砂漠のアザラシ
古びた病院。夕陽の射しこむ病室で、年老いた孤独な男が最後の時を迎えようとしていた。
「水をくれないか……」
男の声にならない声は、病室の窓からのぞく夕陽にしか届かなかった。男の死を看取る親族や友人はいない。やつれた頬とボサボサの髪。目を半分開いたまま男は逝った。心停止を告げる警告音が病室に響くと、医師と看護師がドアを開けてゆっくりとに病室に入ってきた。しかし、脈を測る以外は特に何をするでもなく、医師たちは淡々と男の最後を見届けた。
「ちっ、ここは本当に病院だったのか?」
男の霊体はフワリと病室の天井辺りまで浮かび上がった。
「結局オマエら何をしてくれたんだ! おい! おい、こら!」
天井から見下ろしながら男は罵詈雑言をあびせたが、医師と看護師は何も聞こえなかったのように遺体の処理を始めようとしていた。
「こいつら聞こえてないのか……。そうか、オレは死んだのか……。まあ、死ぬとは思っていたさ……」
七十歳を超えた男に家族はいなかった。ボロアパートで一人寂しく寝ていたら突然息苦しくなり、孤独死はごめんだと深夜に救急車を呼んだのだ。
「オレなんて、死んでちょうどよかったさ。救急車はカネがかかるって言うからな。どうせ入院代だって払えないんだから……」
男はしらけきった表情で病室を抜け出して、自分が住んでいた町を空から眺めた。
「死んだら終わりじゃなかったんだな……。この先オレはどうすればいいんだ?」
男は空を飛びながら昔のことを思い返した。若い頃に出会った最初で最後の恋人のこと、ビルの管理人からいつも感謝されていたこと、宝くじで10万円当たったこと。こうして思い出せばひとつふたつ、小さいが良い思い出はあった。
「いや、そんな小さな思い出なんか世の中に腐るほどある! こんなはずじゃなかった、オレはもっとすごいことがやれたはずなんだ……」
若い頃に俳優を目指して上京したが、いっこうに芽が出ず、ついに七十歳までビル掃除のアルバイトをして一生を終えた。自分の人生のどの場面を切り取っても、なにひとつ自慢できるようなエピソードはなかった。平凡な人生、いや、平凡以下だと男は自らの人生を評価していた。
そう思った瞬間、男の目の前の風景がガラッと変わった。
「ここはどこだ? 砂漠か……?」
そこは熱帯の砂漠だった。波打った黄色い砂が地平線のかなたまで続いていた。
「外国か? こりゃすげえ、海外旅行なんて夢のまた夢だったからなあ!」
異国情緒あふれる砂漠の風景に、最初でこそ好奇心で気持ちも高ぶったが、歩いても歩いても同じ景色が続くだけで、観光どころか面白いものなど何ひとつなかった。そのうち、死んだはずなのに喉の渇きが襲ってきた。
「いかん……、喉が渇いて死にそうだ……。自販機はないのか……? いったいオレはどこへ向かえばいいんだ……?」
東西南北、見渡す限り同じ砂漠の風景が続いており、男が目指す場所はどこにもなかった。
「まさか、オレは地獄へ落ちたのか……? おかしな話だ、いったいオレが何をしたって言うんだ! さえない人生を送って死ぬと、こんなひどい地獄が待ってるのか!」
男は歩き疲れて、熱い砂に膝から崩れ落ちた。そして、ばったりと倒れこんで熱い砂に顔をうずめた。
「オレはいったい、何度死ねばいいんだ……」
倒れこんでからしばらくの間、ボーっとしているうちに砂の暑さや喉の渇きすらもなくなっていた。こんなに熱い砂に顔をつけたのだから、きっと大やけどするに違いないと思っていたのに、いまだ灼熱の暑さに耐えられる自分に違和感を抱いた。
「砂漠で干からびて死ぬかと思ったけど、オレはまだ生きてる。どういうことだ?」
男は起き上がって砂漠の真ん中であぐらをかいて座りこんだ。少し冷静になって、遠くの景色を見ていると、目の前に蜃気楼が現れた。もやもやとした蒸気のようなものを見続けていると、山小屋のような小さな建物の形になった。
「砂漠の真ん中に小屋? 人がいるのか? 行ってみるか!」
男は砂に足を取られながらも早足で小屋へ向かった。最初は小さな点のようにしか見えなかった小屋だったが、気の遠くなるような距離を歩いて、やっとその全ぼうがあらわになると、男は感嘆の声を上げた。
「おぉ、まるでガラス細工の美術館だ」
山男が住んでいそうな小汚い小屋の周辺には、キラキラと光るガラス細工のオブジェが、とてもたくさん並んでいた。小屋とオブジェが置いてある場所だけは砂がなく、背の低い雑草がまばらに生えた草地になっていた。
男は小屋から少し離れた場所で立ち止まり、ガラス細工のオブジェを眺めた。一つ一つが人間や動物、または植物の形をしており、不思議なことに七色の光を自ら放っていた。
「不思議なガラス細工だな、吸い込まれそうだ」
いつまでも見ていたくなるほど美しかった。それらをじっと見ていた男は、ガラス細工の中に入って一体になってみたいという妙な欲望を抑えきれなくなった。
「おーい、係の人はいるかい? ここはどこなんだい?」
男は小屋に向かって大声を出した。すると、小屋の近くに置いてあったアザラシの形をしたガラス細工が突然動き出したかと思うと、本物のアザラシに変化して、男に挨拶をした。
「ようこそ!」
「うわっ、あんた話せるのか?」
男は一瞬驚いてのけぞったが、その愛嬌のあるアザラシの顔つきですぐさま警戒心が解かれた。似たようなぬいぐるみを、つい先日ビル清掃会社の社長の孫にプレゼントしたことがあり、それを思い出したのだ。
「あ、あんたがここの管理人か? これは売り物なのか?」
「私はあなた。そして、このオブジェもあなた」
「は、はぁ? オレがあんたってどういうことだ?」
「そういうこと」
「ふざけてないで教えてくれ! これからオレはどうなるんだ! 死ぬ思いでこここまで来たんだぞ!」
男はアザラシにからかわれたかと思って、苛立った口調で怒鳴ると、アザラシも怒りの表情に変わった。今にも男をかみ砕きそうな牙がギラリと光っていた。
「ガルルルー!」
アザラシは男をにらみつけてうなった。
「ま、待ってくれ、オレを食わないでくれ! わかった、許してくれ!」
男がそう言うとアザラシは再び穏やかな愛らしい表情に変わった。
「私はあなた。あなたと同じ」
「オレはあんただって? だからオレが怒るとあんたも怒るのか? よくわからないけど、わかったことにするよ……。でもここはどこで、オレはこれからどうなるんだ?」
アザラシは穏やかな表情で、たくさん並んだガラス細工から大きなドーナツのような形をしたオブジェを両手に抱えて、男の前まで運んできた。
「次は、これ」
「それはなんだい?」
「これもあなた」
男は混乱した。
「すまないが、あんたの言ってる意味がわからないんだ。あんたは、ここにあるものすべてがオレだと言うのか?」
「そう。ここはあなたの心」
「オレの心? ほう、だから見渡す限り砂漠だっていうのか?」
「今はそう」
男の心はすさみ切っていた。どれだけ頑張って人より努力しても俳優になれなかったからだ。四十歳を超えた頃から、もう何をしても無駄だと思い始め、五十歳を超えると、昔俳優を目指していて無茶をしものだと他人に語ることが唯一の自分への慰めになった。六十歳を超えた頃、男は人とのかかわりを拒むようになった。
「そうだな、言い訳ばかりのオレは格好悪かったな。口では強がっていたけど、焦りと虚しさだけの人生だった。確かにオレの心は砂漠だ……」
アザラシは暖かいまなざしで男を見守っていた。そして再びドーナツのような形をしたガラス細工のオブジェを男の目の前に差し出した。
「これをどうしろって言うんだい?」
「これが次にあなたが住む世界」
「次の? 来世って意味かい?」
「そう。あなたが作った」
「オレが作った? 来世を? いつ? 覚えてないよ」
「今はそれでもいい」
再び男は混乱した。そして、ふと周りを見ると、同じようにドーナツの形をしたオブジェがたくさん積み上げられていた。それぞれが七色に光っているのだが、少しづつ色や光の放ち方が異なっていた。
「どうしてみんなドーナツの形なんだい? あっちにある人間の形のオブジェや、そっちのスーツを着た人のオブジェとはどう違うんだい」
「あっちは大富豪の子に生まれて一生裕福な世界、そっちは政治家の子に生まれ、小さな村の村長になる世界」
「おぉ、すごいじゃないか! オレの来世はバラ色ってわけか?」
「そう。でも、それは以前に経験した」
「そ、そうなのか?」
「そう。一度経験したものは、もう使えない」
男にはそのような人生を経験した記憶が全くなかった。男に残るのは、孤独で貧しくて、才能に恵まれず苦労した人生だけだった。
「あんたがもってる、そのドーナツみたいな形のオブジェはどんな世界なんだい?」
「これは、サラリーマンの子に生まれて、一流の大学を出るも挫折を繰り返し、そして……」
「挫折? なんだか危なっかしい人生だね? 続きはどうなるんだ?」
「わからない。初めてのことだから」
「そんな人生は嫌だなあ、もっと華やかに、世界をあっと言わせるような偉人の人生を送りたいんだ。あんた知ってるか、オレが酷い人生を送って来たことを。オレだって一度くらい大富豪になりたいし、政治家や大社長になって他人を従わせてみたいさ……」
アザラシは斜め上を見てうーんとうなった。そして暖かい目で男に言った。
「同じような世界は過去に何度も味わってる」
「そうなのか? もしや、ここに並んだ人型のオブジェは全部オレの過去生なのか?」
「そう。中を見るとどんな世界だったかわかる」
男はガラス細工のオブジェを覗き込んだ。吸い込まれそうなほど美しい七色の光は、徐々に人間が暮らす風景に変わっていった。優雅な食事の風景、ありあまるお金、高いスーツを着てお迎えの車に乗り、人々のリーダー、国の指導者、時に政敵を倒し、他国を制した。
「すごいな。本当にオレなのか?」
「そう」
「あっちもそうかい?」
「そう」
小屋の前の広場にだけに置いてあると思ったガラス細工のオブジェは、小屋の裏手の方にもずらりと並べられており、数えるのもしんどくなるほどの数だった。それでも男は一つ一つオブジェを覗き込んで、自分がどんな人生を送ってきたかを確かめた。
朝もない夜もない自らの心の中の世界で、男は延々と自分の過去の人生をたどった。アザラシが言うように、確かに男は大富豪にもなったことがあれば、大社長、政治家、大スター、誰もがうらやむような人生を数限りなく経験してきたことが分かった。
「思い出してきたよ、確かに経験した。大金持ちや権力者も楽しいけど……、自由がなかったり、思い通りにならない方が楽しい人生になることもあるんだよな。しかも小さな幸せが、とても心に残る時だってあるんだよなぁ……」
「そうでしょ、そうでしょ」
男は千を超える人生を確かめたところで、キリがないと思ってやめた。しかし、一つだけ気になるオブジェを見つけた。
「あんたに聞きたいんだが、これは本当に全部オレの人生か?」
「そう」
アザラシは笑っていた。
「このオブジェ、ここの中にある人生は、オレの母さんじゃないか? 母さんの人生が紛れ込んでいるみたいだ」
「それもあなた」
「これも?」
「そう、全部あなた」
「それはおかしいよ」
「おかしくない!」
いつのまにか辺りの風景は砂漠から花畑に変わっていた。赤や青、黄色や紫の花が咲き乱れ、なにもなかった荒野の砂漠に春がやってきていた。
広大な花畑の中にポツンとたたずむ小屋の前で、アザラシは笑顔で男に手を振った。
「じゃあ、行ってくるよ」
男はアザラシが差し出した平凡と挫折が待ち受けるオブジェを地面に置いて呟いた。
「とても美しい。今にも吸い込まれそうな世界だ」
男はこのオブジェと一体になりたいと言う要求を抑えることはできなかった。希望と興奮の思いを抱いてガラス細工の中の世界へ飛びこんだ。
都内の小さな病院で小さな命が誕生した。新生児のベッドのわきには小さなアザラシのぬいぐるみが置かれていた。
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