深夜に鏡を見てはいけない
「ねえ、ちょっと、大丈夫? ねえ、起きて! 起きてって!」
夜中にふと目を覚ましたユカは、夫のヒデユキが息をしていないことに気が付いた。驚いてヒデユキの体を揺すってみたが、いっこうに目を覚ます気配がない。
「起きて! ねえ、起きてよ!」
しばらくして妻の祈りが通じたのかヒデユキは目を覚ました。
「あ、うーん、どうしたの……」
「……もう、びっくりしたよ、息をしてなかったんだよ!」
「え、オレが? 普通に寝てただけだし、知らないよそんなの……」
「うそでしょ、心配したんだから! もう、まだ新婚なのに死なないでよね」
次の日、無呼吸症候群を疑ったユカは、ヒデユキに会社を休ませて一緒に郊外の病院へ向かった。しかし、医師からの診断は「異常なし」だった。病気の疑いはあるが、ひとまず経過観察をすることになったのだ。というのも、無呼吸症候群の特徴として寝ているときに大きないびきをかくそうだが、ヒデユキにその様子はなかったからだ。そして、もう一つの特徴として肥満であることがあげられるが、ヒデユキは痩せ型で肥満ではなかったのだ。
診察が終わって車で自宅へ戻る途中、ヒデユキはユカに気味の悪い話を打ち明けた。
「1年前にウチのオヤジが死んだ理由って覚えてる?」
「えーと、確か結婚する前だよね、突然死だっけ? まさか無呼吸症候群だったの?」
「実はそうなんだ……。しかもオフクロも、つい1か月前に後を追うように死んだだろ?」
「まさか、お母さんも同じ……?」
「そうなんだよ。オフクロが死んだのも突然死でさ、しかも二人とも寝てるときに死んだから、オレも同じ運命かもしれない……」
「それ絶対に遺伝だよ! 早期発見でよかったじゃん。これから治していこうよ!」
「うん、早く気が付いて良かった……」
大学時代から付き合っていた二人は、ヒデユキの母が死ぬ少し前に結婚したばかりだった。
「もっと早く無呼吸症候群だって気が付いてやれば、両親も助かったかもしれないんだよな」
「私たち離れて暮らしてたからね……、気が付かないのは仕方ないよ……」
ちなみにヒデユキは次男で、実家から離れて暮らしていたため両親の死に目に会うことができなかったことを悔やんでいた。
「死に目に会えなかったのは不幸だよな……、二人ともオレを恨んでるかな……」
「そんなの関係ないよ。それに形見の鏡だって、こうして大事に壁に飾ってるんだし、恨むわけないでしょ?」
「そうかな……、両親の呪いだったりしたら怖いよな、ははは」
「ちょっと、そういう話、私嫌い! 死に目とか、呪いとかバカみたいな話はやめて!」
地方出身のヒデユキは、幼いころから田舎特有の迷信の中で育ってきたためか、たまに非科学的なことを言うクセがあった。ユカはそのことをよく思っていなかったが、数日後、その思いを変えなければならない程の大事件が起こった。
再び夜中に目を覚ましたユカは、なぜこの時間に目覚めたのかわからず、布団に入ったままボーっと天井を見つめていた。そして、ふと隣で寝ているヒデユキのことが気になった。
「グッ、クカ……」
口元から妙な音を出すヒデユキに驚いて、まさかと思ってしばらくのあいだ耳を澄ました。
「いやだ、また息をしてないじゃない!」
ユカはこの前と同じように必死でヒデユキを揺さぶって起こした。しばらくして目を覚ましたヒデユキは今までになく不快そうな顔をしていた。まだ夜中の2時なのに、突然激しく揺さぶられて起こされたら不愉快に決まっている。
「また息をしてなかったよ! 心配で寝られないよぉ……」
「あの、心配してくれるのは嬉しいけど、オレ、明日も仕事なんだよ、何度も夜中に起こされたら困るよ……」
「だって、死んじゃったらもっと困るでしょ? 私、これからどうすんの?」
「死なないよ、確かに両親は寝てる間に死んだけど、オレはまだ若いし大丈夫だよ。そもそも医者は異常なしって言ったんだから……」
「医者なんか信用できないよ……」
「医者を疑ったらキリがないだろ、頼むから起こさないでくれ!」
少しキレ気味のヒデユキは再び眠りについた。優しい思いやりのつもりだったのに注意されたユカは、しばらく納得がいかず、布団に入って上半身を起こしたまま暗闇の中で考えた。
(1分? いや2分くらい息が止まっていたのに……。揺さぶっても全然起きなかったし、絶対に死にかけてたんだから……)
その後、30分ほどユカはヒデユキの寝姿を見守ったが、呼吸が止まることなくスヤスヤと寝ていた。それを見て安心したユカが、自分も眠りに就こうとした時だった。ふとヒデユキの寝顔が壁に掛けてある大きなアンティークの鏡に映っていることに気が付いた。その鏡こそが、ヒデユキの両親が亡くなったときに形見分けでもらってきた鏡だった。鏡の縁には装飾が施されており、まるで西洋のおとぎ話に出てくるような綺麗で重厚な鏡で、ユカも気に入っていた。しかし、どこか違和感を覚えた。鏡に映ったヒデユキが、なんとなくユカを見ているように感じたのだ。
「あれ? ヒデくん、起きてるの?」
ユカは小声で囁くようにヒデユキに言った。しかし、ヒデユキからはなにも反応がなく、耳を澄ましても寝息さえも聞こえなくなった。
「寝てるの? 起きてるの? 暗くてよく見えない……」
ユカはヒデユキを起こさないようにスマホのライトをつけて、大きな鏡に向かって照らしてみた。すると、鏡に映ったヒデユキの顔を見てユカは驚いた。なんと、寝てしまったと思っていたヒデユキは、カッと目を見開いてユカを見つめていたのだ。
「きゃっ!」
一瞬、驚いたユカだったが、すぐに冷静になった。
「え、もしかして、この人って、目を開けて寝るクセがあったの?」
ユカは鏡の方を向いて寝ているヒデユキの顔を覗き込んだ。しかし、ヒデユキはちゃんと目をつむって寝ていたのだ。とすると、鏡に映っていた目を開けたヒデユキは何だったのだろうか。変だと思って、もう一度ユカが鏡を見た時だった。そこには目を見開いてユカを見るヒデユキがいたのだ。
「きゃーっ! いやー!」
ユカの驚いた声で、再び夜中に起こされたヒデユキは、あからさまに怒りだした。
「……あのさ、頼むよ、夜中だよ! 明日仕事! そして、オレ死んでない!」
「ち、ちがうの、ヒデくん、ずっと起きてたの!」
「は? 意味が分かんない、オレは寝てた!」
「か、鏡見てよ!」
鏡には夫婦が夜中にケンカしている様子が映し出されていた。
「鏡? オバケでも映ったっての? 寝ぼけたんだろ?」
「そんなわけないでしょ、あの鏡、絶対に呪いの鏡だよ、ヒデくんが言ったとおり呪いだよぉー!」
泣き出すユカに、怒っていたヒデユキもさすがに尋常ではないと思ったのだろう。
「迷信みたいな話は大嫌いって言ってたユカが呪いだなんて……、いったいどうしたんだよ?」
ユカをなだめて、丁寧に彼女の話を聞いた。そして、鏡の中の自分は目を見開いていてずっと眠っていなかったことを聞かされたヒデユキは、それならばと、二人の寝る場所を交換しようとユカに提案した。
夫婦はキングサイズのベッドに並んで寝ていたが、壁に掛かった鏡の側に寝ていたのはヒデユキだった。そこで明日の夜、鏡に映る眠ったユカの顔が、万が一目をあけていたらユカの話を信じると言うのだ。
「あの鏡の隣で寝るなんて怖いよ……」
「怖くないって、オレの親の形見だよ。それにユカはただ寝るだけ。明日は金曜だし次の日は会社も休み。オレが寝ないで鏡を見張ってやるよ」
「う、うん……」
次の日の夜、二人は予定通り寝る場所を交換した。ユカが眠りにつくまで、ヒデユキは布団の中でイヤホンをしながらスマホで動画を見て時間を潰していた。実は格好つけて鏡を見張るなどと言ったものの、ヒデユキは今までになくビビっていた。ユカを怖がらせないために言わなかったが、形見の鏡はずっと実家の両親の寝室に飾ってあったものだった。両親が寝ているときに亡くなったことと、この鏡との関連性を疑わないわけがなかった。しかし、1カ月前に母が亡くなったときに持ってきた大切な形見でもある鏡に「呪い」のレッテルを貼りたくない思いもあり、真相を自分の目で確かめたいと思ったのだ。
「2時か、なにも変わったことはないなぁ……」
二人は深夜0時過ぎにベッドに入り、ユカは1時前にはすでに眠りについていた。もちろん鏡を見ても、そこにはユカの寝顔しか映っていなかった。その状態が1時間以上も続くと、さすがに鏡を延々と見張っていたヒデユキにも睡魔が襲った。
「このままだとオレも眠ってしまいそうだ……」
そう思った時だった。辺りが急にシーンとなった。部屋の中は言うまでもなく、屋外の虫の音も、遠くで車が走る音も何の音も聞こえず、草木も眠る丑三つ時とはまさにこの時だと思った瞬間だった。妻の寝息が聞こえなくなったことに気が付いたのだ。
「あ、あれ? ユ、ユカ、息してるか……?」
ヒデユキはユカの顔に耳を近づけたが寝息も何も聞こえず、掛布団を見てもお腹が動く様子さえなかった。まさかと思って鏡を見た時だった。鏡の中の眠っているはずのユカは、ヒデユキの方をじっと見ていたのだ。
「う、うわぁー!」
瞬きもせず、固まったように目を見開いているユカを見て慌てたヒデユキは、ユカを揺さぶって起こそうとした。
「ユカ、起きろ! 起きろって! 早く起きろ!」
しかし、ユカは一向に目を覚まさなかった。気が動転したヒデユキは、ただ、大声を出してユカの体を揺さぶることしかできなかった。そして鏡を見ると自分に揺さぶられているユカが映っており、その顔はやはり目を見開いてヒデユキを見ているのだった。ヒデユキは激しく混乱した。
「いったいどうなってるんだよ、起きろ、起きろってー!」
その時だった。鏡の中に青緑色の光がうっすらと現れた。自分の後ろに何かいると思って振り返っても何もなかった。鏡の中だけでそれは光っていたのだ。揺さぶる手を止めたヒデユキは、ビクつきながらもその光を見守った。悪霊か、または亡霊でも現れたのだろうかと思ったら怖くて仕方がなかったが、ユカを残して逃げるわけにはいかなかった。すると、その不気味な青緑の光は徐々に人の形に変わっていった。
「うわあ、出た……、ついにオレも幽霊を見ちゃったんだ……。ユカ、ユカ、目を覚ませ!」
ヒデユキが隣で騒々しくしていても一向に目を覚まさないユカ。そのうち、青緑の亡霊は表情さえもわかるくらいはっきりとヒデユキの目に映り始めた。険しい顔をした老人。怒った顔、いや、何か焦っているような顔だ。身振り手振りでなんらかのゼスチャーをしているように見えた。怖い顔をして必死で何かを手で払っているような仕草をしていたのだ。ヒデユキは全身に鳥肌が立つのがわかった。
「な、なんなんだよ、誰なんだよ、オレたちにどうしろって言うんだよ……」
その青緑に光る亡霊は、延々とヒデユキに何かを訴えかけているようだった。しばらくその様子は、ただ不気味な光景にしかヒデユキの目には映らなかったのだが、手を振るようなしぐさが、次第に「鏡に近寄るな」という意思表示ではないかと思えてきた。
「ま、まさか、鏡を見るなって言うことか?」
ヒデユキは足をガクガクさせながらも勇気を振り絞って壁に掛けてあった鏡を取り外した。そして、鏡をなるべく見ないように、そのままゆっくりと鏡を床に伏せてユカの方を見た。そこには先ほどと同じく寝息も立てずに眠るユカがいた。
「おい、ユカ、起きろ! 起きろって!」
何度も何度も必死で呼びかけると、やっとのことでユカが目を覚ました。
「あ、あぁ……、ヒデくん、良かったー!」
「良かったーって、それはこっちのセリフだよ!」
ひとまずヒデユキは、今目の前で起こったことを伏せてユカから話を聞いた。するとユカは怖い夢を見ていたと言うのだ。夢の中でユカは天国のような場所におり、見知らぬ女性から「もうあなたは地上に戻れない」と宣告されたそうだ。夫を地上に残してきたから戻してくれと頼んでも女性は首を縦に振らず、困っていたらヒデユキの母親が現れたそうだ。ヒデユキの母は必死でユカを地上に戻すよう女性に懇願していたが、女性の顔には目や鼻や口もなにもなく、まったく無反応だった。自分は死ぬのかとユカは怯えながら二人の様子を見ていたと言うのだ。
「その気持ち悪い女が急に消えたと思ったら、こうして目が覚めたの……」
「そうだったのか……」
ユカが息もせずに眠っていた時、ヒデユキが鏡の中に見た青緑色に光る亡霊。恐らく、これはヒデユキの母だったのだろう。鏡の世界に来てはいけないとヒデユキに身振り手振りで必死に伝えたかったのだろう。かろうじて、母の思いを感じ取ったヒデユキは、間一髪のところで鏡を伏せ、ユカが鏡の世界、つまりあの世に行ってしまうことを引き留めたのだ。
次の日、ヒデユキは実家で暮らす兄に、両親の形見の鏡について何か知っていることはないかと電話をかけた。そこでヒデユキは兄から気になる話を聞かされた。
「あぁ、葬儀の時は黙ってたけどさぁ。オヤジが死んでからオフクロがずっと鏡に語り掛けてたんだよ」
「え、どうして?」
「早くオヤジのもとへ行きたいって、毎日言ってたよ」
「マジか……、そんなことがあったのか……」
「仲良かったからなぁ。バカなこと言うなって何度も注意したんだけど、ある日の朝起きたら本当にオヤジのもとへ行っちまったんだよなぁ……」
「鏡のせいかな?」
「確かに鏡はあの世の入り口だって言い伝えはあるけどな……。でも、だからオレ言っただろ? 鏡は持って行くのやめとけって……」
夜中の鏡は、あの世とつながっているから決して見てはいけないという田舎の言い伝えがあった。霊道といって、この世とあの世、つまり霊界へと続く道を鏡の中に作り出してしまうそうなのだ。実際、毎晩寝ずに鏡に向かってあの世に行きたいと祈っていたヒデユキの母は、そうと知らずに霊道を鏡の中に開通させ、自ら夫の待つあの世へ旅立ってしまった。そして恐らくユカが夢で見た顔のない謎の女性は、鏡の番人のような存在だろう。開いてしまった霊道を閉じずに形見として持ち帰ったヒデユキたち夫婦は、予期せずして鏡の番人にあの世へ引っ張り込まれてしまったのだ。
ところで、ヒデユキの実家の近くには鏡を供養する小さな神社があった。鏡を供養するのは、この地域だけの特殊な風習だ。鏡に映る寝ているはずの人が、もしも目を開けていたら、それは鏡が霊道を開いてしまった証拠。急いで鏡を伏せて寝てる人を起こしてあげなければならない。そして、早々に鏡供養をしなければならない。鏡は使い方を誤ると災いを招く、それゆえに各地の神社では神聖なるご神体として祀られているのだ。
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