に魔物の残党を片付ける競争をさせるよ」

 手が二回鳴り仲裁が入る。

 声の主は青空のように青い髪を持つミャナだ。彼女の声を聴き二人はやれやれと肩をすくめ、お互いに視線を逸らす。

「えーと、お付き合いおめでとうなのかな。メイシン君、いくら好きかわからない段階でもお姫様を泣かせちゃ駄目だからね」

 わかってる、と答えようとしたが本当に泣かせない結末に至れるのだろうか。

 言葉を出せない。俺の中で何かが目覚めてから、彼女の好きな気持ちが揺らいでるように思える。

「ソウルメイトが堕ちるのも時間の問題であろう」

「男なんだし、早くあの贅沢ボディ──いだぁっ、やめなさい。痛いじゃない」

「いい加減にしなさいっての」

 ワフの下品な口を止めるように、カランセンは彼女の頬をつねる。

「あのお姫様もせっかく付き合うことになったんだから、人目のつかない所で二人イチャイチャすればいいのに。私達への見せつけかしら」

 ワフは不満そうに言葉を零す。

 ほんの少しだけ気を遣って下品な言葉を控えたようだ。それでも下品だが。

「イチャイチャできる訳ないだろ。好きっていう気持ちがわかってないんだから」

「でも、ナイシン君はラブコメの主人公の真逆のような人物だよね。自分の気持ちを直ぐに理解するし、相手の気持ちに対しても鋭いと思うよ。なんで控えめなの?」

 お前はお前で鈍いけどな。

 記憶を消されてるんだよ。だから、この気持ちも俺の物なのかわからないんだ、と心の中で呟く。

「そんなことないからな、俺は鈍い中の鈍いだ。それにしても遅いな、迎えに行った方が」

「ごめんなさい、ちょっと時間かかっちゃいました。みんなパーティー前の約束守ってくれましたか」

『わたしの手料理で花見をしたいので、あんまり食べないでほしいです』

 ふと頭に浮かんだ、そんな言葉。以前にもこんなことがあったような。

 記憶を探るも答えが見つからない。鍵がかかっているのか。

「ナイシン君、ボーとしてないで行きましょう。ほら、もうみんな行っちゃいましたから」

 周りを見ると客間に取り残されたのはホヤケと俺だけ。

 かなり集中して記憶を探ってしまっていたようだ。

「また何か背負ってるんですか」

 なんでこうも鋭いのだろうか。

「答えなくて大丈夫です。でも、疲れてしまって立ち止まりたくなったら甘えてくださいね」

 ホヤケは笑顔を作り廊下に向かう。

 あれ、そこまでわかってるのに問い質さないのか。その背に思わず、そんな心の声が漏れる。

「え、聞かないのか」

 ホヤケはゆっくり振り向き少し悩んでから言う。

「んー、わたしから無理には聞きません。わたしができるのはメイシン君を包み込んであげるぐらいです。それにメイシン君だから大丈夫だと思ってます。でも、あんまり無茶はしないでほしいです。心配はしてるんです」

「無茶なんてしてないさ。やれる限りのことだけしてる」

 嘘ではない。本当に俺ができる限りのことしかしていない。

 ミャナには良く『無茶しすぎ』と咎められるが。その答えに対して、ホヤケは見透かすように苦笑いで返した。

「ナイシン君、手を繋ぐのは大丈夫ですか」

 そのぐらいなら、お安い御用だ。

 というか、さっきの長時間の抱き着きの方が。彼女の柔らかさ甘い匂い、思い出すな思い出すな。

「ああ、大丈夫だ」

 いらないことを思い出し、汗が溢れ出た手を彼女に差し出す。

 大丈夫だろうか、という心配なんて関係なく彼女は力強く握ってくる。

にへぇ、と満開の笑みで顔を覗き込んでくるので、心が高鳴って仕方がない。そんな顔を直視できないので、考えもせず目を逸らす。

「じゃあ、行きましょう。色々と作って全部が自信作ともいえます!」

「料理はもう置いてあるのか」

「はい!なので早くいかないと冷めちゃいます。だから、ほら駆け足で」

 力強く握られた手を引っ張られる。鳴る鼓動は止まることを知らず、加速していく。

今だけは、自分の役割を忘れてもいいかもしれない。



「そんなこと─」

 ありえない。ありえないのだ。

 元居た世界では絶対に視ることができない光景が広がっていた。 

 贅沢をいうならば、絵師にこの瞬間を永遠に閉じ込めてほしい。写真いや映像に残し後世にまで届けたい。

 いままで味わった死の苦渋が精算されるかのようだ。もしこれが、俺の屍によって咲いているだったら本望だともいえる。

「桜の下に彼岸花が」

 桜色の天井の下には真紅の絨毯が広がっていた。 

 風が吹けば二つの色が混じり合い、蒼い空にも幻想を広げている。

 この二つの花は開花時期が違う。本当は夢ではないかと、心の奥底から疑う。

 『ここは異世界だ』 

 魔法のある世界で開花時期が違うなんて、些細なことではないか。

 それでも目の前に広がる光景は、目に心に脳に焼き付けられる。それほどに美しい光景だった。

「初めてです、こうやってみんなで花見をするのも。さぁさぁ主役がいないと始まりませんから」

 呆けていた俺を覚ましたのは、ホヤケによる強引な導きだった。

 目の前には手招きをする仲間たちがいる。

 俺はこうやって花見をするのは二度目だという確信があった。


「んふふ~」

「ちょっ」

「空の彼方で花火として爆発してほしいわ」

「珍しく意見が合うわね」

 ホヤケは懐いた小動物のようにベタベタとくっついてくる。顔を少しでも動かすと彼女の赤い髪に当たるほど近い。

そして、そんな俺たちをカランセンとワフは冷たい目線で見てくる。

「今は幸せに溺れ、噛みしめようではないか。あれの嫉妬すら一つのスパイスと考えるんだ」

「いいこと言いますわね。ヒバ、わたくしに酒を注いでくださいまし!」

 まだ乾杯していないのに、飲み始めている二人もいる。

「……!」

 悪寒が走る。

 気のせいだろうか、お酒は嫌な予感がする。いや、それよりも酔っぱらって雰囲気で発展してしまうかもしれない。お酒を飲まないで、お茶にしておこう。

「乾杯しましょう。みんなありがとう、これからもよろしくです!」

「「乾杯」」

 中の飲料が零れる力でグラスをぶつけ合う。

 飛び散った飲料は小さな虹を作り出す。


 こんな地獄絵図を見れば、嫌でも記憶は蘇る。なんで、この記憶を消してくれたのだろう。

 おい、俺のことが大切ならば、この記憶を消す必要は無かっただろ!

「ねぇいいから、【検閲】して【検閲】しましょう」

「あーわひゃしの彼氏にべとべとしないでほひいです。メイシン君もうわぁきですかぁ。かえったら……ひっく」

 ホヤケは酔っ払い親父となり、ワフは下ネタがパワーアップし検閲しなければヤバいレベルに到達。

 この時点で既に一人の手に追えない状況だ。

「なんで服を脱いでんだよ、お前は」

「酔っぱらってないわよ」

「いや、酔ってるだ──」

「酔ってないわよ!!」

 カランセンは下着姿で正座をしながら、酒を飲み続けている。

 どんなに聞いても『酔ってない』としか返答してくれない。まるでRPGにいるNPCのようだ。

「ぎゃはは……。わたくしはわたくしはこのグループにぞくして……うぅっ」

「……」

 花畑で仰向けになり倒れているソウルメイト。笑顔から一転して泣きじゃくるグロリー。

 助けを求めようと、手を探すがそんなものはない。

 俺の勘ありがとうな、お茶で助かった。酔っぱらっていたらホヤケに押し倒されてたなこれ。というか、二人にワフが言っていたことをされてしまう。

「ねぇ……押し倒されてくらしゃい」

「なぁ!初体験が」

「こんな桜の下でヤレて、今なら私も付いてくるのに不満があっていうの!?」

「それが駄目なんだろうが!」

 正直なことを言えば好きな人とこの花畑でやりたい。

 だが、他の目もあるし彼女を好きか俺はわからないんだ。そんな状況でヤレるか。彼女の両親にどう説得しろと。『ええ、酔っぱらった勢いで……』なんて情けなさすぎる。

「ミャナ、助けてくれ!」

 思わず、小さい彼女の名を呼ぶ。 

 ミャナは桜を見上げて固まっていた。

先ほどから女性二人の身体が密着しすぎて、酒を飲まなくても酔いそうなのだ。

彼女は俺の悲鳴を聞き、無言で立ち上がってくれた。

 二人が密着してるせいで表情はよく見えないが、きっと大丈夫だ。

「三人とも好きだよ!!」

「──!」

 ミャナは笑みを最大に咲かせ、小さな輪で一生懸命に俺らを包み込んでくる。

 久々に見たミャナの笑みに思わず固唾を飲んだ。

「ミャナ!一緒に【検閲】しないかしら?」

「やだ!こうやって好き好き大好きしたいだもん」

「ミャナさん、わひゃしの方がみんなのことがだぁいすきなんですぅ。あのクソイン○からわひゃしを救ってくれたんですからあ」

「女の子が言っていい台詞じゃねぇよ……」

 両手に花に見えるが、地獄過ぎる。誰か助けてくれ。

「だったら、私も女の子として注意してほしいわ」

「お前は注意しても無駄だろうが!隠語自販機!」

「下ネタは男女……いえ、世界を繋ぐ言葉でしょう」

「あーもう頭が痛くなってきた」

「ほら、二人とも喧嘩しないで笑ってよ」

「わぁいなさい。暗い顔してたらくちびる奪います」

「オレは酔ってないわよ。オレは酔ってないわよ。オレは酔ってないわよ」

 カランセンに至ってはもう素っ裸だ。

背を向けてるから大事な部分は見えないものの、芸術品のような素晴らしい身体のラインだけでも魅了される。

「ぐすっ……なんでわたしの好きな人はわたし以外の女性と。うぇえええん」

「……」

 深く息を吸って、覚悟を決めた。

 俺じゃ手に負えない。酔いが覚めるまで犯されないように抵抗するしかない。

 

 翌朝。

 寝れなかった。太陽が顔を出してくれるまで油断できなかった。

 全員が寝たのを確認し、一人一人に毛布をかけるという雑用をする。

 こんなに酒癖の悪い集団だったことを記憶から消すのは酷い。

 思わず、ワフの方を見る。

今なら殺せる。

 そんな考えはあっさり一蹴し、ヒバの頭に水をかけてから花畑に沈んで目を閉じた。



「なんで逃がしちゃたんですか」

 幼いわたしはお父さんに問う。

 幾度となく、お父さんは理由を聞かずに人を助けてきた。今回もそうで、以前に助け友人となった人のお願いだ。

 わたしと同じぐらいの子が行方不明になり、探索を協力してほしいと。 

 見つけたのに、お父さんは保護どころか報告すらしていない。話を聞くだけ聞いていた。ただそれだけ。

「あの男の子は強い子だ。でも、今は一人にならないと壊れてしまうんだよ」

「女の子です、わたしたちが探してるのは。少なくとも報告はするべきです」

「駄目だよ、少なくとも今は。落ち着かないと自殺しかねないからね」

「じさっ……」

 お父さんはそういう冗談でもそういうことを言わない。だから幼いわたしでも本当なのだと気が付く。

「なんで、家出をしたか原因を聞けば、救える方法も」

「相手から無理に聞いちゃ駄目だ。これは家族の間で起きた大きな問題なんだよ。少なくともそれを一緒に背負える人じゃないからね、僕は」

「それでも、何も説明されないのは納得できないです」

 お父さんは優しくわたしの頭に手をのせる。

「そう思うかもしれない。でも、無理に辛いことを聞き出すことは心を傷つけてしまうんだ」

「……でもそれじゃ力になれてないと思います」

「いや、ただ寄り添ったり聞くだけでも人の力になれるんだよ。それだけは覚えておきなさい」

 

「……なに、いまの」

 わたしが目を覚ましたのは、豪勢なベッドの上。窓から見える空は暗い色をしていた。

夕暮れの下で父と似た人がいる不思議な夢だった。鉄の箱が人を飲み込んで走っていた。

 あんなのを見たら普通は驚き慌てふためくだろう。

「……わたしはあの鉄の箱を知ってる」

 でも、わたしはあれを知っているから驚かなかった。

「そんなわたしはここで生れて。違う、大切なことを忘れてる」

 わたしはここで育った記憶が……ない。幼少期を一つも思い出せない。

 あるのは、メイシン君と出会った後の記憶からだ。

 駄目だ。疑えば疑うほど何かが壊れてしまいそうになる。忘れよう、きっと魔王の呪いだ。

「お父さん、わたしは好きな人の力になりたいです。だから、ただ隣にいるだけなんて」

 絶対に嫌だ。



 十四日の中の三日目。

 酔っ払いの介護で疲れたのか、目が覚めたら二日目の夕方だった。なので二日目はお互いに休み、三日目からデートしようという話になった。

「油断しすぎだな」

 いつ殺されてもおかしくないのに、あのまま寝てしまうなんて。

 殺されてないってことは、そのまま続けろということなのか。それとも、タイミングを見計らっているのか。

「どっちだろうと手のひらで踊らされてるようで、いい気分になれないな。それにしても、俺のヒロインかぁ」

 つまるところ、元居た世界で好きだった人を探せということなのだろう。

 確かに思いを寄せる人はいた。だが、好きになった因果を覚えていない上に世界が変わると気持ちが変わる。

 この世界ではホヤケが好きで、次の世界ではカランセンが好きなのだ。それにヒバと話してから……。

「クズ男だよな、これ。これで思いなんて伝えられるわけないだろ」

 記憶を失っているのが大きすぎる。

記憶とは人生であり、その人を構成する要素の一つだ。人の蜜であり、時には苦く時に甘い。

 それが失われて、果たして俺は以前の俺なのだろうか。

「まぁ、俺が信じたことをするだけだな。今の自分さえ疑い始めたら、何も理解できなくなるからな」

 それは決めたことで、迷うことはない。

 もしかしたら、本当に英雄になれるかもしれない。

「え?あれ、わたし待ち合わせ時間を間違っちゃいました」

 お姫様としてではなく、普通の女の子としてホヤケは姿を現した。お姫様姿ではなく、ふんわりとした服装だ。

 慌てた様子でバックの懐中時計を取り出している。

 俺は首を掻きながらフォローを入れる。

「いや、ちょっと早く来たんだよ。風に当たりたくてだな」

 待ち合わせをした場所は、真紅と薄紅が混じり合う花畑のベンチだ。

 覚えていない場所を指定されても困るので、俺がここを待ち合わせに選んだ。

「何か悩み事でもあるんです?聞きます、どんなことでも解決します」

「大丈夫だ。ほら、魔王を倒した余韻を味わってただけだ。悩み事なんてない」

「……そういうことにしておきます。でも、困ったら頼ってください」

 どうやら彼女は疑っているようで眉をひそめている。 

 そんな表情も一瞬で、すぐに笑顔に戻った。

「わたしのことを好きになって貰うので、ついてきてくださいね」

「わかった。じゃあお手柔らかに頼むよ」


「これなんかどうです、動きやすいはずです。あとそれから、これも似合うと思います」

「俺はこの格好でいい。すぐにホヤケも守れるからさ」

「駄目です。平和になったんですから少しぐらい楽な格好をしてもらわないと、国民も安心してくれません。だから、色々と試着して決めてください。わたしも楽しんでますから、ほらほら」

 俺たちはデートで服屋に来ている。

 そして今、服を押し付けられ強引に試着室に入れられた。

「俺のことを気にかけなくてもいいってのに」

 小言を零し渡された服を着ていく。

 まず一着目。

「似合ってます。でも、普段着としては使いづらそうです。じゃあ、これもお願いします」

「おい。明らかに数が多い!これじゃあ、ホヤケが服を見れないだろ」

「いいんです。わたしはこうして色んな格好をするメイシン君が好きなんです。だから、どんどん、いっちゃってください」

 心の底から楽しそうに言われ、引くに引けなくなる。

 二着目。

「似合うと思たんですけど、少し派手すぎました」

「本当に楽しんでんだな。俺を着せ替え人形として遊んで──」

「では次に行きましょう!」

「少しは聞いてくれよ」

 三着目。

「似合ってます!これ買います」

「せめて、本人の意見を聞いてから購入してくれ」


 以降、そんなやり取りが繰り返された。

 気が付けば太陽は真上に上がっており、腹の虫も時刻を伝えてきた。

「何着買ったんだよ」

「わかりません。でも、似合っていたから問題ないです。楽しくなかったですか?」

「いや、そんなことない。意外と俺も楽しかった。服を選ぶことはほとんどなかったからな」

「良かったです。じゃあ次は──」

 そう言いかけたとき、ホヤケの足が止まった。

 彼女の目の先には、あの白い蝶が青空で優雅に飛んでいた。

 明るい彼女の表情が、瞬きする間だけ真っ黒に染まったように見えた。

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