古民家に隠された開かずの間
数年ほど前、夢だった田舎暮らしを実現させるべく、僕ら夫婦は都心から車で二時間ほど離れた田舎に移住して古民家を借りた。古民家の総床面積は五十坪ほどで、夫婦二人暮らしには広すぎた。あまりに広かったから使わない部屋もあったが、家賃は月に五千円だし、贅沢だという意識はなかった。
「ね、家賃五千円でこの広さ。畑で家庭菜園もできるし、最高よね」
妻は大喜びだった。こんなに破格の条件で古民家を借りることができたのは、村の移住促進政策によるものだった。しかし、この過疎の村へ、どんな手段を使ってでも若い人を呼びたいという村の役人たちの思いが、僕らに二度と味わいたくない恐怖を体験させることになった。
住み始めて三カ月ほど過ぎた晩秋の夜。徐々に肌寒くなり始めて、夜寝る前に部屋の四方から漏れてくる隙間風が気になり始めた。古民家は築百年以上過ぎた建物で、あちこちに隙間があるからそのせいだ。やむなくその隙間をホームセンターでスキマテープを買ってきてふさぐのだが、こんな面倒なことでも夫婦で一緒に作業すると楽しかったりする。しかし、肝心な隙間をふさぐ作業は、なかなか思うようにいかなかった。
「ねえ、まだどこかから冷たい風が来るね」
夜、和室に並べて敷いた布団に一緒に入りながら、妻が僕に言った。
「オレが昼に見た限り、隙間という隙間は全部ふさいだんだけどなぁ」
買ってきたスキマテープはすべて使い切るほど、あちこちに貼りまくったから隙間など残っていないはずだった。
「ねえ、そういえば、隣の部屋はどうなの?」
「あぁ、あの使ってない部屋のこと?」
僕たちが寝室に使っている広い和室の隣に、もうひとつ狭い和室があった。広さは三畳ほどで極端に狭く、恐らく茶室として使っていたのではないかと思われた。しかし、その部屋は外壁に接してないので、隙間風が入ることはないはずだ。
「いやあ、あの部屋から風が入ることはないと思うよ」
「そうかなあ、念のため見てきてよ」
「え、今から?」
「もしかして、怖いの?」
「寒いから布団から出たくないんだよ」
妻にはそう言ったが、本当は少し怖かった。田舎の夜は音も光もない闇の世界だ。冬が近くなると虫もカエルも鳴かない。ご近所さんもご高齢の方々ばかりで、夜も十時を過ぎればみんな眠ってしまっている。走り過ぎる車の音や、ヘッドライトの光でもあれば少しは寂しさも紛れるだろうけど、この時間に辺境の地に訪れる車など一台もない。
「はいはい、怖いんでしょ? 私が見に行ってあげるね」
「あはは、サンキュー……」
僕自身はさほど怖がりというわけでもないし、いまだかつてオバケや幽霊の類は一度も見たことはない。しかし、この古民家は引っ越したときから、どことなく嫌な雰囲気を感じていた。
「キャーーーー!」
妻の悲鳴が聞こえた。やっぱり出たのだ。
「ど、どうしたの?」
「ちょっと来て、早く!」
「何があったの? そこで説明して!」
「もう、怖がってないで、こっちに来てよ!」
寒さと怖さで震えながら隣の部屋に行くと、そこには体長五センチはあるだろう大きなクモが壁を這っていた。
「なんだ、クモかよ、びっくりした、オバケかと思ったじゃん……」
「こんなに大きなクモ、どこから入ってきたんだろう。きっと、どこかにまだ隙間があるんだよ」
虫はそんなに苦手ではなかったけど、さすがにここまで大きなクモを手でつかむ勇気はない。押入れから古新聞を取り出して、パタパタとはたきながら、掃き出し窓のある居間に徐々に追いやり、なんとか外に追い出した。
その時だった。
「キャーーーー!」
再び、同じ部屋から妻の悲鳴が聞こえた。さすがに二度目は虫じゃないだろう。今度こそ出たのだ。
「ど、ど、ど、どうしたの?」
「ちょっと来て、早く!」
「何があったの? そこで説明して!」
「いいから、こっちに来て!」
妻は口をポカンと開け、目を丸くしながら部屋の壁を指さしていたが、そこには壁以外のものは何もなかった。まさか、妻だけが見えている幽霊でもいるのだろうか。余計に怖くなった。
「なに? 壁? 壁がどうしたの? なにか見えるの? なにもないよ?」
「ちがうって、壁を全体的に見て!」
「全体的に?」
そこで僕は一歩下って、壁の全体を見た。
「う、うわぁっ!」
一瞬で血の気が引いた。そこには等身大の人間の形をした染みがうっすらと浮かび上がっていたのだ。
「ねえ、これ、ヤバくない?」
「ヤバい、絶対にヤバい!」
「ほら、ここが顔で、ここが手で……、両手を挙げて叫んでいるようなシルエットだよね……」
「おい、やめろよ、マジで怖くなってきたよ、もうこんなところで眠れない!」
しかし、僕がそう言ったにもかかわらず、なぜか妻は少し笑っていた。
「え、なんで笑ってるの? キモイんだけど」
「古い家だし、染みもあるよ。家賃五千円なんだし我慢しようよ」
「マジで言ってんの?」
「明日ホームセンターで壁紙買ってさ、二人で貼ろうよ。DIY楽しいじゃん!」
「まじか……」
家庭菜園とDIY、そして家賃五千円があればオバケくらい何匹出ても構わないと言わんばかりのたくましい妻。やむなく覚悟を決めて、壁紙を貼ってしのぐという妻の考えに同意した。翌日、ホームセンターで真っ白な壁紙を買い、それを二人して人型の染みがある壁に貼った。
それから三週間ほどが過ぎただろうか。季節も十二月に入り、いよいよ暖房を入れないと耐えられない程の寒さになった。薄気味悪い染みは隠したが、相変わらず隣の部屋からは隙間風を感じていて、何とかしないといけないと思い始めた。
「隙間風、今日はかなり気になるよね」
「うん、今日はめっちゃ冷たいね」
最近の夫婦の寝る前の会話はいつも隙間風の話だった。
「ねえ、隣の部屋、見てきてよ」
「嫌だよ、あの部屋は怖いんだよ」
「もう……、じゃ、私が見るよ。今夜は徹底的に隙間を探すから」
妻が寒そうに隣の部屋へ向かった。申し訳ない気持ちもあったが寒いし怖いし、ここは勇敢な妻に隙間退治を頼むことにした。
ところが、再び僕たちに恐怖が訪れた。
「キャーーーー!」
妻の悲鳴が聞こえた。先日よりも大きな悲鳴だ。またクモが出たのか、いや、今度こそ幽霊か。布団の中で叫んだ。
「ど、ど、ど、どうしたの?」
「ちょっと来て、早く!」
「怖いよ、そこで説明して!」
「もう、怖がってないで、こっちに来てよ!」
しぶしぶ隣の部屋に行くと、目を疑うような光景がそこにあった。新しい壁紙を貼ったはずなのに、壁には再び人間の形をした染みが浮き出していたのだ。
「う、うわぁー、もう、無理だ、オレはもうここには住めない!」
「ねえ、ちょっと待って。でも変じゃない? 昼間に人の形ってあった?」
「い、いや、覚えてない」
「私は覚えてる。お昼にはなかったはずだよ。夜になると浮き出てくるっておかしくない?」
「おかしくないよ、だからオバケの仕業だってば」
妻は壁をじっと見つめていた。
「あまり見ない方がいいって。幽霊に憑りつかれちゃったらどうするんだよ……」
壁を見ていた妻は、今度は天井を見上げた。そこには、オレンジ色の光を放つ古い豆電球がぶら下がっているだけだった。
「わかった、これって光の加減じゃない?」
「光?」
すると、妻は壁を触りだした。
「ちょ、やめろって、呪われるぞ!」
「ほら、触ってみて、壁に凹凸があるでしょ? 電球の光で壁の凹凸に影ができて夜になると人型に見えるんだよ」
確かに妻の言う通りかもしれない。呪いや幽霊なんてあるわけがないし、すべての心霊現象は科学的な説明がつくはずだ。しかし、偶然とはいえ、ここまで見事な人型に陰影ができるものだろうか。すると妻はその場で犬のように這いつくばって動かなくなった。
「お、おい、急になにしてんだよ? 大丈夫か?」
「ちがうの……」
「何がちがうんだよ?」
這いつくばったまま動きを止めた妻は、数秒後にすっと膝を立てて起き上がり僕に言った。
「風、風を感じた」
「隙間風のこと?」
「うん、この壁と畳の隙間から風が来てるみたい」
妻が指し示す場所に顔を近づけると、確かにそこから風の吹き込みを感じられた。窓や建具の隙間ならいたる所をふさいだが、畳と壁の隙間は盲点だった。ということは、これでついに我が家の隙間風問題が解決したのだろうか。
「でも、こんなところから風が吹くって変よね?」
「変だけど……、古い家だから床に穴でも開いてるんじゃないの?」
妻は納得がいってないようだった。
「ねえ、ちょっと待って。この壁の向こうって何があるの?」
「なにがって、玄関、ていうか土間だろ……? ん、おかしいぞ?」
「でしょ? 謎の隙間があるのよ」
住み始めてから四カ月ほど気が付かなかった。この小さな三畳ほどの部屋の隣は土間だと思っていた。でも、気味の悪い壁一枚はさんだ先は土間ではなかった。壁と土間のあいだには、畳三帖ほどのスペースがあるのだ。そして、そのスペースには家のどこからも入れないのだった。
「ねえ、契約の時の間取り図ってある?」
「いや、ない。最初に見せてもらっただけだったから」
役所の担当者に古民家を案内してもらった当時を振り返ると、広い間取りと広い庭、そして家庭菜園に圧倒された僕たち夫婦は、その場のフィーリングに委ねて即決してしまったから、間取り図を持ち帰って自宅で検討するなどということは不要だった。
「ねえ、この壁、ちょっとだけ壊してみようか?」
「バカ、借りてるものを壊したらダメだろ」
「大丈夫よ、私たちのDIYの才能なら元に戻せるって」
そう言って妻は壁をドンドンと力強く手で叩いた。すると、壁の向こう側から支えていた木材が破損してしまったのか、バキっという音とともに、壁がグラグラと動いた。
「おい、やめろって、やるなら明日の朝にしようぜ!」
「いやーん、ゴメンゴメン、こんなに脆いなんて思わなかったのよー……」
古い古民家だからと言って、ここまで簡単に壁が壊れてしまうのは少し妙だと思った。なぜなら、長い年月を風雨にさらされながらも古民家の原型を維持しているということは、躯体、つまり壁や骨組みはとても強いはずだからだ。
次の日の朝、目を覚ますと隣にいたはずの妻がいなかった。隣の気味悪い部屋からも、家の中のどこにも妻がいる気配がなかった。きっとホームセンターにいってDIYのための木材や漆喰を買い出しに行ったのだろうと思い窓の外をみると、妻の車がないから間違いない。
一時間くらい経つと、妻の車のエンジン音が聞こえた。車から降りた妻は小脇に書類のようなものを抱え、その顔は眉間にしわを寄せ、とても険しい表情をしていた。
「どうしたの朝っぱらから?」
「街の不動産屋に行ってきたの。今日にでも、この家を出たい」
「は? 急に無理だよ!」
「さっきニ、三、物件は当たってきたから、ここから選んで!」
妻が脇に抱えていたのはアパートの間取り図だったのだ。
「突然すぎるよ、どっちにしてもすぐには引っ越せないって!」
外出先から帰るなり荷物をまとめ出す妻の常軌を逸した行動。これは昨日の壁の件で何かあったと思った僕は、まずは妻を落ち着かせて事情を聞くことにした。すると妻から予想もしていなかった話を聞くことになった。
「壁から幽霊が出たの。見ちゃったの。ね、もう無理でしょ?」
「ま、まじで? 夢じゃなくて?」
「うん、わかんない、夢かもしれないし、本当かもしれない」
「ウツラウツラしてたんじゃないの?」
妻が言うにはあの壁の中には病気の老婆が閉じ込められていたというのだ。その老婆の顔にはたくさんの腫瘍ができて赤黒く腫れており、それは顔だけでなく手足などの体中に広がり、歩くこともままらないような状態だったそうだ。ところが、その老婆は、妻が壊した壁の隙間から手を差し込み、かろうじて体が出られる程の隙間を開けると、這いつくばりながら部屋に出てきてしまったそうだ。しかし、なぜか老婆の目からは涙がこぼれ落ちており、ありがとう、ありがとうと何度も言って、そのまますっと消えてしまったというのだ。
「ま、まじか……、それは怖すぎるな……」
「でしょ、私、封印を解いちゃったみたい……。呪われるかもしれない……」
「でも、ありがとうって言ってたんだろ? 呪われることはないと思うよ……、知らんけど……」
「なによそれ……」
妻は黙ってしまった。でもその時、僕は妻の幽霊の話を聞いて、昔テレビで見たハンセン病の話を思い出した。
ハンセン病は昔からある皮膚病の一種で、これにかかると顔や体中に腫れものができ、放置すると失明したり顔や体が変形したりする怖い病気だ。もちろん、今は薬で治る病気であり、なんら恐れるものではないが、医療が未発達の時代は不治の病とされ、しかも恐ろしい伝染病であると噂されていたのだ。
それだけならまだしも、この病気が皮膚病であることから汚い病気であるなどと差別的扱いを受けたり、この病に罹るのは神が与えた天罰であるという田舎の風潮もあった。そのため、家族からハンセン病が出た時はそれを隠そうとする者もいた。なぜなら、神から見放された穢れた一族であると村八分を受けてしまうからである。
それだけではなかった。当時、日本はハンセン病に罹った人たちを強制的に国の療養所に収容していたのだ。病状が軽い者も重い者も探し出しては有無を言わさず強制連行していたそうだ。それは村八分を恐れた一部の家族にとっては体のよい厄介払いになったのだろうけど、逆に、どうにかしてハンセン病であることを隠して一緒に住み続けたいと思う家族もいたのだ。
「へえ、ハンセン病、知らなかった……。とすると、その顔中が腫瘍だらけのお婆さんは、あの部屋に一生涯ずっと隔離されていたってわけ?」
「うん、忍者屋敷みたいに、壁のような扉を作って、人目をカムフラージュしてたんじゃないか?」
「だとしたら辻褄が合うわね……」
きっとお婆さんが亡くなったあと、あの壁は釘を打って固定されたのだろう。でも、お婆さんは成仏できなかった。あの狭くて暗い部屋でなくなったお婆さんは、死んでからも魂だけがずっとこの狭い三畳間で家族から解放されるのを待っていたのだ。そして、妻は事情を知らずしてお婆さんを救ったのだ。
「ねえ、ちょっと待って! もしかして、お婆さん、まさか、まだあの中にいるんじゃない?」
「え、霊じゃなくて、本人がいるってこと? いや、そんなことは……」
まさか家族がお婆さんの存在を忘れて閉じ込めたまま見殺しにしてしまうなんてことがあったとしたら、今頃は白骨化した死体が壁の向こう側に横たわっていることだろう。想像したら鳥肌が立って、いても立ってもいられなくなった。
「ねえ、壁の隙間から中を見てみてよ」
「い、いやよ!」
さすがの妻も中をのぞき見る勇気はなかったようで、結局僕らはこの古民家を出ることにした。家に死体があるなどと夫婦二人で勝手なストーリーを導き出したところ、そのストーリが思いのほかしっくりきて自ら恐怖してしまった結果だ。もちろんすぐに引っ越しはできないから、その日から数日は古民家に寝泊まりしたが、妻が老婆の夢を見ることは二度となかった。
そのあと、念のため村の移住推進政策の担当者にも連絡を取って、あの家の謎の間取りについて尋ねた。担当者が一瞬口ごもったように感じたので、隙間風の話、幽霊を見た話、僕らが考えたストーリーをざっと披露した。
「いえいえ、死体なんてあるはずがありません。確かにこの村でもハンセン病は出ましたが、何十年も昔の古い話ですよ。さすがに、あはは……」
それから半年後、古民家が取り壊されたという話を人づてに聞いた。
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