怨霊よりも怖い女

今日も家に帰れない。家に帰ればあいつがいるからだ。

だから毎晩、仕方なくアルバイト先の友達の家に行って、酒を飲んでゲームをして朝まで過ごす。

もちろん、必ずしも毎日泊まり歩ける保証はなかった。時にはフラれることもある。


「ごめん、トオル。今日は無理。明日は彼女とデートで朝早いんだよ」

「そうか、わかったよ」


今日こそは中野のボロアパートに帰るしかなかった。あいつがいるけど仕方がない。今は寒い冬。凍え死んでしまうので野宿はできない。

ところで『あいつ』とは、暴力をふるう父親でもなく、家事をせず遊び歩く母でもない。ましてやゴキブリでもない。

暗く悲しく白い顔で現れて僕を脅す中年サラリーマン風の幽霊だ。しかも、週に一度くらいの高頻度で出現する。


「今日は出ないことを祈って早く寝るしかないな……」


そう呟いてベッドに入って布団をかぶった。古く歪んだ窓枠の隙間から入ってくる風が肩口にあたる。掛布団を顔の辺りまで引っ張り上げ、潜るようにして眠りにつくが、冷たい風が布団の隙間から入り込み、寒くてなかなか寝付けない。

すると決まって深夜二時くらいだろうか、ウトウトしていると急に耳鳴りのようなキーンという音とともに金縛りで体が動かなくなるのだ。

あいつが現れた証拠だ。


「起きろ……」


男が寝ている僕に向かって囁いた。

黒い人影が見えた。間違いなくあいつは近くにいる。


「う、うわあ、来るな、来るな、来るな……」


祈りもむなしく、男は僕の掛け布団をワサっとむしり取った。そこには怒りに震えた白い顔の痩せた中年男性が立っていた。


「さがせ……、そら……」


何を探せと言っているのだろうか。まったく心当たりがない。


「空? なに? わかった、わかったよ、やめてくれ、許して、許してー!」

「さがせ……、り……」


会話にもならず一方的に囁く幽霊。心臓の鼓動が激しくなる。


「誰かー、助けてくれー、殺される! 誰かー!」


僕が叫ぶと男は消える。


幽霊が出ることは最初から分かっていた。家賃が安い代わりに事故物件であることを条件に借りたのだから覚悟はしていた。でも、例え事故物件とはいえ本当に幽霊が出るとは思ってもみなかったし、ここまで酷い目に合わされるとも思ってなかった。こんな部屋に長く住んでいたら睡眠不足で病気になりそうだ。


父子家庭で僕は育った。母は僕が2歳の時にガンで死んだから、あまりよく覚えていない。

父は大工として働いて、僕を大学まで出してくれた。ところが、つい先月のこと、父が建築現場で大けがをして入院してしまったのだ。体が資本の仕事だけに、退院しても大工には復帰できないことがわかって、父は僕ら二人で住んでいた東京郊外のマンションを売ることを決意。そのお金を僕の大学の学費と家賃に使えと言ってくれたのだが、さすがに申し訳なくて渋谷駅近くの家賃10万円以上の高級アパートなど借りられない。そういうわけで、中野駅まで徒歩20分のボロアパートを借りたのだが、やっぱり事故物件など選ぶべきでなかった。


「もしもし、父さん、体調大丈夫?」

「あぁ、トオルか。足以外は元気だからな、入院は退屈だ……」


千葉県郊外の病院に入院中の父には、週に2、3度電話をしている。ちなみに、わざわざ千葉の田舎の病院に入院したのには理由があった。


「あと1カ月でリハビリ始まるだろ、もう少しの辛抱だよ」

「そうだな……。ところでユイは、どうしてる? トオルの食事、作ってくれてるか?」

「一度だってアパートには来ないよ……」

「そうか……さすがに千葉からだと遠いかな……」


ユイは父の彼女だ。彼女の実家が千葉だから父もわざわざ千葉の病院に転院したのだ。

今まで父は二十年近く彼女も作らず、ただ僕を食わせるために毎日まじめに働いていたが、大けがをする半年前くらいからキャバクラで働いていた女と交際を始めたのだ。父の話を聞くかぎり、大卒の才女だと言うのだが、なぜに大卒の才女がキャバクラで働く必要があるのだろうか。才能を生かして外資系企業で働いているならわかるが、そもそも、僕からすれば、その言葉遣いや服装、態度からして才女どころか、ただのヤンキー上がりのバカ女にしか見えなかった。

そして、父が大けがをするちょっと前くらいから、籍を入れることなくユイは僕ら親子が住むマンションで一緒に暮らし始めたが、こんな女が近い将来母になると思ったら憂鬱で仕方なかった。


「まじでさ……、あの女だけはやめてくれ、頼むから」

「そういうこと言うなよ……」


お母さん的存在ができれば僕が喜ぶと父は思っているようだが、もうそんな年齢でもない。むしろ、あの女がどうしてウチの父と付き合うことになったのか、何か裏があるんじゃないかと気になって仕方がなかった。でも、入院中の父を責めても可哀そうだから話題を変えるとしよう。


「それより今まで黙ってたけどさ、夜な夜なアパートにオバケが出るんだよ。マジで困ってる」

「はあっ? いい歳して小学生みたいなこと言うなよ、はっはっは」

「本当だって……。怖いから毎日友達の家に泊めてもらってるくらいなんだからさぁ……」

「ちょっと待てトオル、そんなに留守にしてばかりじゃ、ユイがアパートに来てくれてるかどうかなんて、わからないじゃないか」

「いや、まあ、そうだけど……」

「そうだけどじゃないだろ! おまえってやつは(ガチャ! ツーツー……)」


気まずくなったので電話を切った。

しかし、もうそろそろ友達の家を毎日泊まり歩くのも限界だし、かといってお金もないから引っ越しもできない。もはや覚悟を決めて幽霊退治をするしか方法は残されていなかった。

まずは手っ取り早く腕利きの霊能者に頼もうと思ってインターネットで調べると、思ったよりもお金がかかることがわかった。数万円はくだらない。そんなお金はないとなれば、勇気を出して自ら幽霊と対話して部屋から出て行ってもらうしかない。


「あの幽霊、『空を探せ』みたいなこと言ってたよな。きっと何か探し忘れて死んだんだろうな……。何を探したかったんだ? 聞いてみるか! と言っても幽霊と会話なんかできないよな。不気味だしさ。そもそも怖くて直視できないし、まじで困った……」


独り言を言っていたその時だった、玄関の呼び鈴が鳴った。


「こんな夕方に誰だろう、新聞の勧誘か?」


玄関のドアを開けるとそこに立っていたのはユイだった。歳はアラサーだと聞いていたから僕より7、8歳ほど上、20代後半くらいだろう。茶色い髪に水商売風のギラギラした派手な服。こんな風貌の若い女と玄関先で立ち話していたら同じアパートの住民に人格を疑われそうだ。


「久しぶりね」

「あ、こんちは。あの、ここだとアレなんで、よかったら中入ります?」

「うふ、今日は機嫌がよさそうね。じゃ、お言葉に甘えて……」


僕は今まで彼女ができたことがなかった。だから部屋に若い女を入れるのは初めてのことだ。しかも、さほど年齢が離れているとは言えないのに父の彼女だというのだから、いったいどんな感じで二人きりで話したらよいのだろう。面倒くさいので用事を済ませたらとっとと帰ってほしかった。


「今日はどうしたんすか? 食事なら外食で間に合ってるので……」

「あはっ、私、毎日トオルのために食事作りにくるキャラじゃないっしょ?」

「え?」

「ま、確かにてっちゃんに作ってやれって頼まれたけどさ、トオルも嫌でしょ? 母親ヅラされたくないだろうなって私も気を使ってんだから」


やっぱり、僕の部屋になんか過去一度も来たことがなかったのだ。薄々そんなことだろうと思っていたが、改めて事実を本人から聞かされて、ますます嫌悪感がつのった。


「じゃあ、なんの用すか?」

「東葉銀行の通帳を返してほしいのよね」


思い出した。ここから食費や生活費を引き出すようにと、この女のために父がわざわざ田舎の地方銀行に出向いて通帳を作ったのだ。


「通帳はユイさんが持ってるんじゃないの?」

「ううん、キャッシュカードしか持ってないの。だから通帳も返して」

「返してって、通帳は父さん名義だし……、それにカードがあればカネおろせるから問題ないでしょ?」

「いつも思ってたけどさ、トオルって細かいよねー。いいから早く返してくれる?」


不可解だった。そもそもキャッシュカードを持ってるのだから現金は引き出し放題だ。確かにカードは通帳とちがって一日の引き出し限度額はあるが、お金目当てなら毎日コツコツと限度額いっぱい引き出せばいいだけだ。いったい何の目的だろう。


「え、理由は何? まさか通帳を闇の組織とかに売ったりしないよね?」

「ちょ、ふざけんなっての、私を何だと思ってんのー? 怒るよ!」

「わかったよ、父さんの荷物探してみるからちょっと待ってて……」


その時だった。僕が立ち上がった時の振動なのか、部屋の壁に掛かっていた時計が落ちて、床に無造作に置いてあったペットボトルにぶち当たった。その拍子でペットボトルが倒れて中身が飛び散り、ユイのスカートはグレープ風味のパープルに染まった。


「ちょっと、最悪ー! どうなってんの、この時計? ていうか、床にジュースとか置かないでくれる?」

「あ、ごめん、ティッシュしかないけど、使う?」

「あぁ、もう間に合わないよ。着替えに戻んなきゃいけないから今日は帰るけどさ、通帳探しておいてね、また取りに来るから」


ユイはそそくさと帰って行った。

そういえば最近、渋谷の街中でユイに似た人物を遠目で見かけたことがあった。ちょうど父くらいの年齢の男と一緒にいた。最初は人違いだと思ったが、今日と似たような服装をしていたことから察するに、あれは間違いなく本人で、恐らくまたキャバクラに勤め始めたんだろうとピンときた。つまり、あのとき渋谷で見たのはユイとキャバクラの客で、二人は同伴(客と一緒にキャバクラに出勤すること)ってやつをしてたのだ。父と付き合い始めてからキャバクラは辞めると言っていたのに嘘だったのだ。

もちろん僕はカネのかかるキャバクラ遊びなどしたことはないが、大学の友達でキャバクラやガールズバーにハマっている岡野ってヤツがいて、彼から話を色々と聞いていた。もう少し色々とキャバ嬢の本性を知りたいと思い、今日の夜は岡野のアパートに泊めてもらうことにした。幽霊に会わなくても済むし一石二鳥だ。


「岡野さあ、キャバクラの女と付き合うってあり得る?」

「ないない、ありえない。でも、ないことはない」

「どっちだよ?」


あくまで岡野個人の感想だが、キャバクラやガールズバーの女が客に思わせぶりなセリフを吐くのは当然のことで、その心無いセリフに騙されて熱を上げ、いつの間にか本気になってしまう客はヤツらの良いカモだとのこと。その手法を理解した上で、付き合えそうで付き合えないジレンマを楽しむのがキャバクラの醍醐味だと言う。でも、付き合って実際に恋愛に発展するパターンもあるってのは、いったいどんな場合なのだろうか。


「客がカネ持ってる場合だよ。社長とか。あと芸能人な」

「ま、結局そこだよな……」


とはいえ男女の出会いなどというものは様々なので、確率は限りなく低いけど、中にはキャバクラで本当の恋、運命の人に巡り合うこともあるだろうと岡野は言う。でも、その僅かな可能性にかけて世の中の愚かな男たちは大金を湯水のように使っていくことになるのだから酷い話、いや悲しい話である。

父の場合はどうだろう。父が金を持っているとは思えないし、かといって、二人にとって失礼かもしれないが、運命の出会いのようにも見えない。判断を岡野に仰いでみたかったが、父がキャバ嬢と付き合っているけどどう思うかなんて、さすがに恥ずかしくて聞けなかった。ここは父本人に直接聞くしかないだろう。


「父さん、入院中に悪いけど、ちょっと話を聞いてくれ」


次の日の朝、アパートに戻った僕は、大いなる同情と憐みの気持ちで父に電話をかけた。もちろん、実家に帰って大人しく家事手伝いをしてるはずのユイが、キャバクラに再び勤め始めて、しかも見知らぬオヤジと楽しそうに渋谷の街を歩いていた話をするためだ。


「そうか……、そんなことがあったか……。でもそれ、同伴だろ? 仕事だからな……」

「仕事辞めるって約束したのに、そんなことさせていいのかよ?」

「オレが働けなくなってユイもカネが足りないんだろ……。オレが退院して新しい仕事に就くまで千葉の実家で暮らして……、それもしんどいだろうしな……」

「銀行のカードだって渡してるだろ、金いらないじゃん。あいつが働く必要ねーじゃん」

「トオルに通帳預けてんだから、オレの預金なんてたくさんあるわけじゃないことくらい知ってるだろ? ユイだって服やバッグ買いたいだろ……」


こんな状況を知ってもなおユイをかばう父に呆れてしまい、ついに我慢ができずにブチ切れてしまった。


「もういい加減にしてくれ、あんなキャバクラ勤めのヤンキー女、どこがいいんだよ、父さん騙されてんだよ! 目を覚ませよ!」


長らく思っていたけど言えなかったことをハッキリと言ってやった。溜まりに溜まっていた僕の心の中はすっきりとしたが、恐らく父には逆切れされることはわかっていた。もともと職人気質の口の悪い父だ。怒りに任せて親子の縁を切るくらいのことは言われるだろう。そう覚悟していたが、父の反応は僕が想像していたものよりも穏やかだった。


「トオル、いつも言ってるだろ。見た目で人を判断するなって」

「え? まあ……」

「あまり言いたくはなかったけど、オレの大工仕事だって昔は『スーツを着ない仕事』って言われて、世間では下に見られていたんだぞ」

「それとこれとは……」

「キャバクラだって立派な仕事だ。誰にも迷惑かけないちゃんとした仕事だ」

「いや、思わせぶりに人をだまして金をとる仕事だろ」

「確かにそういう女もいる。でもユイは違う。それだけわかってくれ」


父は自分の仕事とユイの仕事を同列であるかのように見ているような気がして余計に腹が立った。大工は人を騙さないじゃないか。もう話しても無駄だと思った。父は完全に『良いカモ』のパターンだ。結婚という餌で、金だけむしり取られて終わるのだ。

電話の後、一本のLINEメッセージが入った。父からだった。そこには謎のWEBサイトのアドレスがコピペされており、その下に『これを読んでくれ』と父のコメントが添えられていた。父からのLINEだったし詐欺ではないだろうとアドレスをクリックした。すると、画面に表示されたのはユイと名乗る女性のブログだった。ということは、あの女のブログだろう。数か月前くらいで更新は止まっているようだが、一番最近のブログには、ただ一行だけ、このように書かれていた。


『大切な人ができたので、今日からお店には出ません。ブログも辞めます。新しい人生が始まる予感……』


まさか、大切な人とは父のことだろうか。ブログの更新日を見ると初めてユイがウチのマンションに来た時期と重なるから、やはり父のことを指しているのだろう。

俄然、書かれている内容が気になって、時間を忘れてユイのブログを読みふけった。時は10年以上昔、ユイの大学時代から始まっていた。大学に進学したものの、親の借金で中退の危機。已む無くキャバクラで働いて授業料を捻出するが、徐々に罪悪感に苛まれるようになる。決して思わせぶりな態度をしているわけではないが、勘違いした客が自分に多くのお金を使うようになる。中には家庭を崩壊させてしまった客もいる。お金は稼げるが、罪悪感とストレスが重なり心身の不調を感じはじめて大学を中退。ついには仕事も休みがちになっていた。そんなタイミングで出会ったのが父だったと書かれていたのである。


「うわぁ、まじか……、父さんの言うことが正しかったなんて……。まさか僕が間違っていたなんて……」


父の言う通り、僕は人を見た目で判断していた。所詮、僕はまだ人を見る目がないってことだ。まだ子供ってことだ。40年以上生きてきた父に人間力、眼力ではかなわないのだ。ゴメン、事情はわかった。そう父にメッセージを送った。


さて、父の件は一件落着だ。次は自分の番だ。二人の真実の愛を見せつけられたからには、オバケが怖いなんてダサ格好悪い事は言ってられない。今週はボロアパートでずっと寝泊まりして、男の幽霊が出たら堂々と言ってやるのだ。ここはオレ様の部屋だ、さっさと出て行けと。夜になって少し心細くなってきたが、あえて電気も消し、テレビも消して、ほっぺをピシャピシャと叩いて気合いを入れて臨んだ。いつでも出てきやがれと。


「さがせ……、そら……」


あぁ、やはり、めっちゃ怖い……。出てきやがれなどと幽霊を煽るべきでなかった。今日は一段と怖い。そもそも幽霊の呪いで金縛りにかかって動けないわ、耳鳴りもキンキンするわ、唇も震えて何も言い返せない。このまま呪い殺されるのではないかというくらいの恐怖感だ。

そもそも、寝てたらいきなり布団をめくられ、白い顔が突然目の前に現れ、その悲しく暗い顔が、徐々に怒りの顔になり、なにやらブツクサと探せ探せと責め立てられる。これを怖くないという人間などいないだろう。しかも毎度このパターンだとわかっていても怖い。いや、毎度同じだから余計に気味が悪くて怖さが倍増する。

しかし、これでは何も進まない。怖がらずに幽霊の目を見てしゃべろうと思って目を開けた。


「さがせ……、そら……」


幽霊の顔をよく見ると、確かに怖い顔をして怒っているが人間の顔だ。であれば竹内力の方が怖い。そう自分に言い聞かせて冷静さを保つよう努めた。


「そ、空を見ればいいですか、空の何を探せばいいですか?」


勇気を振りしぼって幽霊に質問をしてみたが、その答えは返ってこない。何を聞いても、ただ探せと一方的に僕に脅しをかけるだけだった。いつもこの会話の通じない怖さで慌てふためき絶叫し、その拍子で幽霊は消えてしまうのだが、今日は最初に心の準備をしていたためか、幽霊の言うことを最後まで聞いてやろうという気持ちが芽生えていた。すると、今まで聞こえなかった部分が聞こえてきた。


「さがせ……、りん……」

「え、りん? リンって何ですか?」


空を探すのだとばかり思っていたが、リンとはなんだろうか。化学元素のことだろうか。


「さがせ……、ちとせ……、さがせ……、ゆい……」


ちとせ? ゆい? え、ゆい? それって女の名前? そらもりんも女の名前のこと?


「さがせ……、そら……、りん……、ちとせ……、ゆい……」


空を探せという意味ではなく、恐らくこれらの名前の女を探せと言う意味だろう。それで間違いないかと男の幽霊に尋ねたが、やはりなにも返事はなかった。まるで、恨みのエネルギーだけが幽霊映像として部屋という媒体に録画されたかのようだった。そして、不思議なことにその日以来、男の幽霊は現れなくなったのである。恐らく言いたいことを僕に全部伝えたから、満足して成仏してしまったのだろう。


最後の幽霊を見た日、僕は大学の講義をサボって不動産屋に向かった。この部屋で何が起こったか、もっと詳しく聞いてみようと思ったのだ。不動産屋は部屋に幽霊が出たことを申し訳なさそうに詫びて、男にまつわる思いがけない話を教えてくれた。


「その男性、一部上場企業のサラリーマンだったので書類審査は満点でしたけど、キャバクラ通いがバレて離婚しちゃったみたいなんですよ。養育費を払うのにお金がないから安いアパートを借りたいって本人は明るく話してましたが、まさか自殺するとはねえ……。明るく破天荒アピールする反面、ストレスたまってたんでしょうねえ……」

「あの、変な質問でスミマセン、どこのキャバクラかわかりますか?」

「さあ、そこまではちょっとわからないですね……」


あまりの偶然で鳥肌が立った。キャバクラ通いの男の幽霊があげた女の名前リストに、キャバクラ勤めのユイの名前があったからだ。もちろん、キャバクラなど星の数ほどあるのだから、ユイなどというありふれた名前のキャバ嬢も星の数ほどいることだろう。だから同一人物とは限らない。


「前の住人って、以前はどこに住んでたんですか?」

「個人情報ですけど、もう亡くなった人だから話しますけど、たしか千葉ですね」


再び鳥肌が立った。ユイの実家も千葉だ。そして不気味な偶然を思い出した。ユイがアパートに来た時に、なぜか壁掛け時計が落ちて、ユイの煌びやかな洋服をだいなしにしてしまったことがあった。もしも幽霊がユイを憎んでいたとしたら、それは偶然でも何でもなく、幽霊が引き起こした災いに違いない。これはもう少し調べてみる必要がある。幽霊も僕がこういう形で調べてることを期待して成仏してくれたのだろうから。


部屋に戻り父の荷物の中を探すと、ユイの実家らしき千葉の地方都市の住所が書かれた宅配便の領収書を見つけた。そこに書かれた住所周辺には、キャバクラはわずか1件しかなかった。早速その店に出向いて、店の前でウロチョロしていると、従業員らしき黒服を着た若い男が裏口から大きなゴミ袋を持って出てきた。すかさず、その男に話しかけた。


「あの、すみません、この店にユイって人、働いてますか?」

「え、なんで? キミ高校生? ナメたこと言ってるとケガするよ」


遠目で見たら礼儀正しそうに見えたが、近くで男の顔を見ると眉毛は無いわ、口調はオラオラ系だわ、下手なこと言ったら殴られそうな雰囲気だった。


「いえ、あの……、実は、僕のお母さんになる人かもしれなくて……」

「おぉ、まじか……」

「だから、その人の話を聞きたくて……」

「話? 今はここにはいないよ。あちこち転々としてるんじゃね? 悪さばっかするから」


男が言うには、そこそこ成績は良いが、いろんな店でトラブルを起こしては辞め、首都圏のお店を転々としているそうだ。前の店では金をだまし取ったとかで客とトラブルになったらしいが、この店でも同様の金銭トラブルを起こし、ついに客が自殺したそうな。これはまさに僕の部屋の前の住人のことだろう……。

業界にいると、このような噂をいろんなところから聞く評判の悪い女らしいが、器量がいいので店側も雇ってしまうというのだ。今は渋谷のどこかの店にいるはずだが、名前も変えてるだろうし見つけることは難しいだろうとのこと。


衝撃だった。やっぱり渋谷で見かけたのはユイだったのだ。となると、父はいよいよ騙されているかもしれない。

しかも、名前を変えているという点も引っ掛かった。それを聞いて閃いて、すぐに帰宅してユイのブログを再びパソコンで開いてみた。ブログに書かれた文面をコピーして、インターネットで検索をかけてみると、予想通りのことが起こった。タイトルと作者名を変えただけで、まったく同じ文面のブログが複数見つかったのだ。


『大切な人ができたので、今日からお店には出ません。ブログも辞めます。新しい人生が始まる予感……』


どこかで読んだフレーズだ。すべてのブログがこのフレーズで更新がストップしていた。


「ソラ、リン、チトセ、ユイ……」


ブログの作者名を挙げていくと、それは見事に男の幽霊がリストアップしていた名前とすべて一致した。これが何を意味するかは明らかだ。ユイの一人四役だ。罪悪感に苛まれながらも学業のため仕事を続けざるを得ない辛い境遇。私は悲劇のヒロインであり、本当は人の痛みを知る心優しい乙女であると客を騙すためのブログだったのだ。家庭環境も学歴も、なによりも罪悪感もすべてが嘘だったのだ。確かに、これを読んだ自分でさえも、ユイのことを同情してしまったわけだから、活字として残されたブログの効果は凄まじい。


しかし、ユイが金のために父を騙していたとすれば、あの時に通帳をよこせと言った意味は何だったのだろうか。なにか高い買い物でもした形跡があるのだろうか。父の荷物から通帳を取り出して開くと、ここ数カ月ほど記帳されないままだったので、さっそくATMへ向かった。

しかし、記帳された入出金履歴に、これといって高価な買い物の形跡はなかった。月に一度降ろされていた数万円と公共料金。これはユイの生活費だろうけど、妥当な金額だった。

他に怪しいものはないか、探してみると、毎月引落されていた1万円という生命保険が2件見つかった。合計2万円なら決して高い金額ではなさそうだが、念のため、ネット生命保険で見積もりをしてみたら驚いた。もしもこれが掛け捨て保険の場合、受け取り死亡保険金は2億円にもなるのだった。


「そうか、これを見られたくないから、通帳を返せって言ってきたわけか。うわあ、やばい、めっちゃ犯罪の臭い……」


憂鬱になってきた。生命保険目当てに父を殺そうとしたのではないかという可能性さえ浮上したのだ。さすがにそれは疑い過ぎだと思ったが、父が現場の屋根から落ちて大けがをしたのはユイが家に来てからだ。その時のことを思い出すと、父は常に睡眠不足で眠いと言っていた。ユイと同居し始めて色々とあるから睡眠不足なのだろうと勝手に推測していたが、そうじゃないかもしれない。

父の荷物の中には、事故当日に父が現場に持って行ったリュックがそのまま残されていた。その中には、その日に食べ終わった弁当箱と水筒もそのまま入っていた。意を決して、これらを警察に持ち込んで、すべての事情を話して鑑定してもらうことにした。すると、嫌な予感は的中し、水筒から睡眠薬の成分が検出されたのだ。その後、ユイがどうなったかは書くまでもないだろう。


数か月後、父は退院したが、足のケガのため大工の仕事はできなくなってしまった。でも家を作る段取りやノウハウを知っていたので、家の建築現場の監督として都内の小さな建築会社で働くことが決まった。そして再び広いアパートを借りて父と一緒に暮らし始めた。

失うものはあまりにも大きかったが、あの時、殺されずに済んだだけでも神様に感謝だろう。


「あのスナックのママ、オレのこと好きみたいなんだよなぁ。トオルも社会人になったし、そろそろオレも自由にやろうと思うけど、どう思う?」


いつか親子の縁を切る日が来るかもしれない……。

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