ご先祖様の山を売ってはいけない

「ジイサンの山で幽霊を見たってウチの社員が言うんだよ」

「なんだと、勝手に山に入るなって言っただろ!」

「ちょっと遠くから眺めただけさ。それに目撃者は大昔からいるし、オレが子供のころから天狗やオバケが出るだの言われとったからな。いい加減、こんな気味の悪い山は早く売っちまったらどうだい?」

「うるさい、早く帰れ!」


一年前くらいから不動産屋が家にちょいちょいやってきて、じいちゃんに山を売れとしつこく迫ってくる。

僕のうちは農家で、裏山にはとても広い果樹園がある。果樹園の裏はうっそうとした山になっていて、そこから先に人はだれも住んでいない。迷い込んだら遭難してしまうから、絶対に山に入るなと幼いころからじいちゃんに言われてた。

それに、天狗や幽霊が出るという噂もあったから、怖くて一度も山の中へ入ったことはなかった。もちろん、じいちゃんはオバケなんかいないって言っているけど……。


ちなみに、山といっても果樹園のあたりはなだらかで、市街地まで遠くないから、村長をはじめ村の偉い人たちは山を切り崩して分譲地やショッピングモールに開発したがっているらしい。だから僕の家に不動産屋をよこしてくるのだ。

しかも、その不動産屋の息子のカズキは、僕と同じ小学六年生で、クラスで一番ケンカが強い悪ガキだ。


「おい、リュウガんちの山、またオバケが出たって父ちゃんから聞いたぞ」

「オバケなんて出るわけないだろ」


カズキのお父さんがじいちゃんに会いに来た次の日は、必ず学校でカズキにバカにされる。きっと、山を売ってくれないじいちゃんの悪口や、オバケが出る山の話をカズキに話しているにちがいない。


「オバケ山に住んでるリュウガ。さては、お前もオバケの仲間だな?」

「なんだと? バカにするなー!」


怒って叫ぶとカズキが僕につかみかかった。そこへタイミングよく先生が教室に入ってきた。でも先生は不機嫌そうな顔をして席へ着けと言うだけで、僕に乱暴しようとしたカズキを見ても何も注意しなかった。

実はカズキのお父さんは村長だけでなく、学校の偉い人とも仲が良かった。出世に響いたり遠くに飛ばされるのが怖くて、先生はカズキが悪さをしても強く注意ができないのだ。だから僕は悪口を言われても先生に相談することもできず、家でじいちゃんに愚痴るしかなかった。


「ねえ、じいちゃん、またカズキがじいちゃんの山にオバケが出たってバカにしてきたよ」

「おぉ、そうか。あっはっは」


うちの家と山はじいちゃんの持ち物で、僕と父さん、母さんは、そこに住まわせてもらっていた。


「笑い事じゃないよ、許せないよ」

「怖がりの意気地なしの言うことなんか放っておけ。わっはっは」


じいちゃんは僕のことを子ども扱いして、いつもまともに話を聞いてくれなかった。でも本当は僕もオバケを見たことがあった。果樹園でボールを投げて一人で遊んでいた時だ。ボールが山の方に転がって行ってしまったので、怖かったけど仕方なく山の入り口あたりまで拾いに行った。その時、暗い山の奥の方から何かの視線を感じた。そして、どこからともなく鈴のような音がシャンシャンと鳴って、天狗のような恰好をした白い人影がスウッと視線を横切った。死ぬほどびっくりしてボールも拾わずに家に逃げ帰ったことがあった。


「じいちゃん、真面目に聞いてよ。実は僕も山でオバケみたいなのを見たことがあるんだよ」

「オバケ? じいちゃんが子供のころから山にオバケなんかおらんな。いるとしたら山の神様だな。わっはっは」

「神様?」

「うん。山には神様が住んでいて、悪いやつが入り込まんように見張っとるんだ」


いつもじいちゃんは僕のことを子供だと思って適当なことを言う。神様なんていないことは小学生なら誰だって知っている。


「神様なんて、いるわけないでしょっ!」

「わっはっは。だったらオバケだっているわけないな」

「あ、そうか……、え、そうなの?」


じいちゃんに言いくるめられた僕は、今日の夜、仕事から帰ってきた父さんに相談しようと心に決めた。今まで学校でバカにされていることなんて、恥ずかしくてじいちゃんにしか話したことなかったけど、じいちゃんはまともに取り合ってくれなかった。でも、父さんなら学校の先生やカズキの親に注意してくれると思ったからだ。

ところが、その日はそれどころじゃなかった。なんと、父さんが勤めていた建築会社を辞めたと言うのだ。


「リュウガ、会社辞めて、明日からじいちゃんと一緒に農業やるぞ。だから夕方にキャッチボールもできるからな。嬉しいだろ?」

「うん……、でも、どうして辞めたの?」

「あはは、これからは農業の時代だからな」


父さんの様子がいつもと違っていたことはすぐに分かった。あまり喜んでいるようには見えなかったのだ。もしかしたら辞めたんじゃなくて、クビになったんじゃないか。もしかしたら、カズキのお父さんの仕業ではないか。そう思って次の日に学校へ行くと、思った通り、父さんが会社を辞めたことをカズキが知っていた。


「リュウガの父ちゃん、会社クビになったってさー。だっせー」

「誰に聞いたんだよ、クビじゃないよ、山で農業をやるんだよっ!」

「ウソつけ、クビになったって父ちゃんから聞いたぞ。きっと仕事で大失敗したんだろ、だっせー」

「う、うるせー」


自分の悪口ならまだしも、親の悪口を言われて悔しくてたまらなかった。でも、父さんが仕事を辞めたのは本当だから何も言い返すことができなかった。先生に言いつけてもどうにもならないと思ったし、クラスのみんなからも笑われて、ついに僕は教室を抜け出した。

抜け出した後、そのまま家に帰ったら怒られると思って、しばらく通学路の途中でウロウロしていた。三十分ほど過ぎたくらいに、母さんが心配そうな顔をして僕を見つけた。怒られるどころか涙を流して心配してくれた。僕が教室を抜け出した直後、クラスの女子が先生に言いつけたらしく、すぐさま学校から家に電話が入ったみたいだ。


家に帰ると、僕と両親、じいちゃんの四人で話し合いが始まった。いつもヘラヘラして何を話しても笑って流していたじいちゃんも、今回ばかりは僕のことを心配してくれたのか、怖い顔で腕組みしながら目をつむっていた。重苦しい空気の中、沈黙がしばらく続いた後、思いつめたように父さんがじいちゃんに話し始めた。


「オヤジ、もう山を売ってしまおう。山を売ればたくさん家も建つしショッピングモールもできる。村も発展する。オレがクビになった理由も昨日話しただろ? 村おこしに協力しない社員なんか雇ってたら村長や役人ににらまれるから辞めてくれって社長に言われたって」


父さんが初めてじいちゃんに意見をした。この一年間ずっと我慢してた気持ちが一気に爆発したみたいだ。そしてやっぱり会社をクビになったのだ。父さんが可哀そうだった。でも、じいちゃんは腕を組んだままずっと黙っていた。


「オヤジ、何とか言ってくれよ。オレが村の除け者になるだけならいい。でも、リュウガまで巻き込んでるんだ。こんな小さな田舎の村じゃ、理不尽に屈しないと生きていけないことくらいわかるだろ? でもオレは屈したくないんだ。こんな腐った村なんか早く出て、都会へ引っ越したほうがいい」


僕の名前が出た時に、じいちゃんの眉毛がぴくっと動いた。やっとじいちゃんが話し始めた。


「そりゃ、わかる。でも、先祖代々守ってきた山だ。売り飛ばしたらバチが当たる……」

「バチが当たるって、もう当たってるだろ。オレだってリュウガだって酷い目にあってるんだ……」


今度は父さんに責められているじいちゃんがかわいそうに思えてきた。じいちゃんがとても大事にしている山だってことを僕は知っている。毎日山に行って柿の木や栗の木の世話をするじいちゃんの様子を近くで見ていればわかることだ。それに、父さんが仕事を辞めて農業を継ぐって話を聞いたときのじいちゃんはずっと機嫌がよかった。父さんと母さんは浮かない顔をしていたのに、じいちゃんだけはとても喜んでいるように見えた。


「オヤジはいつも先祖の土地って言うけど、土地、いや、大自然ってそもそも人間のものじゃないだろ。オヤジのものでも、先祖のものでもない。本来は誰のものでもないんだから、土地に執着するのはもうやめてくれよ。もういい歳なんだから、オレたちが町で働くから、ゆっくり老後を暮らしてくれよ……」

「だからって、山があんなやつらの手に渡ってみろ。今までのご先祖様の苦労が……」

「ご先祖、ご先祖って……、今までご先祖様がオレたちを守ってくれたのかよ……」


僕のせいでじいちゃんが責められることに我慢ができなくなった。僕が学校を抜け出すという大事件を起こしたせいで、家でも大事件が起こってしまった。そう思ったら、大人の会話に口を挟まずにはいられなかった。自然と涙が出ていた。


「ねえ、僕、この山が好きなんだ~。だから引っ越したくないよ~。ここにずっと住みたいよ……、わーん」

「リュ、リュウガ……」


僕が泣きながらそう言うと、じいちゃんの顔が少しだけ笑顔になった。


「おぉ、リュウガ、山が好きか、そうかそうか……」


でも、父さんはゆずれないみたいだった。


「オ、オヤジ、山が好きだからって住み続けるってわけには……」

「わかってる。わかってるから、少し時間をくれ。気持ちの整理……、ご先祖様に許しをもらわんとな……」


山を売ることにならないといいなと思いつつ、その日はいつも通り夕ご飯を食べてお風呂に入って寝た。

ぐっすりと眠った次の日、少し気分も晴れて学校に行くと、またしてもカズキは僕をからかい始めた。


「おい、リュウガ、学校サボるなよ」

「サボってないよ。風邪引いたから早く帰っただけだし」

「風邪? オバケの呪いじゃね?」

「うるさい!」

「あはは、呪いだ、呪いだ!」


その時、昨日の脱走事件を心配してくれたクラスの女子たちが僕の味方についた。


「ちょっとカズキ、オバケ、オバケって、あんたが一番オバケが怖いんでしょ?」

「はあ? 怖くねえし!」

「じゃあ、一人で山に行けるよね?」

「一人で? いやだね!」

「あー、やっぱり怖いんだ、かっこわるー」


いつも威張っているカズキが女子に言い負かされている様子を見て気分が良かった。


「わーい、カズキが一番怖がりってことで決定だねー、みんなー!」


わーっと女子から歓声が上がった。


「う、うるせえ! 一人で行けるけど、夜に出歩くと母ちゃんに怒られるんだよ!」

「じゃあ来週の日曜日のお昼に一人で行ってきなよ」

「え、昼に? 一人で行くのか?」

「当たり前でしょー、怖いのー?」


確かに山の奥の方は昼でも薄暗くて気味が悪い。すると女子の一人が僕に言った。


「ねえ、リュウガ、カズキが山に行きたいみたいだから連れて行ってやりなよ」

「え、えっ?」

「そうだよ、肝試し大会やろうよ、カズキは怖がりだからおしっこもらすよ」

「そうだそうだ! カズキぜったいおしっこもらすよー」

「う、うるせえ、もらすわけねえだろ! じゃ、じゃあ行ってやるよっ!」


僕がウンともイヤとも言うすきもなく、いつの間にか来週の日曜日にうちの山で肝試し大会をやることに決まってしまった。

怒られるだろうと思いつつ、家に帰ってじいちゃんにこの話をしたら、嫌な顔一つせずに笑って賛成したくれた。


「おぉ、友達を山に呼びたいのか、ぜひ連れておいで。肝試しもいいけど、山の遊び方を教えてやるぞ」


でも、父さんは反対みたいだった。


「オヤジ、果樹園ならまだしも、山は危険だ。もしも子供に怪我でもさせたら、あの不動産屋のことだし裁判沙汰になるぞ……」

「あいつらも一緒に呼べばいい。山を見てもらおう。尾根沿いの獣道を歩けば安全だ。測量も必要だろうに……」

「測量って、ま、まさか、オヤジ、ついに山を……」


思いつめたような表情をしていたじいちゃんを見て心配になった。


「ねえ、じいちゃん、山を売っちゃうの?」

「あはは、リュウガ、心配するな。まだあいつらが山を気に入るかわからないぞ」

「え? う、うん……」


そして日曜日がやってきた。クラスの女子と僕の友達が五人、カズキたち意地悪グループが三人の合計八人がうちの山の果樹園に集合した。腹が立つことに、大人がいるときのカズキは礼儀正しかった。


「おじいさん、今日はよろしくお願いします!」

「おぉ、元気のいい子たちだな、うちの山で肝試しとは、みんないい度胸だ。わっはっは」


するとクラスの女子がじいちゃんに言った。


「おじいさん、ちがうの。カズキ君がひとりで肝試しするって言うんだよ」

「お、おまえ、バカなこと言うな!」


カズキがうろたえたその時だった、坂の下の方から車のエンジンの音が聞こえてきた。白い軽トラックが坂を登ってきて、果樹園の脇の空き地に止まると、そこからいつもの不動産屋、カズキのお父さんが降りてきた。助手席には作業服を着た男の人がいて、何かを測るような道具を軽トラックの荷台から降ろし始めた。


「おう、カズキお前もいたのか、何しに来たんだこんなとこに」

「父ちゃん、黙っててゴメン、今日はリュウガんちに遊びに来たんだ」


すると、さっきの女子が言った。


「ちがうよ、カズキ君が山へ一人で肝試しをするって言ったから、みんなで集まったんだよ」

「えっ? カズキほんとか?」

「う、うん……」

「おまえなあ、ここは子供の遊び場じゃねえぞ、部屋でテレビゲームでもやっとけ!」


カズキのお父さんの一言で、肝試し大会は中止になった。じいちゃんはその様子を見て苦笑いしていた。


「本当は一人で山に行けたけど、父ちゃんがダメって言うから仕方ねえなっ!」


肝試しが中止になって、カズキは少し喜んでいるように見えた。

せっかく集まった友達たちは、そのまま家へ帰って行った。でも、僕とカズキはその場に残って、じいちゃんとカズキのお父さんたちの様子を見守った。


「この山はご先祖の山だから、崩していいのはそこら辺までだ」

「どうしてそんなことをじいさんが決めるんだよ、崩すか崩さないかはこっちで決めるんだよ」


じいちゃんは、二人に山の説明をしているようだった。その声が聞こえてきた。


「まあ、いい。案内するから、ついて来い」

「案内なんかいらねえよ、ちょっと様子を見るだけなんだから」

「山をナメたらいかんぞ、それにここは……、おい、先に行くんじゃない」


そそくさと歩き出す二人を追いかけるように、じいちゃんもあとから山の中へ入って行った。すると、その様子を見たカズキが僕に小声で呟いた。


「リュウガ、こっそりついて行ってみようぜ」

「いやだよ、山は危険だって、じいちゃんが言ってたから」

「ふーん、オバケが怖いんだな、弱虫リュウガ」

「ちがうよ、怖くないし」

「じゃあ、行こうぜ!」


カズキにバカにされるのが嫌で、仕方なしに二人でじいちゃんたちのあとをつけた。山道はいつもじいちゃんが通っているためか、木や草が生えてない細い道ができていた。落ち葉がいっぱいで少しだけ足を取られたけど、思ったよりも歩きやすかった。でも、周りを見ると薄暗くて、どこを見渡しても同じ景色に見えた。もしも、じいちゃんたちを見失ったら山の中で遭難してしまうだろう。


「カズキ、じいちゃんたち足が速いから見失うなよ」

「わかってるよ!」


カズキはちょっと太っていたから、山を歩くのはあまり得意じゃないようだ。大人の歩く速さについて行けなくなって、ついに僕らはじいちゃんを見失ってしまった。カズキにそそのかされて内緒で山に入ってしまったことに後悔した。


「カズキ、はやく歩けよ、じいちゃんたち見えなくなっちゃったじゃんか……」

「し、仕方ないだろ……、じゃあ、もう帰ろうぜ」


帰ろうと言われて、今来た道を振り返ると、もうどこからどうやって来たのかわからなくなっていた。最初は道が一本だけあるように見えたけど、よく見ると、あっちにもこっちにも道が枝分かれしているようにも見えて、どっちに進んだら果樹園の方に戻れるのか見当もつかなくなっていた。


「無理だよ、もうもどれないよ、道がわからないよ!」

「うそだろ、おまえんちの山だろ?」


その時だった。遠くの方からシャンシャンと鈴のような音が聞こえ始めた。僕らはその不気味な音に凍りついた。


「お、おい、リュウガ、今、鈴みたいな音が聞こえなかったか?」

「う、うん、聞こえた……」

「や、や、やべえ、オバケだ。父ちゃんが言ってたオバケだ~……」


カズキは涙声だった。


「やべえ、やべえ、どうするリュウガ~、鈴の音が聞こえるときって幽霊が出る前兆だって父ちゃんが言ってたんだ~……」

「うん、僕も鈴の音が聞こえたあとに幽霊を見たことがある……」


鈴の音を聞いたのは今日が初めてじゃなかった。この前ボールが山へ転がり込んだとき、白い色をした幽霊のようなものを見てしまった直前にも同じように鈴の音が聞こえた。この鈴の音はカズキが言う通り間違いなく幽霊の出るサインなのだ。


「ば、ば、ばか、ばかなこと言うんじゃねえよ~、助けてくれよ~」


その時だった、山奥の遠くの方から「わあっ」と悲鳴が聞こえた。その声は間違いなくさっきまで僕たちの先を歩いていたカズキのお父さんと作業服を着た男の人の声だった。


「わ、わあ、もう怖いよぉ~、だれか助けてくれよ~、うわぁ~ん」


カズキはその場でしゃがみこんで、ついに大泣きしてしまった。


「カズキ、泣くなよ。動かずにここで隠れていよう。じっとしてればじいちゃんが助けてくれるよ、ぜったいに」

「う、うん……」


とは言ったものの、僕も少しだけ目から涙が出ていた。どうしたらよいのかわからなかった。でも、ここで待っていればじいちゃんが絶対に僕たちを探し出してくれると言う確信だけは持っていた。


「うわあー!」


また遠くの方から叫び声が聞こえた。僕とカズキは二人で頭を抱えてうずくまった。さっきよりも声が近くなったような気がした。

その時、誰かがそばにいる気配を感じた。てっきり、じいちゃんがやってきてくれたと思って、中腰になって叫び声がした方を見ると、あの時と同じ白い人影が叫び声のする方へ向かって行った。天狗のような、いや、昔のお坊さんのような服装をして、手も足も動かさずスウっと移動し、その顔は鬼のような怖い顔をしていた。僕は驚いて悲鳴を上げた。


「うわああー!」


そして、腰が抜けてその場でしりもちをついた。

僕の声としりもちに驚いて、今度はカズキが情けないほど大きな声で泣きわめいた。


「う、うわあぁぁぁー、もういやだよぉ~、わぁぁぁ~ん!」


その声に気が付いたのか、遠くからじいちゃんの呼ぶ声が聞こえた。


「おーい、リュウガ、リュウガたち、そこにいるのか!」


じいちゃんが近くにいると思ったら、急に僕も涙があふれ出てきた。


「じいちゃーん、ここだよー、うわーん、ここだよぉー」


最後のチャンスかもしれないから、思いっきり大声でじいちゃんを呼んだ。しばらくすると、道があるとは思えない方角からじいちゃんが小走りでやってきた。そして、僕たちは山を下りることができた。

果樹園まで戻ってきて、僕ら二人はこっぴどく怒られるかと思いきや、じいちゃんはやさしく山の神様の話をしてくれた。


「この山にはぬしがおるんだ。山の神様だ」

「山の神様? 本当?」

「本当だ。世の中の人は、それをクマと呼ぶがな」

「クマ? クマは神様なの?」


じいちゃんが言うには、クマは日本で一番大きくて強い生き物だから、昔の人は神様の使いだと思っていたそうだ。そのうち「カミ」という言葉がなまって「クマ」になったらしいけど、本当かどうかはわからない。そして、人間は神であるクマにはかなわないから、人間のいる場所には来ないで下さいと願いを込めて、山の上の方に果物をお供えしてお祈りをしていたと言うのだ。じいちゃんもご先祖様の言いつけを守って、果樹園で取れた果物や木の実を山奥にお供えしていたという。そのおかげでクマがエサを求めて山を降りて来ることもなく、僕らはクマに襲われることなく無事に過ごすことができているらしい。

じいちゃんの話しが終わると、カズキがじいちゃんに言った。


「おじいさん、僕の父ちゃんはどこ行ったの?」

「おぉ、あの二人は、行くなという方にどんどん入って行くからな。途中ではぐれてしまったよ」

「え、そうなの? 父ちゃんがわーって叫ぶ声が聞こえたんだけど……」

「もしかしたら、クマに出くわしたのかもしれんな……」

「そ、そんなぁ……」


その時だった。再びワーっという声が聞こえたので、山の入り口の方を見ると、カズキのお父さんと作業服を着た男の人が怯えた顔をして駆け下りてきた。息を切らした二人を心配してじいちゃんが声をかけた。


「おぉ、無事だったか、だから勝手なことをするなと言ったんだ」

「ハアハア、この山にクマが出るなんて、ハアハア、思いもしなかったんだよ、ハアハア……」


すると作業員の男の人が言った。


「クマだけじゃないさ、幽霊も出やがった。この山はだめだ、おれはこの仕事はやらねえ!」

「おれも降りる! こんなとこ開発したら死人が出るわ。村長にも言っておくさ、呪われた山に近づくなって……、ハアハア……」


カズキのお父さんは山を買うことをあきらめたようだった。

するとカズキが言った。


「父ちゃん、ズボン濡れてるけど、大丈夫か、沼に落ちたか?」

「お、おぉ……、ビビっておしっこもらしたわ……。もう帰るぞカズキ!」

「父ちゃん、まじか......」

 

あとからじいちゃんに聞いた話によると、幽霊の正体は実はご先祖様だそうだ。うちのご先祖様は代々修験道の行者で、この山で修業をしていたらしい。ご先祖様が現れる時に必ず鈴の音がするのは、錫杖しゃくじょうという先っぽに金属の輪っかがついた杖を持っていたからで、この杖を地面につくときに、シャンシャンと音が鳴る仕組みになっているそうだ。クマ避けに鈴を持つのと理由は同じで、このシャンシャンという音を怖がってクマは近づいてこないらしい。

しかも、今日みたいに人が山に迷い込んだり、山に近づきそうな人がいると、クマに襲われないようにご先祖様がシャンシャンと音を鳴らしてクマを遠ざけてくれているそうだ。ご先祖様は怖い幽霊でも天狗でもない勇敢な修行僧で、いつも僕たちを守ってくれていたのだ。


こうして、僕らの住む山は売らずに済んだ。父さんはじいちゃんの後を継いで山を守っていく気満々だ。

もちろん、この日以来、カズキが僕をバカにすることもなくなった。

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